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古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

「根来寺]

2016-10-13 | 旅行
11日は恒例の4人組の旅行。10時JR西岐阜駅に集合することにしました。
9時35分に着きましたが、次の列車でSさん、Jさんも見えてHさんの車に乗り込みました。今回の目的地は和歌山。今日は最初に根来寺、その後和歌山城を訪ねることにしました。
「一度和歌山に行ってみない」とHさんに電話したら「根来寺(ねごろじ)に行きたい」という。
http://www.negoroji.org/
司馬遼太郎街道をゆく32巻で「紀ノ川流域」を読んだらもっぱら「根来寺」と「和歌山城」だった。そこで、今日は根来寺、和歌山城になった。
 岐阜羽島から名神に乗り、1時間あまり草津のパーキングエリヤで休憩し、その後瀬田東から京滋バイパスにはいる。久御山JCTで第二京阪、近畿道。枚方、東大阪を通ってなんかした。この辺りは高速道が錯そうしてどの道を行くのが良いのかさっぱりわからないのでドライバーのHさんに任せる。12時半」岸和田のサービスエリヤで昼食をとることにする。鉄火丼を食べたが、この辺にくると海に近くなる所為かお刺身がおいしい。
 和歌山の手前の泉南ICで高速を降りる。一路、根来寺へ。
根来寺は高野山中興の祖と言われる覚鎫(かくばん)上人は、空海の教えに新解釈をして新義真言宗を説いた。これが高野山の主流派に嫌われ、高野を追われ紀州に根来寺を開いた。覚鑁は康治2年(1142)亡くなった。頼朝の生まれる4年前です。死後根来寺は隆盛になった。僧兵を養い、その武力を謳われたのは戦国時代です。
 秀吉対家康の小牧長久手の合戦の際は家康に味方し秀吉包囲網の結成に努めた。このため秀吉に疎まれ、一時つぶされかかったが、家康の時代になって家康の助力で勢力を持ち直し、70万石余の大名並の威勢をほこったそうだ。

 2時頃根来寺に着く。伊受付の女性に「ここの見どころは?」と聞くと、階段を上がったところに国宝の「大塔」、隣に県文化財指定の大伝法堂があります」
大塔は高野山伝法院にあった大塔を継承して天文16年再建され、「天正の兵禍」を免れた

 大伝法堂は根来寺本尊の三尊像を安置、根来寺を総本山とする新義真言宗の中心的行事の行われる建物という。

1時間度ほ見学し、車に戻り、今度は和歌山城に向かう。4時に着いた。(続く)

東京紀行(武相荘に行ってきました)

2016-10-04 | 旅行
  2日は7時にレストランに行きました。
ホテルの朝食に吃驚しました。入り口でトレイを渡されパンかお握りヲ取れという。セルフサービスはいいのだが、お握りを取ったらコンビニの値札がついている。飲み物は珈琲や野菜ジュースが並んでいたが、お湯のポットが置いてあり、傍にインスタントの味噌汁がある。封を切ってお湯を注いで味噌汁にする。味噌汁もお握りも味は悪くないが、ここまで人手を省くものですかね。ウェイトレスの日本語に訛りがあったから外国人らしい。一泊9200円ですから、芝大門近くの東京ど真ん中のホテルでは安い方だと誰かが言ってましたが、びっくりでした。
 8時半にチェックアウトして地下鉄に乗る、神保町で新宿線に乗り換え、新宿へ9時過ぎ。ここで小田急線に乗り換えるのですが、乗り場がわからない。オノボリサンの始まりです。なんとか小田急のホームに辿り着き、9:31の小田原行快速に乗れました。
 今日は町田の“武相荘”を見に行くつもりでした。“武相荘”に行きたいといったら、町田に住む友人のMさんが案内してくれると言うので、鶴川の駅で10時に会いましょうと約束していた。ホテルから1時間半見ておいたら余裕だろうと思っていたのですが、オノボリサンは乗り換えの度にまごつくから、10分ぐらい遅れそう。「まぁ、遅れても待ってていてくれるだろう」。
 経堂とか下北沢とか、馴染みのある地名の駅に停まる。初めて乗った電車だが、停まる駅の名はすべて知っている。何故知っているのだろう。過去に読んだ数々の小説の中で登場する地名だからです。東京は公共投資も莫大だが、知的投資も莫大なんだ。東京は、日本人の100年余りのエネルギーが蓄積された地なんだと思いました。
さて、今日の目的の武相荘“故・白洲次郎、白洲正子夫妻の邸宅を2001年ミュージアムとして公開したものです。
http://www.buaiso.com/
昭和15年、夫妻は旧鶴川村(現町田市)の農家を買い取って住いとした。
武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
新百合丘で鈍行に乗り換え二つ目の役が鶴川でした。10時5分、約束より5分遅れたがいるだろうと駅を出て見回すがいない。
電話で話したとき、「駅のどのあたりでまちあわせますか?」といったら「小さな駅ですからすぐわかりますよ」と言ったので、待ち合わせ場所は決めなかったのだが、駅の周りを一周してみたが、見えない。こういう場合、ケイタイを持っていればいいのだが、私もMさんもケイタイを持たない主義だ。
とりあえずMさんの自宅に電話したら、留守録が出たので「今駅の北口にいます。待っています」と入れて切った。北口のタクシー乗り場の前の広場のベンチに腰を下ろし30分ほど待った。タクシーが次々来るのを見ているうちに、「タクシーに乗れば待っているうちに“武相荘”を見てこれる」と思いつき、タクシーで“武相荘”に向かいました。
2㎞足らず(基本料金)で道路わきにとまり「左の坂道を上がって、あの竹藪の辺りが“武相荘”です」と運転手が言う。
入場料1050円。「中は撮影はご遠慮ください」と言うことでしたので、外部の風景で雰囲気をご想像ください。庭で武相荘をバックに記念撮影しているグループがいました。





