古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

二つの敗戦(1)

2017-09-28 | 読書

佐伯啓志著「従属国家論」(2015年6月PHP新書)は、興味深い視点がある本でした。日本が戦後経験した二つの敗戦、1945年の敗戦と、経済戦争ともいうべき90年代の日米交渉の敗戦について述べています。

まず、1945年の敗戦。アメリカによる戦後の日本の造られ方です。

アメリアの意図は極めて明快で、日本を非軍事化することだった。

 ところが、朝鮮戦争が勃発すると、翌年の年頭メッセージで。マッカーサーは次のように述べる。「確かに日本国憲法の戦争放棄は、近代社会の最高の理想のひとつである。しかしながら、仮に国際社会の無法状態が平和を脅かし、人々の生命を危険にさらすなら、この理想は、しごく当然の自己保全の法則に道を譲らざるを得ない。そして国連の原則の枠内で、(邪悪な)力を撃退するために、他の自由諸国とともに力を結集することが日本の責務になるだろう」。

 憲法は国の主権者が作成します。ところが、占領期庵中に日本に主権はなかった。

9条は、日本からすれば自発的に武力放棄・戦争放棄をするという理想を実現しているように見えて、実はそれを背後で繰っているのはアメリカでした。

アメリカの目的は日本の武装解除と軍事的無力化でしたがその意図は隠していた。

当時の吉田首相はこういうことは良くわかっていた。占領されている国が憲法をもつこと自体おかしいと彼は考えていた。

 しかもサンフランシスコ条約の結ばれる前に、アメリカは日本に対して憲法改正を要求してくる。1946年に平和憲法を作ったものの、その後、共産党の中華人民共和国が成立し朝鮮戦争が起き、冷戦体制に入る。アメリカはむしろ日本の再軍備を期待する。こうした流れの中で、アメリカは日本に憲法改正を打診してくる。

 しかし、吉田茂はこの要望を拒否する冷戦状況の中でアメリカは日本の再軍備を期待し国務省補佐官のダレスを日本に派遣し、再軍備を示唆する。

 吉田はそれを承諾しません。その後、マッカサーは75000人の警察予備隊の創設と、8000人の海上保安庁の増員を命じる。

 ほんとはアメリカが望んだのは、日本の再軍備だった。

 一方、吉田茂の最大の野望はできるだけ早期の講和を実現し、日本の再独立を達成することだった。

 アメリカは冷戦の中で日本を防波堤として共産主義と闘うことが問題だった。国務省は、早期講和を実現して日本を自由主義陣営に引き込むという戦略を立て、国防省は占領政策の延長を期待した。

そしてその妥協の結果が、講和条約と日米安保の締結だった。

 

 ダレスは、この交渉に際して、ともかくもアメリカが望むだけの軍隊を望むだけの期間自由に日本に駐留させることが目的だと考えていた。そして、吉田は池田勇人をアメリカに派遣し、早期講和を実現できるなら、日本側から米軍の日本駐留の希望を出しても良い、とのメッセージを託した。

 こうしてサンフランシスコ条約と同時に日米安保が結ばれる。講和条約はサンフランシスコのオペラハウスで締結されたが、その後、場所を移して陸軍第6司令部の将校集会所で日米安保が締結される。この時、米国側はアチソン国務長官、ダレスら4名が署名した。日本側は吉田ひとりが署名した。吉田は、この条約がきわめて不平等なものであることを良く知っており、その責任を自分一人で背負うつもりだった。

 この条約の第1条で、日本は、米軍を日本国内や周辺に配備する権利をアメリカに付与し、米軍は日本の安全に寄与するため使用できると規定した。

つまり、アメリカの判断によって米軍を動かすことが出来るが、決して「しなければならない」とは書かれていない。

 

 このように不平等で片務的な体制によって日本の「戦後」は始まった。きわめて不平等な安保条約により米軍に基地を提供することと引き換えに日本は「主権」を回復した。

主権とは何か。主権者の最大の義務は、国民の生命財産を守ることです。君主国の場合、君主が国民の生命・財産を守る義務がある。民主主g国ではでは。国民が自分たちで自らの生命・財産を守らねばならない。我々はそういう議論を避けてきた。日倍安保でアメリカによって守られてきたから、避けることが出来たのである。

 

 しかし、本当に回復したのだろうか。岸首相は60年の安保改正でこの片務性を可能な限り解消しようとした。

 安保条約締結された8年後条約の改定の改定が行われた。1960年5月19日、改定条約の批准後「アンポハンタイ」の国民運動が盛り上がった。岸首相からすれば心外なことだったろう。

 安保改定で、日本は米軍に基地を提供する代わりに、米軍は「日本及び極東」の安全確保の責務を負うという、双方の義務を担うことにしたのです。

その意味で、世論の動きは官僚政治家である岸の理解の外だった。

岸の辞任後登場した池田首相は、自民党に対する国民の不信をぬぐうため、国民のまなざしを経済成長に向けました。

さらにそれから50年後、鳩山首相の沖縄米軍基地問題が起きました。

 鳩山首相が辞任し、自民党に政権は戻ったが。この時、日本の防衛の在り方を憲法問題を含めて論議すべきだったが、それは行われなかった。安保条約でアメリカに安全保障という「主権」の重要部分を委託したままでした。言い換えると、アメリカからすると、日本は網化の「属国」のままでした。(続く)