古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

奥三河紀行

2012-08-13 | 旅行
「墓参りをかねて花祭会館を訪れてみよう」と思い立ちました。
電話をしたら、11日午後、実家のあと取りの甥が迎えにきてくれました。彼は名古屋で勤めていますが、名古屋に住み、時に週末、彼の母が一人住む郷里に戻ります。
名古屋高速・伊勢湾道・東名と乗りついたが、岡崎を過ぎたら盆帰省の大渋滞。蒲郡まで1時間ほど渋滞が続いた。蒲郡音羽を過ぎると渋滞は解消されたが「三遠南信自動車道を走りましょう」と甥が云う。4月から浜松いなさJCTから鳳来峡ICまでが開通した道だ。普通は豊川ICで降りて151号線を飯田方面に約1時間の行程だが、豊川を通り過ぎ静岡県に入って三ケ日JCTから少しだけ第二東名を走り、いなさJCTで三遠南信道に入った。
別所トンネルを過ぎると、三河と遠州の間、三遠トンネル、4525mの長いトンナルがある。トンネルを出ると鳳来町の山間だ。今は鳳来峡ICで終点だから此処で降りて151号線に這入ったが、新道路の威力で、予定より30分ぐらい早く着いた。花祭会館に寄ろうと国道を折れるとすぐ会館。歌碑がある。
まつり日は 音ゆたけしや川の上に したらほんごう晴れ渡るなり(釈超空)
(設楽本郷は私の郷里名)
  会館は、小生の卒業した(63年前)小学校の跡地の一角に建てられています。
花祭りは、鎌倉末期から室町にかけて熊野の山伏や白山の聖によってこの地(愛知県東栄町)に伝えられ700年以上にわたって継承されてきた祭りで、毎年、11月から正月にかけて、(地区)を代わりながら行われます。国の無形文化財に指定されている。
この花祭りに最初に着目し研究したのは、民俗学者で国文学者の折口信夫(おりくちしのぶ、歌人名 釈超空)です。昭和15年ごろのこと。館内に彼の歌があった。
やまふかく われはきにけり 山深き木々の梢におとやみにけり
おにのこと むれつつあそぶ 音きこゆ とよねの水の白雪の上に
(折口は、柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。)
館内には、祭りの写真や、面などの祭りに使う品々の展示があった。30分見学して外に出る。
http://senshoan.main.jp/okumikawahana.htm
4時過ぎ、在所に着き、皆で、父母、長兄の墓参り。
墓参りから戻ると、雷鳴がとどろき、まだ5時前なのに、真っ暗になって猛烈な雨が降り出した。墓参り中でなくて良かった!
一泊して二日目は、高校の同級生T君と。町内の料理屋で昼食をともにする。
約束の11時半、店に行くと「本日団体予約で休業です」の掲示があり鍵がかかっていた。「あれっ」、と思い横手に回りくぐり戸をあけると、T君の笑顔があった。休業仲でも彼の顔で、やってくれることになったらしい。
生ビールのジョッキを傾けながら、2時間ほど放談した。この放談は楽しかったが、内容は別の機会に。
他日を約してT君と別れ実家に戻り、甥の車で帰途につきました。「今度は山の中を行きましょう」。お盆の渋滞を避けて、東名を通らず、足助、猿投を通って帰ることにしました。設楽町を抜け稲武町に入ると、ここからは豊田市。豊田も町村合併でずいぶん大きくなった。やはり合併となると、市税収入の多い市と合併したい?
香嵐渓を過ぎ、猿投グリーンロードで愛知万博跡公園の横を通り4時過ぎ名古屋に帰りました。渋滞は名古屋市内に入ってからだけでした。