古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

原発危機 官邸からの証言

2015-01-08 | 読書
『原発危機 官邸からの証言』(福山哲郎著、ちくま新書、2012年8月刊)は以下の文で始まります。
【2011年3月15日未明、午前4時17分。
清水東電社長は、官邸5階の総理執務室にたったひとりで入ってきた。社長の横に海江田大臣、向かい側には枝野官房長官、その横に藤井官房副長官、松本防災大臣、細野剛志、寺田学両補佐官。伊藤内閣危機管理官。そして私(福山官房副長官)。
管総理が
「連日、ご苦労さまです。結論から申し上げます。撤退などありませんから」
清水社長はややうなだれながら
「はい分かりました」と頭を下げた。』
官邸に詰めていた当時官房副長官が、原発事故を語る本です。

国民へのコミュニケーシヨンに触れた章がありました。
【「ただちに人体に影響を及ぼす数値ではない」という枝野官房長官の会見における放射能評価についての発言は、官邸発の情報に対する国民の信頼を損ねた象徴的な言葉として批判された。・・・・(しかい)私はそれ以上の的確な表現を今も思いつかない。
 しかし、受け手には「ただちに及ぼさないということは、一定の時間が経てば人体に影響を及ぼすのか」という疑問が生じた。また、「すぐに影響のでない低線量被曝について何も言っていないに等しい」と、かえって政府は情報を隠蔽しているのではないか」との疑念さえ抱かれた。】
 実際、この官房長官の会見を聞いたとき、いったいどういうことを言う二だろうと思いました。低線量被曝は、何年か経った後発病するのだから、「ただちに人体に影響を及ぼさない」のは当たり前だ。国民に真実を語らない枝野という男は政治家の風上におけないと当時思った次第です。
批判があった総理の現場視察についてこう述べる。
【総理補佐官は「総理が行けば被災地に迷惑をかけることになるうえ、東京に戻るのは午後になっては困る」と上空からの視察にとどめるよう説得した。】
 この前後の記述を読むと、首相が視察視察を決断したのは、当然だと感じます。
原子力委員会も保安院も、総理に必要な情報を何も伝えていないのです。「何が起こっているのか、総理は全くわからない。せめて現場を見て判断したい、と管さんが思ったのは、むしろ当然です。
 原発事故体験を踏まえてエネルギー政策の考え方が変わったのです。
 【管総理は任期中、大きな節目ごとに記者会見をしてきた。その中で、エネルギー政策をめぐって大きな意味を持つ会見が3つあったように思う。
ひとつめは、2011年5月6日、浜岡原発の運転停止要請
 二つ目は、5月10日、再生可能エネルギーの利用と省エネルギーによって電力構成を見直すと宣言した会見。記者の質問に答えてエネルギー基本計画の見直しにも言及した。
 3つ目は、7月13日、「原発に依存しない社会をめざすべきと考える」
まずは、浜岡原発の運転停止。
 5月5日、海江田計算大臣と細野補佐官は視察のため浜岡原発を訪れていた。視察から戻ってすぐに、彼らは「浜岡を止めましょう」と提案した。
 当時の海江田大臣によれば、浜岡は地理的状況が福島原発と似ており、津波がきたら目の前にある砂浜の砂が原子炉に入ってしまう。すると、オペレーシヨンは福島以上にやりにくくなる。防潮堤や電源車の問題にも対応しなければならない。それができない限りは止めましょう、ということだった。
 法律的に可能かどうか、官房長官は秘書官に命じて六法全書で条文を確認させた。国に原発を止める権限はなかった。そのため法律を尊重して停止の「要請」をすることになった。
 当時、これは横須賀の米軍基地の要請によるという噂(真偽は定かでない)がありました。
 次の節目となる会見は、浜岡停止要請の4日後、5月10日だった。総理の宣言した「日本の電力構成の見直し」は、これまでの「原子力」「化石エネルギー」という二本柱に「再生可能エネルギー」「省エネルギー」の二つを加えた四本柱への転換を表明したものだった。
これらの会見で語られた原発に関する方向転換は、安倍内閣で完全に方針転換されているみたいです。
「フクシマはまだ終わっていない」読み終わっての感想です。