1時間ほど見て帰る。帰りは徒歩で駅まで。途中のレストランでランチを取ったが、15分の歩きで鶴川駅に着いた。
Mさんはどうしたかな?と再度Mさん宅に電話した。
今度は奥様が出た。
「NOZUEです」。
「ごめんなさい。主人は車で出たのですが、途中体調が悪くなり、帰ってきて今、寝ています」。
彼ももう82歳になっている筈。80を越すと何が起きても不思議でない年です
「武相荘には一人で行ってきました。お大事にしてください」。
残念だが、彼に会わずに帰ることにした。
帰りは順調で、13:33の“ひかり“に乗車でき15:19名古屋着。新幹線の早くなりました。以前は名古屋・東京2間時間かかりましたが、今は1時間45分ぐらいです。
4時帰宅。2日間のオノボリサンの旅でした。


東京紀行(おのぼりさん)

2016-10-03 | 旅行
 10月1日、10:37の“ひかり”で、上京しました。今回は、部品労連(自動車総連)の元役員の懇親会組織“ぶゆう会”に出席するためです。実は上京は6年ぶりでした。6年前は、当時在学していた放送大学大学院のスクーリングで上京したのですが、それ以来で、すっかりオノボリサンになっていました。
12時10分東京駅に着き、まず山手線の乗り換えに戸惑いました。上野駅に行こうと思ったのです。会の約束は3時でしたが、折角、東京に出たのだからついでに見るべきものを見ようと、このほど世界遺産に指定された国立西洋美術館、まだ見たことないから、見て行こうと上野を目指しました。
上野で下車し、「たしか美術館は公園口だった」と出口をさがしますが、わからない。
駅員に聞いたら「3Fに行ってください」。「えっ3Fが出口!」エスカレータで上がってやっと公園口を見つけでたが、目の前にあっても、どの建物が美術館かわからない。
道行く娘さんに聞きました。「西洋美術館はどれですか」。「Sorry! I cannot  speak Japanese」
「これが西洋美術館」と入場。企画展はやってなく常設展のみでしたが、65歳以上無料でした。場内は歩きながら作品を勧奨しやすくさすがに世界遺産に指定されるだけのものだと感じました。

1時間ほど見て、外に出ました。上野動物園があります。「本日無料開放」の看板が出ていました。
「一寸寄ってみるか」と動物園内を歩き、「もう戻ろう」と元に戻ったつもりが、西郷さんがいる不忍口です。

