古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

現代(ヒュンダイ)がトヨタを越えるとき

2012-11-13 | 読書
『現代(ヒュンダイ)がトヨタを越えるとき』(小林・金著、ちくま新書、12年9月刊)という本を読みました。
 現役時代は自動車関連企業に勤めていたのですが、退職してからもう16年以上過ぎて、最近の自動車産業の状況はすっかり分らなくなっています。この本で、自動車の現状を知ろうと思いました。
 印象に残った記述は、以下です。
『韓国は日本のものづくりを後追いしているのではないか。・・表面的にいるとそう見えなくもないが、少し立ち入ってみると、いくつもの違いに気がつく。
 一つは、韓国の工場の方がはるかにコンピュータ化されていることである。同じシステムでも日本の工場の場合は、過去の成功体験から、まだアナログ色が色濃く残っている。・・・(例えば)韓国企業は世界各地の生産拠点を含む全生産拠点をビデオネットワークで結んでトラブルへの対応に備えている。
 1980年代後半から韓国政府やサムソンに代表される企業は、次世代の主要な産業はIT産業だと決断して、国家をあげてこの産業の育成に力を挙げた。台湾も同じだ。日本も気付かなかったわけではないが、韓国や台湾のほうがはるかに熱心だった。』
次に、
『ある研究会でわれわれは、報告を行った際、その会社の部長が発した最初の質問は「いつから現代自動車は日本企業への追随を止めたのか」というものだった。
確かに1960年代に現代自動車が産声をあげてから、現代自動車のみならず韓国自動車業界は、日本企業の支援を受けて発展してきた。だから、日本を手本に韓国企業が学習してきた、と考えるのはごく自然なことであろう。しかし、ある時点で韓国企業は、日本企業の生産システムを前提にしつつも独自の道を歩み始めたのである。
先の部長の「いつから現代自動車は日本企業への追随を止めたのか」という質問に答えるとしたら、「アジヤ通貨危機以後だ」と回答しよう。』

 『2009年、トヨタの渡辺社長は、「現代自動車の人気車である「ジェネシス」をリバースしてみたが、われわれはあの原価であれほどの品質の車を造ることは到底できない」と述べて、「これからは現代自動車がうちの最大のライバルになる」と述べたという。

 しかし現代自動車も多くの問題点を抱えている。・・・残酷なまでの部品企業に対する原価低減の要求とその見返りの少なさ。この点に関して、われわれはK氏から次のようなインタヴューの回答を得た。
問「現代自動車は原価低減の果実を部品企業に還元してくれるのですか?」
答「否です。一般に日本のトヨタであれば、原価低減の成果は、次の契約のとき考慮されてその成果が戻されます。それはトヨタの場合には比較的きちんとルール化されていますから、部品メーカーは安心して原価低減の提案をすることができます。現代の場合には一応そうしたルールはあるようですが、守られていません。結局は、現代がその利益の大半を吸収します。ですから有効な原価低減の提案は、現代にはせずに自社の中にしまいこみます。」』
 要するに、韓国企業は通貨危機後、グローバル化に徹した。雇用は非正規社員の賃金切り下げて人件費を下げ、下請け企業の収益を収奪し、利益の追求に専念している事例が縷々と語られる。そして・・・・
2010年、BRICs4カ国における販売シェアを見ると、GM,VWに続き現代が3位175万台(シェア6.5%)、5位がルノー・日産107万台(4%)、トヨタ6位105万台(3.9%)とこれから発展する新興国では、現代はトヨタを凌駕しているとか。ウオン安とFTAの波に乗って、輸出立国に邁進している(2010年の韓国の自動車産業輸出額は544億ドルで前年比46.5%増)。

 最後に筆者は『トヨタは、円高と内需の縮小のなかで、いかにグローバル経済に対応するかという点で、日本社会が当面している課題を全面的に体現しているし、現代は、また極度にグローバル対応を推し進めた韓国経済の長所と短所を体現しているといえる。したがって、トヨタは今後いかにグローバル経済に対応して自己変革できるかにその将来の浮沈の鍵が横たわっている・・現代の場合には韓国国民の犠牲をいかに減少して、財閥企業の収益を他の階層に分かち与えるか、が大きな鍵となろう。』と語る。
 私の考えるところでは、『現代は徹底的にグローバル化した企業になった。それに対しトヨタは日本の伝統社会のあり方を残しつつグローバル化に対応した。このことで、現代はトヨタとの差をつめつつある。しかし、現在のグローバル経済がどこまで続くか、米国経済やEU経済の現状を見るとき疑問であり、経済システムの変換がやってくるのでは、と思われる。そのとき、現代は再びトヨタに差をつけられるのではないだろうか。』
 そんなことを考えさせられた本でした。