スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&精神の制約と条件

2023-04-27 19:29:56 | 将棋
 24日に指された第94期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は永瀬拓矢王座が2勝,佐々木大地七段が1勝。
 振駒で佐々木七段の先手となり相掛かり。早い段階で先手が工夫を凝らしたのに対し,後手の永瀬王座が対応に苦慮して時間を使いながらの駒組が長く続きました。
                                        
 第1図となって後手から☖3五歩と仕掛けていくことに。これは放置しておくと先手からの攻めが厳しいとみたための判断で,それ自体は正しかったようです。ただこの局面自体が角の働きと玉の強度に差があって,残り時間も先手の方が多いということで,実戦的には後手の方が厳しかったようです。相掛かりから駒組が長く続くということ自体がそれほど多くありませんが,その駒組の段階で事実上の差がついてしまい,そのまま終局というのはかなり珍しい部類の将棋であったように思います。
 佐々木七段が挑戦者に。タイトル戦出場は初めて。第一局は6月5日に指される予定です。

 気を付けておきたいのは,この種の条件や制約というのは,腕と脚およびその運動motusというような,人間の身体humanum corpusに課せられたものには限らないという点です。人間の精神mens humanaにもこのような条件と制約があるのであって,精神に関連する自由libertasもまた,現実的に存在する人間にとっては,その条件および制約の下での自由です。このことは,人間の精神がその人間の身体の観念ideaであるということから明白です。
 よってここで國分がいっていることは,僕がいう受動的自由ともいくらかの関係を有しているといえます。僕たちはある物体corpusから刺激を受ければその物体を表象します。そしてその表象像imaginesに対して何らかの感情affectusを有することもあります。こうしたことは現実的に存在する人間の身体にとっての条件であり制約であるともいえますが,同時に人間の精神にとっての条件でありまた制約でもあるといえます。いい換えればこうした表象imaginatioとか感情というのは人間の精神のうちに必然的にnecessario生じるものであって,それを現実的に存在するその人間が阻止するということはできません。つまり現実的に存在する人間は何を表象して何を表象しないのかということ,もっと広くいえば何を認識して何を認識しないのかということを自由に選択するということができるわけではありません。同様にあの感情を感じこの感情は感じないというように,自身の感情を自由に制御することができるわけではないのです。したがってこうしたことを現実的に存在する人間に対して禁ずることはできません。現実的に存在する人間に対してある特定の認識cognitioやある特定の感情を禁ずるということは,100m先にあるものを動かずに手を伸ばして取れと命じているのと同じことなのです。
 よって,人間についていわれる自由,これは受動的自由ではなく能動的自由ですが,自分に課せられている条件と制約の下で,それらの条件および制約に従って,自分自身の力potentiaをうまく発揮するということになります。そしてこの力というのは,腕を動かしまた脚を動かすという身体的な力と同時に,自分自身の精神を十全な原因causa adaequataとして事物を認識するcognoscere力との両方を意味します。条件と制約の下での力が,スピノザのいう自由です。
コメント
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