「とにかく地下鉄へ行こう」。「地下鉄の乗り場はどの辺ですか?」と、これまた歩いていた娘さんに聞くと「Sorry! I don’t know」
東京も国際化されましたね。何とか地下鉄を見つけ改札口の駅員に「芝公園には、いくらの切符を買いどういけばいいか」。聞くと「280円の切符で、日比谷で三田線に乗り換えてください。切符を買い、乗ろうとしたら「ここは銀座線です。日比谷線にいってください」
日比谷線の乗り場を探し目黒行に乗車。日比谷で下車して三田線の乗り場を探したがわからない。改札口の駅員に聞くと「一旦外に出てしばらく歩かないといけない。
 やっと三田線に辿り着いた。オノボリサンは疲れます。それにしても地下鉄が四通八達して便利なのですが、なにしろ通過している地下鉄の下にさらに地下鉄を通したものですから乗り換え地点が複雑です。「このインフラ投資の金額は莫大ですね」。
芝公園についてA1番出口から出ると、直ぐ会場の三田会館に2時40分つきました。
3時からの総会、近況報告で「今日80歳になりました」、「怪我をしてからジョギングとマラソン大会は止めましたが、水泳は月20km程度泳いでいます。プロ野球でも40何歳で登板した等報道されることがありますが、スポーツを高齢まで続けるためには、怪我をしないことが必須です」などと話した。顔ぶれを見渡すと、出席者の中で小生が最高齢らしい。
3時に会議を終え、ホテルのチェックインをすませてから、浜松町の貿易センタービルの「北海道」という店に行き、飲み会でした。7時半終わって車を拾いホテルに帰りました。
、久しぶりの上京で、オノボリサンに疲れた一日でした。(続く)




沼津御用邸と柿田川湧水公園

2016-06-14 | 旅行
翌朝は、8時半出発。大室山にリフトで山頂に登る。
9:30沼津御用邸に向かう。
 御用邸は、今公園になっており、一般公開されている(入場料400円)。
門前の樹齢400年とかの根上がりの黒松が見事です。
「カメラ撮影は自由です」というので、数枚写真に収めたが、部屋数は多いものの内部は通常の日本家屋で、天皇家の別荘にしては質素なものと感じた。






その後柿田川湧水公園に行く。

柿田川は清水町伏見にある柿田川公園の「わき間」からの湧水に源を発し南へ流下、清水町役場付近で狩野川に合流する。流水はほぼ全量が湧水から成り、これは富士山への雨水や雪どけ水が三島溶岩流に浸透し、その先端部から湧き出でたものである。
かつては豊富な湧水を求めて工場が進出、排水のたれ流しにより水質が悪化し、魚も住めない状態になった。1970年代には護岸のため、部分的に川縁がコンクリートに覆われるなどしたが、1980年代には地元有志によるナショナルトラスト運動が始まり、工場の移転運動や清掃活動が行われ、カワセミ等も生息する環境が残された。現在もトラスト地の買い上げが続けられている
昼食は「桜エビの釜めし」。名古屋の鰻のひつまぶしのように、半分はお茶漬けで賞味くださいとあった。柿田川の清冽な水が駿河湾にはいるので桜エビが採れるのだというボランテイアの説明を思い出しました。
2時、東京の仲間を三島駅に送り後は東名を走り、6時過ぎ黒川で下車、6時35分帰宅しました。


横浜から伊豆へ

2016-06-13 | 旅行
6月10日朝、夜が白む頃5時前目が覚めてしまった。
最近は酒を飲みすぎると、直ぐぐっすり寝込んでしまい、眠りは深いのだが目覚めが早く、一旦目覚めるともう眠りつけない。
横浜メルパルクホテルの一室。昨日からここに来ている。高校の同級会です。卒業時には70名いた同級生も、今回参加できたのは14名、2割です。生存者は49名だが、多いのは足が悪くなって歩けない。自分が元気でも配偶者の介護をしないといけないなどで減ってしまった。
 横浜に来たのは、東京周辺に住むD君、T君が幹事になったから。2年おき位に幹事の地域を交代している。次回は郷里(奥三河)に住む同級生が幹事になる。
というわけで横浜に来たが、今夜は元勤務していたD社のOB会で伊豆に行くことになている。折角横浜にきたからには、じっくり観光したいところだが、あまりゆっくりできない。と言っても、ホテル周辺の観光地ぐらいは歩いてみようと、7時のバイキング朝食の後、ホテルの周りを歩いた。
 ホテルは山下公園の傍らで、目の前の海には氷川丸が浮かんでいる

