「国力とは何か」(中野剛志著、11年7月講談社新書)を読みました。
何故この本を読もうと思ったのか、先に野口悠紀雄さんの著書で「日本が製造業で稼ぐ段階を過ぎている。」という記述を読んだ。野口先生は「日本は製造業で稼ぐ時代を卒業、次は金融業」といっていますが、アングロサクソン国家のようにM&AやFUNDで儲ける方式を日本人が得意とするとは思えません。『日本経済が金融で稼ぐとは、海外に直接投資した会社・工場群の収益を日本に還流するということではないでしょうか。その場合、日本人は海外の工場・会社で働くことが日常化する』(「空洞化のウソ」)
一方、浜矩子さんは「新・国富論」でこう述べている。『結局のところ、税金が最も低くて、人件費が最も安くて、資産が最も効率的に運用できる場所に向かって、ヒト・モノ・カネが国境を越えてどんどん吸引されていってしまう。すると、国境の内側には、何が残るか。それはすなわち、富を求めて国境を越えられない者たちに他ならない。儲からない企業。運用する資産がない人。・・・・
だが、思えば、国というものは、まさしくこのような人々のために存在するという面がある。国や政策が自分勝手に飛び回る人々のために何かをする必要はない。』
そういう時代に、もしなるとすると、私たちにとって、「国家とは何か」を考え直す必要があるのではないか?参考になる本はないかと探して、この書を見つけました。
筆者はTPP反対論の旗手、中野剛志さんです。
http://d.hatena.ne.jp/snozue/201206
まず、筆者は、論駁する対象を明確に述べる。
【「グローバル化」とは、簡単に言えば、資本、企業、個人が利益を求めて、国境を越えて自由に移動するようになる現象のことである。この現象は冷戦が崩壊した1990年代以降、加速したと考えられる。
構造改革路線から「平成の開国」に至るまでの一連の経済政策は、このグローバル化に対応しようとしたものである。それらは、おおむね、次のような発想に基づいていた・
グローバル化した時代には、資金、企業、人材、技術が集まりやすいように、投資先として魅力的な環境を整えることを、国家の経済政策の目標とすべきである。しかし、日本経済は、このグローバル化に対応できておらず、他国に遅れをとっている。それこそが日本経済の閉塞状況の主な原因である。そこで、日本の経済構造を根本的に改革し、グローバルなマネーや企業にとって魅力的な環境を構築しなければならない。
同時に日本の企業や人材が、国境を越えてグローバウな市場で利益を追求できるようにしなければならない。しかも、我が国の国内市場は、人口減少と少子高齢化によって縮小していく運命にある。これまでのようなに国内市場にだけとどまっていては、企業はビジネスチャンスを失い、国は豊かになることができない。
このグローバル化の推進を目指す構造改革にはそれを支えるイデオロギーがある。それらは「新自由主義」あるいは「市場原理主義」と呼ばれている。
新自由主義の基本的な教義は・・・
世界は、自己利益を合理的に追求する個人(あるいは企業)から構成されている。利己的な個人が自己利益を追求して競争に励む結果資源が最適に配分され、経済は効率化され繁栄する。この市場メカニズムを機能させるため、国家は、個人の経済活動の自由を最大限許容することが望ましい。ヒト、モノ、カネが国境を制約なく自由に流れていけば、世界経済全体が繁栄する。
新自由主義者は、国家が経済に介入することで、自由市場よりも経済を豊かにすることができるという考えを真っ向から否定する。また、新自由主義者は、国境に束縛されて生活を営む個人すなわち「国民」の存在意義も認めない。・・・新自由主義は、国家が国民のために積極的に活動するという発想を根本的に否定するイデオロギーなのである。】(つづく)
何故この本を読もうと思ったのか、先に野口悠紀雄さんの著書で「日本が製造業で稼ぐ段階を過ぎている。」という記述を読んだ。野口先生は「日本は製造業で稼ぐ時代を卒業、次は金融業」といっていますが、アングロサクソン国家のようにM&AやFUNDで儲ける方式を日本人が得意とするとは思えません。『日本経済が金融で稼ぐとは、海外に直接投資した会社・工場群の収益を日本に還流するということではないでしょうか。その場合、日本人は海外の工場・会社で働くことが日常化する』(「空洞化のウソ」)
一方、浜矩子さんは「新・国富論」でこう述べている。『結局のところ、税金が最も低くて、人件費が最も安くて、資産が最も効率的に運用できる場所に向かって、ヒト・モノ・カネが国境を越えてどんどん吸引されていってしまう。すると、国境の内側には、何が残るか。それはすなわち、富を求めて国境を越えられない者たちに他ならない。儲からない企業。運用する資産がない人。・・・・
だが、思えば、国というものは、まさしくこのような人々のために存在するという面がある。国や政策が自分勝手に飛び回る人々のために何かをする必要はない。』
そういう時代に、もしなるとすると、私たちにとって、「国家とは何か」を考え直す必要があるのではないか?参考になる本はないかと探して、この書を見つけました。
筆者はTPP反対論の旗手、中野剛志さんです。
http://d.hatena.ne.jp/snozue/201206
まず、筆者は、論駁する対象を明確に述べる。
【「グローバル化」とは、簡単に言えば、資本、企業、個人が利益を求めて、国境を越えて自由に移動するようになる現象のことである。この現象は冷戦が崩壊した1990年代以降、加速したと考えられる。
構造改革路線から「平成の開国」に至るまでの一連の経済政策は、このグローバル化に対応しようとしたものである。それらは、おおむね、次のような発想に基づいていた・
グローバル化した時代には、資金、企業、人材、技術が集まりやすいように、投資先として魅力的な環境を整えることを、国家の経済政策の目標とすべきである。しかし、日本経済は、このグローバル化に対応できておらず、他国に遅れをとっている。それこそが日本経済の閉塞状況の主な原因である。そこで、日本の経済構造を根本的に改革し、グローバルなマネーや企業にとって魅力的な環境を構築しなければならない。
同時に日本の企業や人材が、国境を越えてグローバウな市場で利益を追求できるようにしなければならない。しかも、我が国の国内市場は、人口減少と少子高齢化によって縮小していく運命にある。これまでのようなに国内市場にだけとどまっていては、企業はビジネスチャンスを失い、国は豊かになることができない。
このグローバル化の推進を目指す構造改革にはそれを支えるイデオロギーがある。それらは「新自由主義」あるいは「市場原理主義」と呼ばれている。
新自由主義の基本的な教義は・・・
世界は、自己利益を合理的に追求する個人(あるいは企業)から構成されている。利己的な個人が自己利益を追求して競争に励む結果資源が最適に配分され、経済は効率化され繁栄する。この市場メカニズムを機能させるため、国家は、個人の経済活動の自由を最大限許容することが望ましい。ヒト、モノ、カネが国境を制約なく自由に流れていけば、世界経済全体が繁栄する。
新自由主義者は、国家が経済に介入することで、自由市場よりも経済を豊かにすることができるという考えを真っ向から否定する。また、新自由主義者は、国境に束縛されて生活を営む個人すなわち「国民」の存在意義も認めない。・・・新自由主義は、国家が国民のために積極的に活動するという発想を根本的に否定するイデオロギーなのである。】(つづく)