津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む 「秩禄処分 明治維新と武家の解体」 (講談社学術文庫)

2016-03-14 18:26:16 | 書籍・読書
 秩禄処分 明治維新と武家の解体 (講談社学術文庫)
 
             講談社

 

落合弘樹[オチアイヒロキ] 
1962年大阪府生まれ。中央大学文学部卒。京都大学人文科学研究所助手などを経て、明治大学文学部教授。博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社内容情報

明治9年、家禄を廃止して武士という身分を解体した秩禄処分。既得権を否定し社会を再構築した維新期の大改革は、なぜ成功したのか。

「秩禄処分」とは、明治9年、それまで華族・士族に世襲的に与えられていた家禄を廃止し、「武士」という特権的身分を最終的に解体した改革である。
明治維新の「三大改革」といえば、「徴兵制」「学制」「地租改正」といわれるが、本書の著者によれば、「秩禄処分」はそれに匹敵する大改革であるという。
現代にたとえるならば、公務員をいったん全員解雇して退職金も国債での支給とし、そのうえで必要最低限の人員で公職を再編するというような措置である。
この旧支配層の特権を廃止し、社会全体を再構築する政策は、曲折を経つつも順調に実施され、武家はほとんど無抵抗のまま王政復古からほぼ10年で解体されたのだが、なぜ、このようなことが可能だったのか。
本書では、そもそも江戸時代以来、「武士」とはどのようなものと位置付けられていたか、そして、没落する士族たちは、新たな時代にどのように立ち向かっていったのかを明らかにしていく。
既得権を解消して社会を再構築するという本来の意味の「リストラ」に成功した歴史から、現代の私たちが学ぶべきことは多いだろう。
〔1999年、中央公論新社刊の同名書籍の文庫化〕

第一章 江戸時代の武士
第二章 維新期の禄制改革
第三章 留守政府の禄制処分計画
第四章 大久保政権の秩禄処分
第五章 禄制の廃止
第七章 士族のゆくえ

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■風邪+花粉症

2016-03-14 15:08:52 | 徒然

 咳がひどい風邪を引いて丸五日、一昨日頃からこれに花粉症だと思われるくしゃみ・鼻水・目の痛みが加わってきた。
部屋の中を移動するにもティシュの箱を持ち歩いている。ちり箱にすぐさま山ができる有様である。
しかし咳は随分おさまって来たので少しほっとしている。4日で40時間ほど睡眠をとったお陰で背中や腰が痛くなるおまけが付いた。
図書館に出かけたいのだが、あそこで私の強烈なくしゃみをご披露するわけには参らぬ。しばし我慢する事とする。
またオークションで本を探す事にしよう。
 

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■寺本八左衛門、河村猪右衛門を討果たす

2016-03-14 07:10:54 | 史料

寛永十六年三月十三日寺本八左衛門が河村猪右衛門を打果たすという事件が起きた。これは、寛永十五年十一月七日河村猪右衛門が島原一揆の際宇土郡郡浦にてキリシタンの小左衛門を捕らえた一件にて、寺本八左衛門に不服があるとして苦情を申し、十数回の往復の後三月十三日寺本方に押懸けてきたので致し方なく応戦して、河村を討ち果たしたというものである。 上妻文庫の書写記録「寺本八左衛門河村猪右衛門を打果候記録」によると、八左衛門は大変詳細な記録を残しており、そのすべてを藩庁に報告している。
その状況は忠利公も周知の事であったため、河村に対する怒りは激しく 卯月廿四日の三家老宛ての忠利書状に次のようにある。

     一、八左衛門へ之仕儀中々無是非にくき事・・せかれ腹を可申付候
     一、八左衛門儀ハ果不申満足申候
     一、せかれ果候わけとくと下々合点参候様ニ可申聞候 

同日付け四奉行宛書状にも次のようにある。
     一、寺本事不相果満足申候河村事にくきやつニて候委細年寄共迄申候

寺本はせいなる者なれハかまい申間敷・・」との忠利の裁断で、八左衛門はお構いなしという結果となった。
忠利公が亡くなった跡、八左衛門は殉死することになるが、まさにこの事件で命を永らえたという感謝の気持ちであったことはいうまでもない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                   後藤又兵衛縁類。尾州之産にて播州にも居、大阪籠城五六年前大阪ニ越、佐々木兵庫
       と申者所に在、籠城の時ハ後藤又兵衛方ニ而度々武功有、元和六年豊前ニ而被召出候
       節、知行高望候様ニ被仰付候処、又兵衛倅御家ニ被召仕候間、是越可申様無之段申上
       五百石拝領仕、肥後入国後五百石御加増・・・・・        (綿考輯録・巻十七)