公園内にはウオーキングや自転車の散策など楽しんでいる人が多い。
綺麗な噴水もある。

そうだ「赤い靴履いてた女の子」の銅像があったはずだ。見て来ようと通りがかりの人に聞いてみた。「ごめんなさい知りません」と言う人が大部分。
地元の人も知らないのかな?何人か聞いているうち、犬を連れた女性が「たしかあちらの方にあったわね」という人がいたので、その方向に歩き出した。しかし、なかなかわからない。一生懸命歩いていたら見つかった。
戻ってくると、先ほどの犬連れの婦人「わかりました?」
「ええそこに」
自転車の男性が「みつかりました?」、「ええありました」と指差すと「良かったよかった」と言ってくれた。
ホテルに戻り出発の支度してロビーに行く。幹事のD君、T君が待っていた。
「同級会も80歳を超すと味がでてくる」など話していると、みな集まった。
「若干お金が余っていますから、中華街まで歩いて昼飯を食べてから解散しましょう」ということになったが、小生はお先に失礼することにした。
元町駅から地下鉄、東横線、JRを乗りついて新横浜駅に10時前に着いた。約束の電車は10:46こだま名古屋行ですので、しばらく待合室で待って、10時半ホームに行く。自由席の列車を待っていると、声をかけられた。「こちらに転居されたの?」と言う。「いや、昨夜こちらに用事があってきたので・・・」確か顔は記憶しているが、名前を思い出せない。
実は、数日前元東京工場長のMさんに電話した。「今回は新横浜から参加しますから」。すると、「すみません。脚が悪くなって今回は欠席します」。それで。OB会幹事のKさんに電話した。
「東京からは誰が参加するの?」。「4~5名参加しますが、みな若い世代ですから、NOZUEさんを知らないんじゃないかな?」。
新横浜から知人と話しながら行けると良いとおもったのだが・・・仕方ないか。もう退職してから20年になる・・・
だからホームで声をかけてもらってうれしかった。後で、班長だったHさんと思い出した。
三島駅に11:24.。改札口を出ると、3~4人の見たことのある顔に囲まれた「NOZUEさん久しぶり」と悪手ぜめ。「なんだみな私をおぼえているんじゃない!」外に出たら、名古屋からの観光バスが来てなくて、昼飯を取るレストランのマイクロバスが停まっていた。
運転手に何人のるの?」、「6人です」。「6人乗ってとるわ。行きましょう」。11時半レストラン伊豆海に着きしばらく待つと皆がきた。添乗員が傍に来て「出発で犬山のバスが渋滞で遅れました」。そうだ。小牧辺りでリフレッシュ工事をやっていたんだ。
昼食後バスに乗り三島スカイウオークを見に行く。
沼津ICから車で15分。正式名称は「箱根西麓・三島大吊橋」

歩行者専用としては日本最長のつり橋と詠っているが、要するに吊り橋です。お天気が良ければ富士山が眺められて良いのだろうが、曇り空で富士山は見えない。これで400mを往復するだけで入場料1000円は高い!富士山の見えない日は料金を安くすべきでは・・
その後、バスで十国峠を越え東海岸に回り、伊東温泉ホテル聚楽には4時頃着いた。(続く)

大村美術館と山梨県美術館

2016-06-06 | 旅行
6月2日、8時半にホテルを出発しました。今日は山梨県の美術館を見ようと、韮崎大村美術館を目指すことにしました。大村智氏が建設し韮崎市に寄贈した美術館です。
ウィキペヂアによると、大村聡氏。
2015年ノーベル生理学・医学賞受賞。
微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、480種を超える新規化合物を発見し、それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。
美術に造詣が深く、14年間にわたり女子美術大学理事長を務めた(2015年7月から同大学名誉理事長)。同大学に妻・文子の名を冠した「大村文子基金」を私費で設立[21]。女子美生の留学資金(女子美パリ賞・ミラノ賞)と美術活動費(美術奨励賞)を支援している。また、美術作品の著名な収集家であり、特に女性作家の作品収集に積極的で2007年に私費5億円を投じて故郷の韮崎市に韮崎大村美館を建設し、1800点を超える蒐集作品と共に韮崎市に寄贈し初代館長を務めている。

