古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

糸川英夫先生

2018-01-06 | 読書

「ニッポン宇宙開発秘史」(的川泰宣著、NHK新書)を読んだ。面白いエピソードが沢山載っていました。」

 まずは、日本の宇宙開発の父、糸川英夫の発想をめぐって。

 糸川先生は、大学卒業後、中島飛行機に入社する。戦闘機隼の開発に関わる。しかし、戦後日本は飛行機研究を禁止される。飛行機の翼の設計をやっていたので、「振動」に

詳しくなり、音響学を始める。ハカセ論文は「音響学」です。更に、脳波が波であることから脳波の研究もした。音響学や脳の研究を経てロケットの開発に足を踏み入れる。長さ23センチの「ペンシルトケット」の研究から始めた。最初のペンシルロケットは上向きでなく水平方向に打ち出した。

 当時の日本には性能の良いレーダーがなかった。ロケットの位置や速度をモニターするにはレーダーで追いかける必要がある。しかしレーダーの開発には1年以上かかる。そこで、「横に向かって打てばレーダーは要らない。高速度カメラを使って工夫すれば、水平方向に発射してもロケットの飛び方のデータはとれる」。

1955年4月12日、ペンシルロケットの発射に成功した。

 4月12日は、1961年にガガーリンが宇宙に飛び立ち、1981年にはスペースシャトルが初めてとんだことから「宇宙飛行の日」とされているが、4月12日に世界で一番早く空を飛んだのはペンシルッロケットでした。

ペンシルケットが役目を終え。その技術は「ベビーロケット」に引き継がれました。二段式のロケットで、1955年8月に初発射が行われた。

 1957~1958年の国際地球観測年(IGY)で、日本のロケットが国際デヴューします。IGYに合わせて、「100kmの高さに到達するロケットを目指したが、IGYまで1年を切ってもまだ10㎞も打ちあがらない。燃料がネックでした、日産自動車と東大の共同開発でコンポジッド推進剤が開発されました。これを詰めたカッパロケットが打ちあがったのは1958年4月のことでした。9月には60kmに到達し、温度、圧力、風の流れノデータが採れ、日本チームはそれらのデータをひっさげIGYに滑り込みで参加できた。IGYでロケットを打ち上げられたのは、アアメリカ、ソ連、イギリス、そして日本だけでした。結果的に世界四強の仲間入りができた。カッパロケットは、1960年7月には200km近くの高度を達成できました。新しい発射場がひつようになり、全国をくまなく行脚して鹿児島県内之浦を選定し、1962年2月から着工した。

1960年10月のことです。鹿屋に降り立ちタクシーで内之浦に行こうとしました。

 運転手が露骨に嫌がりました。当時は道gまだ整備されてなくて、小石がはねてボヂーに傷がつくのを嫌がったらしい。「路を知らない」とまで言いました。糸川先生は「じゃあ私が運転します」と運転席に座ってしまった。内之浦で待ちわびていた町長たちは、運転席から市川線sデイが降りてきたので、腰を抜かした。

 内之浦という街は、お椀を伏せたような山岳地帯で辺り一面丘だらけ。普通の考えでは発射場に向かない調査のと通、尿意を催した糸川先生は小高い丘に立ち、舘翔敏を始めた。そして「よしここに決めた」とつぶやいた。

 同公社が「こんな山岳異体に発射場はできない。amerikaやソ連みたいに砂漠のような場所に造るのが常識です」と説得したが、「あなた、人のまねしてどうするの」と聞く耳持たない。

世界初の山岳地帯の発射場が内之浦に完成塑いた。現在では、スウェーデンやノルウェイなど、山岳地帯の発射場は珍しくない。

 内之浦には、現在、糸川先生の生誕100年を記念した銅像が建っている。筆者は「あの立小便した場所に糸川先生の小便小僧を創るべきだ」と提案したが、却下されたそうです。

