古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

なかにし礼の歌謡曲論

2012-02-05 | 読書
『歌謡曲から「昭和」を読む』(なかにし礼著、11年12月刊、NHK新書)を読みました。以下、印象に残った記述。
【まったく不思議な符合としか言いようのないのだが、歌謡曲は初めから終りまで、「昭和」という時代とぴったり重なっている】
【歌謡曲が成立するためには、多くの人々に歌を届けるメデイヤの整備が不可欠だが、それが大正末から昭和初年にかけて行われていた。】。
(~昭和20年)【軍歌こそは戦争の時代を代表する歌謡曲であり、これを無視して歌謡史は成り立たない。】
【戦後の歌謡界は、そのインフラとテレビという新しく強力なメデイヤを媒介として発展してゆく。そして昭和30年代後半、音楽出版社というまったく新しい業態、システムの導入により、若く能力のあるフリーの作家たちが歌謡曲製作に参加したことで、昭和40年代~50年代には一挙に歌謡曲の黄金時代を迎えることになる。」
【歌謡曲とは何よりも流行歌のことである。すなわち、「ヒット(流行)をねらって売り出される商業的な歌曲」だ。・・・とはいえ、ヒットをねらって星の数ほど売り出される歌の中で、ほんとうにヒットするのはごくわずかである。私の場合なら、25年間の作詞家生活で作詞した歌は約3000曲(訳詩をあわせれば4000)、そのうちヒットしたといえる曲は約300、今もカラオケで歌われる曲は百曲ぐらいか。】
【ヒット曲と埋もれる曲を分かつものは何か。・・・結果的にではあるが、大ヒットした曲は多かれ少なかれ、時代をつかんでいるということだ。】
【1970年代の歌謡曲の黄金時代は同時に、歌謡曲が終焉へと向かう道のとば口にもあたっていた。そのキーワードは「デジタル」であり、具体的にはコンパクト・デイスクの爆発的浸透である。
 昭和57年に商品化されたCDは、瞬く間に音楽のあり方を変えた。製作コストの安さから新しいバンドの自主制作CDなどが大量に出回ると、若者はもうテレビの音楽番組などを見ることなく、一人部屋にこもって自分の好きな音楽だけを聴くことができるようになった。すると、それまで家族で音楽番組を見ることによって保たれていた音楽の共有性が消滅する。つまり、家族が共通で知っている曲がなくなってしまう。当然、全国の誰もが知っているような曲などありえない。・・・それは、ヒットすることをめざしてつくられる歌謡曲にとっては、目的そのものがあらかじめ奪われることである。・・・
 こうして、昭和天皇が逝去した昭和64年1月の前後に、歌謡曲もまた終焉した。
思えば、この2年前の昭和62年7月には、映画と歌謡曲を股にかけて活躍した「昭和の大スター」石原裕次郎が逝った。また、この年平成元年の6月には、「歌謡曲の女王」美空ひばりが逝った。・・・それは「昭和」の終焉と軌を一にした。
美空ひばりに名称をささげるなら、「演歌の女王」などという狭い名称ではなく、「歌謡曲の女王」や「昭和の歌姫」といった呼び名がふさわしい。「演歌」とはおそらく昭和40年代の半ばに、いわゆる日本調の歌謡曲のことを誰かが呼び始めた名称である。歌謡曲の一部だ。ひばりの歌は、その狭い曲種には入らないものが多い。」
歌謡曲とは、初めから終わりまで特殊昭和的現象だったというほかない。】
 コンパクト・デイスクという技術が、歌謡曲を変えたという指摘は「目から鱗」でした。

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