スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

秋華賞&結論

2020-10-18 19:10:28 | 中央競馬
 第25回秋華賞
 ムジカとソフトフルートは立ち上がってしまい2馬身の不利。すぐに先頭に立ったマルターズディオサの逃げ。行きたがるのを宥められつつホウオウピースフルが2番手。3番手がウインマリリン。4番手にミヤマザクラ。5番手のリアアメリアまでは差がなく続きました。2馬身差でサンクテュエールとフィオリキアリが好位を追走。2馬身差でミスニューヨーク。3馬身差でクラヴァシュドールが後方集団の一番前。アブレイズがその後ろで,ウインマイティー,マジックキャッスル,デアリングタクトの3頭は集団。さらにムジカ,パラスアテナ,オーマイダーリンの3頭も集団で続き,後方2番手にダンツエリーゼ。最後尾にソフトフルートという隊列に。前半の1000mは59秒4のハイペース。
 3コーナーを回るとホウオウピースフルは苦しくなってウインマリリンが2番手に。リアアメリアはその外まで追い上げ,デアリングタクトもその直後まで位置を上げてきました。直線に入ってウインマリリンが粘るところ,馬場の三分どころまで出されたデアリングタクトが伸び,残り200mを過ぎたあたりで先頭に立つと,そのまま抜け出して快勝。向正面でデアリングタクトの内に位置し,直線もそのままデアリングタクトの内から伸びてきたマジックキャッスルが1馬身4分の1差で2着。3着はデアリングタクトの外から並んで追い込んできたパラスアテナとソフトフルートの接戦。写真判定となりソフトフルートが4分の3馬身差で3着。パラスアテナはハナ差で4着。
 優勝したデアリングタクトはここがオークス以来の実戦。デビューからの連勝を5まで伸ばし,牝馬三冠を達成する大レース3勝目。京都の2000mというのは,追い込むタイプの馬にとってはあまり有利な舞台設定ではありませんが.この馬は前が残る競馬だった桜花賞で1頭だけ追い込んできて抜け出したように,3歳牝馬の中では能力に違いがあります。ここはわりと早い段階から動くことで実力をみせつけました。この馬がハイペースにも関わらず早めに動くレースをしたことによって,後方に位置していた馬が上位を独占することになったといえるでしょう。父はエピファネイア。母の父はキングカメハメハ。祖母は2006年にクイーンステークスと府中牝馬ステークス,2007年に府中牝馬ステークスを勝ったデアリングハート
 騎乗した松山弘平騎手はオークス以来の大レース5勝目。秋華賞は初勝利。管理している杉山晴紀調教師はオークス以来の大レース4勝目。秋華賞は初勝利。

 人間が無限知性intellectus infinitusを十全に認識するcognoscereことができるかどうかということが,人間の精神mens humanaのうちにある神の観念idea Deiが,どのように関連付けられる神の観念であるのかということに還元することができるということは,もしもそれが絶対に無限な実体substantiaであるとするなら,人間は無限知性を十全に認識することができないということであり,もしも神を延長の属性Extensionis attributumで説明される限りでの神,あるいは延長の属性を対象ideatumとした思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りでの神とみるなら,人間はそれを十全に認識することができるということである意味になります。ですから,どちらの考え方を採用するのかによって,人間は無限知性を十全に認識することができるということもできるし,できないということもできるのです。そしてもしもできるとしたなら,人間は思惟の属性の間接無限様態についても十全に認識することができるということになるでしょう。逆にできないというなら,思惟の属性の間接無限様態を人間が十全に認識することは不可能であるということになります。
                                   
 僕自身の見解opinioについて示すなら,僕は絶対に無限な実体としての神を人間は十全に認識することはできないという点を重視します。すなわち,人間が思惟の属性の直接無限様態である無限知性を十全に認識することは不可能であり,よって思惟の属性の間接無限様態を認識することはできないと結論します。これはあくまでも僕の結論であり,異なった結論を出すことにも合理性はあるということは認めますので,そうした結論に対して強く反対するということはしません。ただ,僕自身が結論を出すのにはそれなりの理由がありますから,それについては説明しておきましょう。
 まず,神が絶対に無限な実体であるということは僕たちは理解します。同時に,それら各々の属性に対応する思惟の属性に直接無限様態である無限知性があるのでなければならないということも理解します。そうであるならば実在的に区別される各々の無限知性の総体が,真の意味で無限知性といわれなければならない筈だと僕は考えるのです。この場合は人間には認識することができない無限知性が全体の無限知性に含まれることになります。
コメント
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