          
       寛永十六年三月十三日河村猪右衛門を打果たす(寺本八左衛門河村猪右衛門を打果候記録)

                嘉永十年~嘉永十八年四月(追腹) 鉄炮五十挺頭
          【細川忠利殉死】 四月二十九日 五十三才 於・安養寺 介錯・藤本猪左衛門
          牢人、忠興代(元和六年)召出 五百石 鉄炮三十挺頭
          跡式嫡子久太郎ニ知行千石、家屋敷 久太郎知行三百石ハ収公。
                知行宛行状 (元和六年) 五百石

                寺本八左衛門知行方目録(元和六年)千石 

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■古保様消息

2016-03-13 10:42:50 | 史料

 お古保さまは忠興公の次女、長岡佐渡興長室である。天正十年(十三年とも)生まれ、生母は郡主馬宗保女・松丸殿である。
万治元年九月十二日肥後八代で亡くなった。法号恵妙院因月宗圓、八代春光院ニ葬る。

あて先の監物は米田是季か、堀江勘兵衛は忠利・光尚・綱利三代に仕えたが、綱利の初入国にあたり余りにも華美な行列で帰国したので、国元重臣の不興をかい責任を問われて職を解かれ逼塞した。 

 

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■只今読書中

2016-03-13 07:55:26 | 書籍・読書
  今日も珈琲日和 (かもめの本棚)
 
      東海教育研究所

内容説明

真っ赤な屋根が目印のリヤカー屋台の前には、年代物のちゃぶ台と火鉢。湯気が立つ鉄瓶が、訪れる人を出迎えてくれる。東京の西側、武蔵野の面影が色濃く残る緑豊かな小金井界隈で、道行く人に一杯ずつ丁寧に淹れた珈琲を飲ませてくれる小さなお店。ここには壁も敷居もない。晴れの日も雨の日も、夏も冬も、どこまでもつながる空の下、それぞれの人たちの日常の中に「珈琲屋台 出茶屋」はある。

目次

軒先を借りるということ
山下さん
銀杏おじさん
19歳
大根農家のアルバイト
屋台を引く
平林家
冬支度
西荻生活
神保町
珈琲家 香七絵さん
珈琲を淹れる
火鉢屋さん
桝本さん
雨ニモマケズ風ニモマケズ
一期一会

つながり
子どもたち
出茶屋のこれから

著者紹介

鶴巻麻由子[ツルマキマユコ] 
1979年千葉県生まれ。2004年に東京都小金井市に移り住む。同年、小金井市商工会が主催する「こがねい夢プラン支援事業」に応募し、リヤカーを用いた「珈琲屋台」のプランが採用される(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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■体調不良につき・・・

2016-03-12 17:02:04 | 花押

 風邪の具合がまだ宜しくない。昨晩も10時間睡眠したが、体がしゃっきりしない。
どうしても済まさなければ成らない用事があって4時間ほど外出、帰宅と同時に昼寝1時間・・・・・
明日当たりにはしゃっきりして、史談会の資料作りを本格化させねばならない。

今日はこの程度で失礼いたします。

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■忍びの衆のお手柄

2016-03-11 10:35:58 | 史料

 天草島原の乱に於いて、天草四郎の小屋に火矢をいかけたとして、忍びの者吉田助右衛門の子太郎介が褒賞を受けた記録である。
忍びの者であるという証拠は以下の如くしっかりしている。
   
         ■ 消息:寛永五年六月廿六日「日帳」
             吉田助右衛門尉子、太郎介(ママ)・弟十介弐人共ニ、昨日助右衛門 御前二而、子ハ無之哉と被成御尋候間、
             これ/\御座候由申上候処二、急度御礼申させ可申候、かちの御小性二めしつかハれ可申候、くミはいつれ
             へ成共、助右衛門尉希望次第ニ入可申旨にて、今日御礼申上候、御礼取次ハ式ア少輔殿(松井興長)也
         ■ 吉田太郎助  切米人数   十石三人 (於豊前小倉御侍帳) 