 内之浦に行ってしばらく後、「日本も人工衛星を打ち上げられないか」という構想が出てきた

 人工衛星の打ち上げにはラムダシリーズと名付けられたロケットが使われた。通常のロケットと人工衛星を摘んだロケットとは、まるで話が違う。後者では、人工衛星を地球周回軌道に乗せる必要がある。当時の日本のロケット開発には、まだ制御技術がなかった。また予算もなくて複雑な制御システムは作れない。

 打ち上げたロケットは、下部のロケットを切り離しながら上昇し、最後には最終段のrケットと衛星だけとなる、そこで姿勢を水平に制御して軌道に打ち出す。つまり、最後の姿勢を水平にするところだけ制御できれば位と考えた。1970年2月11日、打ち上げられ成功。日本

初の人工衛星が誕生した(おおすみ;内之浦のある大隅半島に因む)。

以後、「おおすみ」に続けとほとんど毎年一度ずつ人工衛星が打ち上げられた。毎年一度というのは、予算が一基しか出なかったからです。

糸川先生は67年3月退任する。その後貝谷八重子さんに入門しバレイをはじめたことは有名です。趣味の話を続けると、糸川先生はチェロ好きで海外出張も必ずチェロを持っていきました。一人で二つの席を取り、自分の横の席にチェロを置く。しかし出張が重なると、二人分の座席をとる余裕がなくなる。そこで組み立て式のチェロを造りそれを持っていくことにした。

 戦闘機を造り、ロケトを開発し、チェロをたしなみ、バレイを習う。まったくユニークな人です。「130歳まで生きる」と言っていたが1999年、86歳で世を去りました。ある日、ガードレールを飛び越えてタクシーに乗ろうとして骨を折ってしまった。それが原因で体が動かなくなり、暫くして亡くなったという。

尚「はやぶさ」が探査対象とした小惑星「イトカワ」は「イトカワ」の名がつく前、「1998SF36」のコードネームがあった。これを発見したのはMITのグループで、小惑星の命名権は発見者にあります。そこで「はやぶさ」プロジェクトでは、MITのグループに連絡を取り、命名権を譲ってもらい、「イトカワ」と名付けたという。

 

「ニッポン宇宙開発秘史」(的川泰宣著、NHK新書)を読んだ。面白いエピソードが沢山載っていました。」

 まずは、日本の宇宙開発の父、糸川英夫の発想をめぐって。

 糸川先生は、大学卒業後、中島飛行機に入社する。戦闘機隼の開発に関わる。しかし、戦後日本は飛行機研究を禁止される。飛行機の翼の設計をやっていたので、「振動」に

詳しくなり、音響学を始める。ハカセ論文は「音響学」です。更に、脳波が波であることから脳波の研究もした。音響学や脳の研究を経てロケットの開発に足を踏み入れる。長さ23センチの「ペンシルトケット」の研究から始めた。最初のペンシルロケットは上向きでなく水平方向に打ち出した。

 当時の日本には性能の良いレーダーがなかった。ロケットの位置や速度をモニターするにはレーダーで追いかける必要がある。しかしレーダーの開発には1年以上かかる。そこで、「横に向かって打てばレーダーは要らない。高速度カメラを使って工夫すれば、水平方向に発射してもロケットの飛び方のデータはとれる」。

1955年4月12日、ペンシルロケットの発射に成功した。

 4月12日は、1961年にガガーリンが宇宙に飛び立ち、1981年にはスペースシャトルが初めてとんだことから「宇宙飛行の日」とされているが、4月12日に世界で一番早く空を飛んだのはペンシルッロケットでした。

ペンシルケットが役目を終え。その技術は「ベビーロケット」に引き継がれました。二段式のロケットで、1955年8月に初発射が行われた。

 1957~1958年の国際地球観測年(IGY)で、日本のロケットが国際デヴューします。IGYに合わせて、「100kmの高さに到達するロケットを目指したが、IGYまで1年を切ってもまだ10㎞も打ちあがらない。燃料がネックでした、日産自動車と東大の共同開発でコンポジッド推進剤が開発されました。これを詰めたカッパロケットが打ちあがったのは1958年4月のことでした。9月には60kmに到達し、温度、圧力、風の流れノデータが採れ、日本チームはそれらのデータをひっさげIGYに滑り込みで参加できた。IGYでロケットを打ち上げられたのは、アアメリカ、ソ連、イギリス、そして日本だけでした。結果的に世界四強の仲間入りができた。カッパロケットは、1960年7月には200km近くの高度を達成できました。新しい発射場がひつようになり、全国をくまなく行脚して鹿児島県内之浦を選定し、1962年2月から着工した。