 昨日は岡谷ICから142号線をきたがもう少し近い高速の入り口がある筈とホテルで聞くと梓川のサービスエリアから長野自動車道に載れるというので、まずは梓川を目指す。
 途中、トンネルを通るとき有料箇所が2か所[510円と100円]あった。
長野県道路公社は、有料化でトンネルの建設を計ったらしい。昨日も有料トンネルが3か所あった。それはともかく、梓川SAの上り線に着いた。SAからも高速に乗れるんだ!韮崎ICで降りてカーナビに美術館の電話番号を入れると「該当電話番号がありません」と言う。「電話番号を写し間違えたかな?」。しかし、電話してみると通じたから間違いではない。カーナビに登録されていないのだ!通じた電話で住所を聞きカーナビを再セット、
10時半到着。「今日は富士山が綺麗だ」とJさん、富士やアルプスの山々が遠望できる地に美術館はあった。
玄関に大村先生の胸像。展示作品は女性作家の作品が多い。さながら女性作家美術館。片岡珠子、小倉遊亀、秋野不矩などもあった。
これは大村先生が東京女子美大の理事長をやっていたことによるもののようだ。
2階の展望カフェからは富士山、八ヶ岳、奥秩父蓮歩など遠望できた。「あれが深田久弥さんがなくなった山」などJさんが解説してくれた。
1時間程見学し、「次に行こう」と駐車場に戻る。仮説トイレが3基ほど並んでいる。
「何故ここに仮設トイレ?」
「館内のトイレで対応しきれない」とHさん。なるほど、小さな美術館に、ノーベル賞で油名になった結果、観光バスが押しよせた。館内のトイレで対応しきれなくて駐車場にトイレとなった。実際、館内のトイレは大勢が並んでいた。
次は甲府の山梨県美術館に向かう。40分ほどで到着。大きな美術館だ。

 「昨日は信州そばの昼食だったから、今日は甲州のほうとうにしよう」
美術館の横に「小作」というほうとうの専門店があったので入る。
昼食しながら、店員に聞くと、ここから甲府駅まで15分ぐらいと言うので、2時に出発し2時37分の特急にSさんを乗せようと、美術館の見学を1時間にすることとにした。
「常設展は65歳以上無料ですが、ミケランジェロ展は1000円です」と言う。
折角だからミケランジェロも見ることにする。
1時間で両方を見ることはかなり忙しかったが、なんとか「ミレーの落穂ひろい」も見られた。失礼ながら山梨県のような小さな県が「何故こんな大きな美術館をつくったの?」と思わせる。
 2時出発。甲府駅にSさんを送り、「また今度会いましょう」と別れた。
次は北杜市の清春芸術村に安藤忠雄作の「光の美術館」を訪れる予定だった。カーナビにセットしてからJさんが「今から光の美術館を見ていると、小牧に帰り着くのはたいへんだ。リフレッシュ工事の渋滞もある。次の機会にしたら」と言う。
 このまま小牧に直行しても7時ちかくになるので、Jさんの提案通り「光の美術館」はあきらめることにして、カーナビを小牧駅に再セット。途中諏訪湖と恵那で小休憩したが、小牧東に6時過ぎ、6時半に小牧駅で解散しました。

上田城跡と鹿教湯温泉

2016-06-05 | 旅行
3時過ぎ、公園に着いた。駐車場に車を置き、本丸方面に向かう。天守閣は?見えない。ここの城は天守閣はなかtった?すぐに隅櫓が見えてきた。
城内に真田神社がある。さ。上田城は二度徳川の大軍に囲まれたが、ついに落城しなかった。「落ちない」ということから、現在受験の神様として信仰を集めているという。神社は天正11年、真田正行が築き、信之が継いだが松代に転じた後仙石氏が3代続いたのち松平氏が7台で明治を迎えた。
 この城は、関ケ原合戦後、破却され、現在隅櫓など残されている遺構は、仙石氏が再興したものだという。城跡を歩き、南櫓、北櫓の並ぶ東櫓門に出る。30分ごとにボランチアの案内説明があり、3時半から本日の最終説明とのことなので、5分ほど待ち、説明を聞いた。
「今年はNHKの大河ドラマの影響で観光客も多く、門の前には、真田⑮大河ドラマ館が解説されていた。3時半になり、女性ボランチアについて、櫓門、真田神社、真田井戸、西櫓、本丸跡を回る。櫓門の前には真田石と称する遺構がある。