         ■      覚
           一、しのびの者今十五人程度抱度由申候何そ役可在之候哉
                        寛永拾年九月十日
       
         ■ 一、十五人しのひ之者抱たし候と助右衛門尉ニ可申候 切米拾石ニ三人扶持にて可然候以上 御印
           一、なにもしのひ之者何にても助右衛門尉相談候而召遣可申候以上 御印

いろんな活字化された資料からでも、一つ一つ記録を積み上げていくと、こんな文書に出会ったとき裏付けと成って飛び上がるほど嬉しくなってしまう。

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■もらい風邪

2016-03-10 17:07:36 | 徒然

 私こと奥方から風邪をもらい受けて只今大変難儀いたして居ります。奥方は聞くにたえないような咳をして居りますが、私はそこまではいかないまでも喉が痛くて、咳が止まりません。熱はない(?)と思いますが、頭痛と節々に痛みがあってなかなか辛いものがあります。
売薬を飲んではおりますが、今の処効き目がなく今日は早めに寝る事にしましょう。
74歳、体力が落ちたなーと多いに実感して居ります。
来襲土曜日の史談会の3月例会資料がまだ出来上がって居らず、寝込むわけには行かぬと気力を振り絞っています。

5日ほど20度を超える暖かい日が続いたあと、昨日今日と7度ばかりダウンして「はっきりせい・・」と言いたくなるお天気です。
身体には良く有りませんね~。皆様もどうぞお気をつけてお過ごし下さい。 

3:11 11:00追記
      作夜は八時にベッドに入り11時間睡眠をとりました。激しい咳のため胸が痛くて仕方ありません。今日は一日ゆっくり過ごすことに致します。

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■江戸の平和力―戦争をしなかった江戸の250年

2016-03-10 09:07:02 | 花押
 江戸の平和力―戦争をしなかった江戸の250年
           高橋 敏
           敬文舎

 

 紀伊国屋書店の書籍検索で、和本→人文→日本歴史でうろうろしていたら、高橋敏先生のこの御著を発見した。
ひょんなことからご厚誼をいただいている先生は国立歴史民俗博物館名誉教授、これは早々に読まなければならないと気がせいている。

内容紹介
   江戸の250年には、平和を創造していく時代の意志が力となってはたらいていた! 

  • ◉序章 乱世の記憶と平和への願い
    ◉第1章 田畑を所有し家を建て先祖を祀る
    ◉第2章 一人前と読み書き算用—後継者の育成
    ◉第3章 拝領と献上—贈答・互酬の社会
    ◉第4章 紛争とその収拾
    ◉第5章 支配秩序とアウトロー
    ◉第6章 結社とネットワーク社会の江戸
    ◉第7章 旅する人びと
    ◉終章 辞世を刻む


 

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■戦前 熊本 江津橋の朝霧

2016-03-09 10:23:52 | オークション

戦前 熊本 江津橋の朝霧   戦前 熊本 江津橋の朝霧

                      ↓

            私が小学生から中学一二年生の頃橋の上から飛び込んでいた齊藤橋(江津齊藤橋)

                      

 

 

 

 



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■熊本独特の・・・・

2016-03-08 08:17:44 | 熊本

 数年前「ゟ」という文字が環境依存文字として使えるように成ったときは、多いに感激したことであった。
ここにご紹介する文字は、熊本の古文書に良く登場する文字だが、残念ながら入力することが出来ない熊本独特の文字である。

偏 にメ」と書いて、読みは「しめ」である。現在あるお宅の先祖附をタイピングしているが、二ヶ所にこの文字が登場している。
一文字分明けてコピーして、仕方なく万年筆で書き込むといういうことになる。なんだかな~ 

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■熊本藩主 細川重賢 梅月画賛 紙本肉筆 肥後名宝展出品作

2016-03-07 17:23:55 | オークション

                                                 熊本藩主 細川重賢 梅月画賛 紙本肉筆 肥後名宝展出品作

                              熊本藩主 細川重賢 梅月画賛 紙本肉筆 肥後名宝展出品作 

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■古い新聞の切抜きから「西山家資料が語るもの--小倉戦争絵巻」