1960年10月のことです。鹿屋に降り立ちタクシーで内之浦に行こうとしました。

 運転手が露骨に嫌がりました。当時は道gまだ整備されてなくて、小石がはねてボヂーに傷がつくのを嫌がったらしい。「路を知らない」とまで言いました。糸川先生は「じゃあ私が運転します」と運転席に座ってしまった。内之浦で待ちわびていた町長たちは、運転席から市川線sデイが降りてきたので、腰を抜かした。

 内之浦という街は、お椀を伏せたような山岳地帯で辺り一面丘だらけ。普通の考えでは発射場に向かない調査のと通、尿意を催した糸川先生は小高い丘に立ち、舘翔敏を始めた。そして「よしここに決めた」とつぶやいた。

 同公社が「こんな山岳異体に発射場はできない。amerikaやソ連みたいに砂漠のような場所に造るのが常識です」と説得したが、「あなた、人のまねしてどうするの」と聞く耳持たない。

世界初の山岳地帯の発射場が内之浦に完成塑いた。現在では、スウェーデンやノルウェイなど、山岳地帯の発射場は珍しくない。

 内之浦には、現在、糸川先生の生誕100年を記念した銅像が建っている。筆者は「あの立小便した場所に糸川先生の小便小僧を創るべきだ」と提案したが、却下されたそうです。

 内之浦に行ってしばらく後、「日本も人工衛星を打ち上げられないか」という構想が出てきた

 人工衛星の打ち上げにはラムダシリーズと名付けられたロケットが使われた。通常のロケットと人工衛星を摘んだロケットとは、まるで話が違う。後者では、人工衛星を地球周回軌道に乗せる必要がある。当時の日本のロケット開発には、まだ制御技術がなかった。また予算もなくて複雑な制御システムは作れない。

 打ち上げたロケットは、下部のロケットを切り離しながら上昇し、最後には最終段のrケットと衛星だけとなる、そこで姿勢を水平に制御して軌道に打ち出す。つまり、最後の姿勢を水平にするところだけ制御できれば位と考えた。1970年2月11日、打ち上げられ成功。日本

初の人工衛星が誕生した(おおすみ;内之浦のある大隅半島に因む)。

以後、「おおすみ」に続けとほとんど毎年一度ずつ人工衛星が打ち上げられた。毎年一度というのは、予算が一基しか出なかったからです。

糸川先生は67年3月退任する。その後貝谷八重子さんに入門しバレイをはじめたことは有名です。趣味の話を続けると、糸川先生はチェロ好きで海外出張も必ずチェロを持っていきました。一人で二つの席を取り、自分の横の席にチェロを置く。しかし出張が重なると、二人分の座席をとる余裕がなくなる。そこで組み立て式のチェロを造りそれを持っていくことにした。

 戦闘機を造り、ロケトを開発し、チェロをたしなみ、バレイを習う。まったくユニークな人です。「130歳まで生きる」と言っていたが1999年、86歳で世を去りました。ある日、ガードレールを飛び越えてタクシーに乗ろうとして骨を折ってしまった。それが原因で体が動かなくなり、暫くして亡くなったという。

尚「はやぶさ」が探査対象とした小惑星「イトカワ」は「イトカワ」の名がつく前、「1998SF36」のコードネームがあった。これを発見したのはMITのグループで、小惑星の命名権は発見者にあります。そこで「はやぶさ」プロジェクトでは、MITのグループに連絡を取り、命名権を譲ってもらい、「イトカワ」と名付けたという。

 


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