何処の城跡に行っても、石垣は昔の面影を残している。真田信之が松代移封の際に、父の形見として持ち去ろうとしたが、動かせなかったとの伝説がある。直径3mの見事な石もある。
上田城の堀は、素掘りで彫り上げた土をその内側に堤上に積み上げ土塁としている。だから堀の石垣はないが、隅櫓の石垣が往時の風情を残していた。

案内が終わると、4時近くなっていたので、今日の日程を終えて宿舎に向かうことにする、
電話番号をカーナビにインプットして宿舎の国民宿舎、鹿月荘に向かう。
鹿教湯(かけゆ)温泉は、傷ついた鹿を追った猟師が見つけたとの伝説があり、この名がある。5時5分前に着いた。
 入浴後6時から30分、恒例の勉強会。今回は小生の担当で「動的平衡論」を紹介した。
『食べることの本質的な意味に、いつ誰が気付いたのか。人間の認識の歴史には、そのようなエポックを明確に示せる一瞬がある。ルドルフ・シェーンハイマーによって1937年、その事実は発見された。
 食物は瞬く間に、分子のレベルまで分解される。一方、生物体も驚くべき速度で常に分子レベルで解体され、食物中の分子と生体中の分子は渾然一体となって入れ替わり続ける。つまり分子のレベル、原子のレベルでは私たちの身体は数日間の間に入れ替わっており、「実体」と呼べるものは何もない。そこにあるのは流れだけである。
シェーンハイマーが明らかにしたことは、生命は流れの中にある。流れこそがいきているということである。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明、方丈記)なのです。
シェーンハイマーの派遣は、鴨長明が持っていた生命観に欧米社会が気付いた瞬間だった。彼の仕事の最も重要な意義は、身体と環境が動的な平衡状態にあり、私たちが食べ続けないと生命が流れないことを、分子レベルで明らかにしたことである。』
『『シェーンハイマーが数十年前見出し、問いいかけているもの、それは「分子は流れ、私たちを通り抜け、とどまることはない」。
繰り返して云おう。炭素でも窒素でも地球上に存在する各元素の和は大まかに言って一定であり、それが一定の速度で流れゆく中で作る緩い“結び目”がそれぞれの生命体である。流れは巡り巡ってまた私たちにもどってくる。
 できるだけ人為的な組み換えや加速を最小限にとどめ、この平衡と流れを乱さないことが、私たち自身の生命、あるいは環境を大切にすることである。』
以上は、福岡伸一ハカセの受け売りですが、身体の中の元素は時々刻々入れ替わっているという考えは、みなさん初めて聞く話であったらしく、6時半からの夕食会でも、この話題をめぐって話題が弾んだ。
 生ビールで乾杯した後、お酒のメニューで、岡崎の地酒を発見、オーダーした。辛口だったがとても飲みやすいお酒で、すっかり酔っぱらってしまった。

無言館

2016-06-04 | 旅行
6月1日9時前、名鉄小牧駅に行きました。駅前のベンチに腰を下ろしていたら、間もなくJさん、「Hさんもう来てるよ」、駐車場の出口からHさんの愛車デミオが出てきました。
半年ごとに行っている4人組の旅行会。今回は長野県と山梨県の美術館を回る旅を計画しました。車に乗り込み、小牧ICに向かいます。インターの入り口から渋滞が始まりました。「今日は高速のリフレッシュ工事が始まったんだ。帰りは小牧東で降りた方がよさそうだ」とJさん。東名に乗り込み、ジャンクシヨンから中央道に入ると渋滞は解消した。飯田の手前で小休憩したが、岡谷ICまで2時間強、11:20高速を降りてJR岡谷駅に向かいました。11時半駅の南口について駐車場に入り、ケイタイでSさんに電話「南口に着きました」。浜松のSさんは、特急あずさで11:38到着の予定です。間もなく「あずさ」の優美な車両がホームに入るのが見えました。
 Sさんが乗り込み、久闊を叙しました。車は上田市に向かいます。
「昼時だからどこかレストランにはいりましょう。」しかし、なかなか恰好なレストランが無い。「上田にはいらないと、ないかも」。12時過ぎ、上田に入ってから恰好な店が見つかりました。
「10割蕎麦の店花ちゃん」の表示が出ていた。「信州蕎麦を味わいましょう」と、10割蕎麦の盛蕎麦600円と野菜のてんぷらかき揚げ150円を頼みました。
新規開店したばかりの店らしい感じの良い店で、「つなぎは何を使っているの?」と聞くと「10割ですから、つなぎは使っていません」とおかみさん(花ちゃんかな?)が答えた・
「値打ちだったネ」と、みなさん満足したようだ。店を出て、カーナビに無言館の電話番号を入れてガイドしてもらう。初めての場所に行くときは、カーナビは全く便利です。
1時半ごろ無言館に着きました。