2016-03-07 09:54:12 | 史料

 第二次長州征伐の絵図が紹介されている。(現・八代未来の森ミュージアム蔵)
高杉晋作が率いる長州軍が唯一敗北を期した戦争であったが、総大将の老中が将軍死去の報をうけて戦線を離脱したため、熊本藩も撤退する。
一人小倉藩は長州を相手に戦うこととなり、小倉城に火をつけることになる。幼い藩主は熊本藩領へ向かい、苦しい逃亡生活をすごすことに成る。 

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■古い新聞の切抜きから「足利家の末裔を抱えた細川家」

2016-03-06 17:45:51 | 花押

                平成8年9月24日の熊本日日新聞に掲載された記事である。

■ 西山大衛  (南東8-1) 
    
 足利十三代将軍義輝 
     尾池玄蕃(足利道鑑)又(小池茂左衛門・入道道閑)
            女:桜井兼友・正室 水無瀬兼豊養女(足利義辰・女)
            女:小笠原長之・後室
     西山左京・至之(尾池伝左圧衛門)
            
後・息勘十郎とともに「御家御断申、京ニ被相越候由」(綿考輯録・巻五十二)
                   
細川忠利公御書出(寛永十五年)千石
                   
細川光貞公御書出(寛永十八年)千石
     西山勘十郎       
細川忠利公御書出(寛永十五年)五百石
                   
細川光貞公御書出(寛永十八年)五百石
    1、八郎兵衛(弟 山三郎氏房)             

    2、九郎兵衛・道可(養子 実・小笠原備前長之二男 初・八郎兵衛・氏清)               

    3、多膳・氏政

    4、大衛・氏章 

    5、多膳 (養子 実・田中左兵衛二男) 

    6、剤(多膳)       

    7、九郎兵衛(大衛) 

    8、直次郎(実・弟 八郎兵衛)         

    9、直太郎(実・九郎兵衛子 大衛)

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

        西山道鑑消息
          1、寛永十五年十一月廿二日 忠利君御書
              信長様御所持之御甲鑓御見せ被成り、・・・・・・・・
                                         (綿考輯録・巻五十)
          1、寛永十七年十月二十三日・奉書
              道鑑様・宮本武蔵 山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ・薪ニ至まて念を入
              御賄可被申付之旨 御意ニ候 以上
                    十月廿三日                          朝山斎助在判
                          御奉行中
          1、寛永十八年正月二日
              道鑑老・西山左京(道鑑子)・同勘十郎(左京子)・同山三郎(勘十郎弟)、
              新免武蔵(剣術者也)、源次郎(不詳)、春田又左衛門(具足師)なとハ
              奥書院ニて御祝被成候而・・・・・・       (綿考輯録・巻五十二)
          1、寛永十八年十二月廿一日 足利道鑑老より鑑物江之状
                   爰元奉行衆より幸便頼入令啓上候
            一、長岡勘解由殿、昨日廿一日致熊本御着候、其表太守様御機嫌能、御息災被成御座、
              其上御前之御仕合残所無御座旨御書ニ蒙仰、何より以万々目出度奉存候、就夫貴殿
              様・頼母殿・右馬助殿今度御目見え被成候処、結構成御上意被仰出之由承り、先書ニ
              も悦入、以書状申上候、弥勘解由殿御相談承、右ニも申上ル通、日本六拾余州ニ其陰
              御座候有間敷と存御事ニ候、重々御吉左右奉待存候
            一、従光貞様御念比之御書被成下、其上左京亮かた之御書ニも別而被加御念、比愚老息
              災罷存候哉と蒙仰、扨も々々難有奉存候、一段と無事ニ罷成候条、御次而之折節可然
              様御取成万々奉頼外無他存候
            一、去月廿六日・当月二日両度之貴札慥ニ相届、面上同前ニ存、くり返くり返拝見忝存候、
              就其大僧正様・双厳院・金蔵院之様子被仰下忝存候、弥大僧正様御息災被成御座候哉、
              急便ニ承度奉存候
            一、せがれ藤左衛門身上之儀、今度於伏見従太守様別而被加御懇、其上御知行并当物成
              残所無御座様ニ被仰出候処、弥貴殿様御取成故外聞実儀忝次第御礼難申尽存候、就
              夫女子共召連今日十七日ニ致熊本着仕候、宿之儀奉行衆并備前守殿御相談ニ而刑部
              殿御屋敷長屋を御借候而かしニ付而手前より作事仕有付候、御心安可被思召候、愚老
              忝様子書中ニ不述申候、御次而も御座候ハゝ可然様ニ御取成万々奉頼存候
            一、拙者娘祝言之儀、備前殿と相談仕、年内は余日無御座候付而、来春迄相延申候、将又
              先可申上ニ御宿上下共ニ御無事ニ御座候条、御心安可被思召候、猶追々可得御意候
              恐惶謹言
                                                足利道鑑法印
                                                      義辰 
                  十二月廿一日
                        長岡監物様
                             人々御中
                                           (綿考輯録・巻五十九)
        西山右京消息
          1、寛永十五年二月二十三日
              島原乱の状況報告書状 長岡監物宛     (綿考輯録・巻四十六)
        尾池伝右衛門(西山左京)
              千石  (真源院様御代御侍名附)
              千石  (慶安三年・真源院様御代御侍免憮帳)(寛文四年・御侍帳)
          1、寛永十九年三月二日、監物より小笠原備前ニ遣候状(抜粋)
              尾池伝右衛門儀、如被仰越諸人ほめ申由承候、迚之事ニ御家ニ取こミ申度事ニ而候、
              ニ三日已前ニ拙宅江御尋ニ而候キ、貴様よりも被仰越候、我等左様ニ存候条、道鑑様
              も御座候間、当家へ御座候様ニと存候由、され事ましりニ申て口ふりを承候所ニ、御一
              門大勢被召抱候上、又候哉、御家江参候事ハいかゝ候ハん哉と被仰候間、又おしかへ
              し申て見申候へ共、伝右衛門殿御口ふり堅ク相聞え申候、又二三日中ニちと用所候而
              懸御目候条、幾度も申候而何とそ引入申度心中ニ御座候事
                                           (綿考輯録・巻五十九)
        尾池藤左衛門(左京・弟)
              千石  (         同上   )
              千石  (         同上           )
              寛文元年八月六日・御暇 壱千石 (
)・・小池藤左衛門
          1、細川文書・御判之物
              尾池藤左衛門尉殿へ米二百俵、但蔵俵也、并塩五俵・薪三拾駄・炭三十俵可相渡者也
                 寛永拾八年九月十一日    光尚ローマ字印
                                 奉行中

