古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

3200対0

2012-02-27 | 経済と世相
 先日(22日だったと思う)、NHKのニュースで「フクシマ事故に関して、米国政府の委員会の公文書(議事録)が公開された」という報道があった。3200ページに及ぶという。日本政府は先だってフクシマ事故に関する委員会の議事録が作成されていなかったと発表した。
 だから、ゼロページである。3200対0、この違いは一体どういうことだろうと、愕然としました。
 日本で起きた事故なんです。米国ではこの事故に対応する委員会の議事録が3200ページ。日本では、議事録なし。将来フクシマを研究する日本の学者は、米国の公文書を見ないと、研究が出来ない!
 米国では、政府は国民の税金で運営されているので、政府の行動を説明する公文書を残し、国民に公開されなければならない、というのが常識。ところが、日本では、後から官僚の決定にミスがあったと疑われかねない文書は、作成しないし作成しても隠してしまう。
 この重大な問題に関して、マスコミはどう報道しているかと、25日図書館で23日の有力紙を見てみました。
 朝日、毎日、読売と見たのですが、わずかに朝日が23日朝刊7面に載せているだけでした。その朝日の記事も、米国公文書の内容が、日本政府の発表と異なる点(例えば日本では20km、30km地点の避難地域指定だったが、米国は80km地点まで避難指示したとか)を簡単に報じているだけで、3200ページ対0ページについては、全く触れられていない。
 新聞の価値は、どの記事が国民にとって重大かを判断して記事の構成をすることにある、と私は考えます。新聞各紙の、記事の重大性を判断する基準が間違っている!ないしは、霞ヶ関に遠慮して、官僚のご機嫌を損ずる記事を載せない?
 これは絶対に一面報道すべきだと愚考します。因みに23日の朝日の一面記事は、「フクシマの津波防波堤の工事が一向に進まない」というどうでもいい記事です(どうでもいいというのは、フクシマ事故の原因が津波にあるとは思えないからです。東電がそういっているだけです。東電は賠償責任をなるべく避けたいため、原子力賠償法で「天変地異の場合には賠償責任を免れる」旨の記載があるので、そういっているだけだと思います)。
 どうしてこうなるのか?日本の民主主義の生成の歴史に起因すると思うのです。
 明治20年代、国会と内閣の制度が出来たとき、山県有朋らは、国民の選挙で選ばれた議員たちが国を誤りなく運営することが出来るなどということは信じられなかった。
 でも、一応民主主義の形態を取らないと、諸外国が相手にしてくれない。そこで、、内閣がおかしくなっても国家が運営できるシステム、官僚制度を作った。そして生まれたのが「官僚は無誤謬」という考え、優秀な人材を選んだ官僚の行為に誤りがあるはずがない。このことから、官僚の誤りを指摘できるような書類はあってはならない、となった。
 国民がカネを出し合って政府を運営するのだという欧米諸国とは、「公文書公開」の考えがまったく違うのだと、愚考する所以です。