緑の木立の間にコンクリート造りの無言館が建っていました。入り口に「料金は出口でお支払ください」とあった。
 無言館は、戦没学生の作品を集めて展示していることで有名です。
建物の中に入ると、作品を保護するためでしょう照明を落として薄暗い中、コンクリート打ち抜きの壁に沢山の作品が展示されている。

作者の説明には、何年生まれ、どこの戦場で戦死または戦病死、享年何歳など表示されているが、その作品の多さに圧倒される。かくも多くの画学生が、その未来を戦禍で失ったのだ。
「無言館」は、展示される絵画は何も語らず「無言」ではあるが、見る側に多くを語りかけるという意味で命名したというが、客もまた展示される絵画を見て「無言」になるという意味をも含んでいるという。

戦没画学生の慰霊を掲げて作られた美術館で、美術館「信濃デッサン館」の分館として1997年に開館した。館主は窪島誠一郎氏。自らも出征経験を持つ画家の野見山暁治とともに全国を回って、戦没画学生の遺族を訪問して遺作を蒐集した。第53回(2005年)菊池寛賞受賞。2008年9月21日に無言館第二展示館「傷ついた画布のドーム」がオープンした。
その第二展示館に向かう。

『画家は愛するものしか描けない。相手と戦い相手を憎んでいたら画家は作品を描けない。一枚の絵を守ることは、愛と平和をまもるとうこと」との碑があった。
ここでも、生きていれば、大家となったかもしれない才能の作品を多く見た。
「意外と戦病死が多いね」など語りながら観て回った。
3時前切り上げて、次の目的地上田城跡公園に向かった。(続く)






かきつばたウオーキング

2016-05-28 | 旅行
5月27日は、シニアクラブのウオーキングで八橋に行く計画でした.2~3日前の天気余殃では「金曜日は雨」とのことで、心配していたのですが、夜はぱらついた雨が朝には上り、良いお天気になりました。
 集合時刻の9時半、東エレベータホールへ行くと、私を含め10人(男2、女8)が集まっていました。10時、金山駅でホームに行くと、「駅員さんが500円切符持っていかなかった人がいると、この切符くれた。誰か切符もってないひといない?」とHさんが言う「そんな筈は?」とポケットの切符をみたら。600円の切符である。確か500円のボタンを押したしお金も500円しか出してない。「前の人が切符とりわすれたんだ」と言った人がいる。そうなんだ。私が一番先に販売機で切符を買ったのだが、前の人が切符をもっていかなかったので、私がその切符[600円)を取って、私がお金を出した500円切符をメンバーの次の人が受け取り、以下順番に前の人の購入した切符を受け取ったので、最後の500円切符が一枚残ったわけだ。
 こんな経験は初めて!まぁいいか、とそのまま豊橋行の特急で知立へ。知立で猿投行に乗り換える。「三河知立」の次が「三河八橋」である。
下車してみると、昨日までの「かきつばた祭り」はおわっているので、案内の旗は片づけられてない。下見はしっかりしておいたので、無量寿寺への道は間違えず7~8分で着く。
 お寺は臨済宗妙心寺派の寺で奈良時代の慶雲元年(707)創立。文化9年(1812)方厳売茶翁により再建、現在の杜若庭園もこの時造られたとのこと。
「かきつばた我に発句の思いあり」芭蕉の句碑があった。
 そのかきつばた庭園を見に行く。残念ながら花は盛りを過ぎ、咲いているのは池の中の数本、大部分は枯れてしまっていた。
「在原業平の銅像があったはずだが…」と言うと「向こうにありました、イケメンでした」
業平は平安時代のイケメンである。