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■決定・・「ブラタモリ」放送予定

2016-03-05 10:03:49 | 熊本

#34 熊本城 ~熊本城は“やりすぎ城”?~ 
        総合 2016年3月19日(土)午後7時30分~8時15分

ブラタモリ、熊本へ!
今回の舞台は、日本を代表する名城・「熊本城」。城づくりの名人と言われた戦国武将・加藤清正が丹精込めて築いた城は“やりすぎ”な城だった?タモリさんが難攻不落の要塞に挑みます。永遠に続くかと思われる曲がり角、頭上高く見上げる石垣、奇想天外な暗闇の通路・・・実は細かくて心配性だったという加藤清正のこだわりぶりは、まさに“やりすぎ”!?さらに町なかにもいろんな“やりすぎ”が満載。戦国時代のまちづくりの常識を裏切る「見通しの良い道路」に隠された驚きの仕掛けとは?さらに、わらべうた「あんたがた どこさ」の歌詞に出てくる「せんばやま」の正体を発見!?果たしてタモリさんは、“やりすぎ”熊本城を攻略できるのか?

 

#35 水の国・熊本 ~“火の国”熊本は“水の国”? ~
        総合 2016年4月2日(土)午後7時30分~8時15分

“火の国”とも呼ばれる熊本ですが、実は全国でも有数の水に恵まれた土地。熊本市民のための水道は、地下水で100%まかなえるほどです。阿蘇の火山によってもたらされた、熊本の名水の秘密に、タモリさんがブラブラ歩いて迫ります。
住宅街で、“きれいすぎる”川を発見!そこで湧き出す謎の水の正体と、観光名所・水前寺成趣園との意外な関係とは? 地下水は実は“2階建て”だった?巨大な「噴きだす井戸」にタモリさん大興奮!さらに戦国武将・加藤清正が作ったという、謎のトンネル「鼻ぐり井手」にタモリさんが潜入!そこで見た400年前の驚きのメカニズムとは?

 
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