古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

日本の国際競争力

2004-04-07 | 読書
 「日中宇宙戦争」(文春新書)には、こんな記載もありました。
【世界経済フォーラムが102ヶ国を対象にまとめた2003年版の報告書で、日本
の国際競争力は11位に位置付けられた。1位はフィンランド、2位はアメリカ、3
位スェーデン、4位台湾、5位スイス、6位シンガポールと続き、10位はオースト
ラリヤである。
 順位決定には、世界各国から104の研究機関が参加しているという。評価の対象
は、技術力、マクロ経済環境、公的経済部門の3部門である。
 このうち技術力では、日本の国際競争力は第5位という評価を得ている。しかし、
マクロ経済環境では、第24位で、公的経済部門では第30位だった。
 さらに政治家に対する信頼度では、第51位。競争力の観点からみた政府補助金の
使い方は90位となっている。そのうえ参考指標としてあげられている「銀行の健全
性」においては、調査対象になった102ヶ国中、なんと102位にランクされたと
いう。
 かなり厳しい数字が並ぶ報告書に、納得できない人もいることだろう。しかし、技
術力が高く評価されるいっぽうで、経済と政治が低いランクになっているのは、世の
中を見渡せば誰しもうなずけるのではないだろうか。2002年の日本の総合評価が
第13位だったことから、メデイア各紙は「順位の昇格」をそろって見出しにあげて
いたが、見方をかえれば政治と経済が技術力の足を引っ張っているということであ
る。】
 こういう記事を読むと、「こうした順位付けにどんな意味があるのか?」と疑問に
思う向きもあるかと思います。実際、11位だろうが13位だろうが、そのことが日本
人の暮らしを変えるわけではない。
それに、グローバル化の時代、国の平均値にどれほどの意味もありません。自分の勤
めている会社の国際競争力は、自分の実入りに関係しますが、日本企業の平均値の競
争力は自分にも誰にも関係してこない。
 しかし、日本人の特性というものが、ランキングの結果に出てくることは否定でき
ないのでは?

 この点で、糸川博士が主流として遇されることのなかったことも、日本社会のとい
うか、日本人のというべきか、仲間の特異能力を認めたがらないという特性に由来す
ると愚考します。

歳々年々人同じからず

2004-04-06 | 旅行
 4月も6日、春です。学校も新学期、午前は放送大学に行きました。学生証の更新
(2年毎)をしなければなりません。写真屋で顔写真を撮って、大学の窓口で、学生
証に写真を貼ってもらいました。その後、旧学生証と比べて思わず愕然としました。
実は、2年前、学生証を作る時、写真を撮るのが面倒で、残っていた昔の写真(10
年前のもの)を窓口に出したのです。ですから、新学生証の写真と旧学生証の写真の
間には10年の隔たりがあった。
「えっ、こんなに年とったの!」と愕然としたのです。自分の顔って、男の場合、あ
まり気にしていないので気づかなかったのですが、60歳を越しての10年は争えな
いものです。

 で、午後の話です。桜を見に行きました。友人と名鉄岩倉駅前で12時半に落ち合
い、五条川の桜を見物です。ここの桜は壮観です。岩倉から犬山まで、五条川の両岸
は桜で埋め尽くされていました。
 犬山までは行かなかったのですが、江南市までおよそ6Km、途中蕎麦屋と喫茶店
に立ち寄りましたが、桜並木を歩きました。春、名古屋を訪れる機会がありました
ら、
岩倉の五条川、桜の名所をご記憶ください。下手な写真ですが、桜の雰囲気を見てい
ただくため、写真添付しました。
 50年前の高校生のときに、「年々歳々花あい似たり、歳々年々人同じからず」と

いう漢詩を学んだ記憶がありますが、10年前も、今年も桜は同じように咲くのです
が、それを見る私は、10年前の私ではないのですね。




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銭博士と糸川博士

2004-04-06 | 読書
 昨年10月、中国が有人宇宙船「神舟5号」を打ち上げたことは、皆さんご存知の
とおりですが、この間の経緯を論じた「日中宇宙戦争」(中野・五代著、文春新書)
を読んでみました。
 特に興味を感じた個所が二点。一つは、両国における社会の人材に対する評価、も
う一つは、日本の国際競争力に関する世界の評価です。

【1953年、糸川博士はアメリカに留学するが、世界の航空宇宙情勢を知り、愕然
とした。そこで、航空機では米欧には追いつけないなら、ロケット推進による超音速
航空機を開発すべきだと発表したのが、東京・ニュウヨーク間を3時間で飛ぶ構想で
ある。・・・後にレーガン大統領が提唱した「スペースプレーン」とまったく同じ構
想だった。
 実際には、当時の日本ではスペースプレーンなど夢のまた夢である。しかし、鉛筆
のような「ペンシル」は、具体化へ向けての一歩だった。1955年の東京・国分寺
でのペンシル・ロケット水平発射、秋田県道川海岸での打ち上げ試験により、戦後の
ロケット研究がスタートしたのだ。
 しかし、失敗に次ぐ失敗と、マスメデイアからの個人攻撃により、7年後には手を
引いた。その後は、システム管理工学を手がけていたが、宇宙開発には二度と口を出
そうとしなかった。】

【糸川博士とほとんど同年輩の銭学森博士は、中国ロケット開発の祖というよりも、
核・ミサイルも含めた巨大軍事技術の指導者であり、巨大プログラムの中枢で長期間
にわたって活躍してきた。2001年の暮れには、老齢の銭博士の自宅に、江沢民主
席が自ら見舞いに訪れたという。
 銭学森博士は、1934年に・・上海交通大学を卒業した後、アメリカに留学して
いる。・・・博士は、第二次世界大戦中にはアメリカ国防科学技術諮問委員会のロ
ケット部門の長に任命されている。
 やがて「中華人民共和国」が建国された1949年、銭学森博士は母国に帰る決意
をした。しかし、アメリカ政府は難色を示した。アメリカ海軍のある幹部は「銭学森
博士は五個師団に匹敵する力を持つ」と博士の能力を評価し、「返すなら殺したほう
がまし」だとまでいい、帰国にかんしては反対だった。・・・1950年の半ば、ア
メリカと中国の間で大使会議が開かれ、銭学森博士の希望は実現する。当時、国務院総
理(首相)と外交部長(外相)を兼任していた周恩来は、会議の席で「一人の銭学森
が帰国するためだけで会談の価値がある」と述べたという。そして、1955年、銭
博士の帰国は実現したのだった。・・・現在もなお、中国のミサイル、人工衛星ばか
りでなく、核開発においても大きな貢献をした指導者として、功績を称えられてい
る。】

【糸川博士と銭学森博士の置かれていた状況は、同時代を生きていながら、あまりに
も対照的である。それはまた、日中両国の宇宙開発を象徴しているといってもよ
い。】(続く)