池の周りのベンチに腰を下ろしてお昼にする。「下見に来たときは花も沢山ありましたし、売店も出ていたのですが「かきつばた祭り」が昨日で終わり何もありません」と小生が挨拶すると、「でも、人が少ない(我々以外の観光客は2~3組だけだった)静かでいいじゃない」といってくれた。昼食の跡、「近くの名所を見て回りましょう。松がおすすめです。」
 かきつばた園の出口を南に1区歩くと八橋町の信号、そこを右折すると「鎌倉街道」と言われる古い街道である。街道沿いに在原寺(ざいげんじ)。業平の菩提を弔う業平塚が築かれた(寛平年間889~897)折りに塚を守る人の御堂として創建された寺とのこと。

 更に街道を歩くと名鉄の踏切があった。踏切の手前に「根上りの松」という松があったので、そこで記念写真を撮る。広重が描いた竪絵東海道40番目「池鯉鮒の宿八橋村の絵」に描かれた松だという。
 ちなみに「知立」の名は「池鯉鮒」、宿場の入り口にあった御手洗池に鯉や鮒が多くいたことに由来する。池鯉鮒宿は日本橋から数えて40番目の宿。距離は日本橋より約330km。
踏切を渡ると、右手の小さな丘に公園があり、そこに業平塚があった。

業平のお骨を分骨して祀ったものとの説明の掲示があった。この塚を見学後帰ることにした。
3時前無事に帰宅出ました。


三河八橋

2016-05-06 | 旅行
三河八橋に行ってきました。3日の中日朝刊に「三河八橋の無量寿寺の杜若が見ごろを迎えた」という記事が出ていました。5月の住宅シニアクラブのウオーキングはどこにしようかと思案中だったので、行ってみてよさそうなら27日のウオーキングに決めようか、と下見をすることにしたのです。
平安時代に成立した伊勢物語の9段には、 「三河の国八橋」で在原業平とおぼしき主人公=昔男が歌を詠んだ、とあります(古今集410番にもあり)。昔男は、都への未練を残しつつ「東下り」の旅をつづけ、 当地(知立市)まで来て次のような歌を詠みます。

   からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
9時半家を出て金山から名鉄の豊橋行きに乗車、知立で下車しました。観光案内所で詳細情報を聞こうと思ったのですが、ないという。駅員に聞くと、「2番線で豊田方面に乗り換え二つ目の駅で下車し、乗り越し精算器で清算してください」とのこと。
2番線に行くと、「猿投行」が10時20分に出るところだった。三河八橋駅で降りて、清算(金山から500円だった)無量寿寺を聞こうと思ったが、無人駅で駅員はいない。通りがかりの人に聞くと、「旗を辿って行けばいい」と言う。なるほど、かきつばたまつり4月27日~5月26日」の旗が道に建っている。「これは便利だ。しかしまつりが終わる27日は旗は撤去されてるかな」。5~6分歩くと無量寿寺です。

池には杜若の紫の花が咲き誇っています。
池のほとりに「八橋」の由来を記した標識が建っていました。「海で海藻を撮っていた母をしたって二児が海に入ろうとして誤って海に落ちて死んだ。菩提を弔う母が「橋ありせばこの事故はなかった」と、お告げにより流れ着いた材木を使い橋をつくったことから「八橋」の地名が残ったと言います。
そういえば京都に「八橋」という船の形の菓子があります。この地に因んだ菓子のようです。
祭り期間のためか売店が出ていましたが、「八橋」も売っていました。
敷地13000坪、5000㎡の池に3万本の杜若があります。



この近くに、もう一つかきつばたの名勝があると聞いていました。
「洲原公園」という所に「小堤西池」という京都の大田の沢、鳥取県の唐川と並ぶ日本3大かきつばた自生地があるという。そちらも行ってみようかと、聞くと「知立駅に戻り愛教大行きのバスに乗れ」という。お寺の他に、広重が東海道の絵にえがいた「根上がりの松」とか「業平塚」とか塚を守る人の御堂として創建された在原寺が近くにあるとのことでしたが、「場所はわかった。当日みればいい」切り上げて帰ることにしました。
ウオーキングの選定地にするには少し歩く距離が短いと思いましたが、有名な割に訪れる機会の少ない地だから、ここにしても良いと思いました。帰りに知立駅で途中下車して、「洲原公園」に行くとしたらバスの便はどうか、と調べてみました。1時間に3本ほど、名鉄バスがあり、片道350円でした。
「やはり両方行くのは難しい。こちらは来年にしよう。」と、考えました。