津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寛政四年の島原・前嶽の崩壊

2016-03-05 08:57:16 | 史料

 昨日に続いてのC寺様の走り書きによる記録をご紹介する。
これは所謂「島原大変肥後迷惑」といわれた、前嶽山体崩壊による津波の大災害に関する記述である。

        寛政四子歳四月朔旦嶋原山前嶽クズルヽツナミニテ長濱河内梅トウ小嶋ヨリ二ケ川筋濱
        一通リウチクズシ家人畜類死スル事数不知 濱邊ニテ諸宗吊(弔)ノ読経度々ニ方ヨへり 公儀ヨリ
        三ヶ寺ニ仰セ有テ吊ノ御経有諸宗大寺小寺共ニ持佛堂ニテ吊ノ経アリ 法中ヨリテ三日三夜ノ法事
        執行致ケリ 御本山ヨリハ御使僧浄林坊被下 延壽寺ニテ三日三夜ノ吊アリ 五里四方ノ配下打寄
        読経三部
        説法中座ニ
        ツトムル事

この年の「3月1日、熊本では地震が六十余度起こり、島原温泉岳に煙が見えた。4月1日肥後沿岸一帯に温泉崩れによる津波来襲、2,250軒流失、5,250人死亡」(年譜)した。
「川尻では泰宝丸の新造出帆式あるも津波で二丁村陸地に突上げる」と肥後近世史年表は記している。


        島原大変肥後迷惑 

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■寛政八年の災難

2016-03-04 14:06:27 | 史料

 熊本藩年表稿で寛政八年の項をみると、5月「十五日頃より雨降続き、度々洪水」とあり、6月11日「大雨降る、熊本大洪水」12日「洪水1丈6尺、緑川・加勢川筋53ケ所塘切れ、藤冨村権藤「古ホゲ」を生ず、俗に辰の年の大水」とある。
「古今未曾有の洪水、熊本府内京町山崎の外全域浸水、潰家2,927軒、田畑15,202町、損毛362,2000石」と肥後近世史年表は記している。

上の記事はあるお寺様の由緒を読んでいる中にあった、この水害に関する走り書きの記録である。
正月中旬から雪が七・八寸(21~24㌢)も積もるという異常天気であったらしい。貴重な記録である。 

   蛇足:左にある カノト ミツノへ ミツノトの書き込みは余計物ですが、実はその左には 辛 壬 癸 の字が書かれて居ります。
       振り仮名を付けて居られるわけですが、思わず笑ってしまいました。(失礼) 

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■我が人生の伴侶

2016-03-04 09:41:30 | 徒然

 先にデスクを動かしたせいで、本棚周りの資料を整理する事を余儀なくされている。
茶封筒に入れた資料を取り出して、系統だててファイルに入れる作業をしている。随分整理が出来て空き袋に成った茶封筒を束にして「ごみ収集」に出した。
そんな中、随分探し回っていた資料が二三点顔を出した。うれしくなって床に座り込み、久しぶりの再開に少々時間を費やして読みふける。
そして新たなファイルに収納し、どのファイルに入れたかが判るように、リストを作成するというおまけ付きである。
あと何年生きるのか知れないが、これらの資料はわが人生の伴侶であったことは間違いなく、最後まで大切にしておきたい。
歴史狂いをしてから約10年、あと10年生きるとすると資料も5割増し位には成るだろう。もう置き場所がなくてどうしようもない。
スキャンしようかとも思うがそんな時間もないし、あんなこんなと考えながら時が過ぎていく。 

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■お安く読む・新潮文庫「日本人はどう住まうべきか?」

2016-03-03 17:06:25 | 書籍・読書
  日本人はどう住まうべきか? (新潮文庫)
 
            新潮社

 

内容説明

日本人は元来「だましだまし」生きてきたのに、津波被害を完璧に予測して対策するなど不可能。原発問題も土建問題もつまるところ戦争のツケ。マイホーム所有が人生の目標だった時代は終わり、どこにどう住まうかが自己表現になる。震災と津波、高齢化、地域格差…さまざまな社会問題をふまえ、現代人の幸福を実現する住まいのあり方について、解剖学者と建築家が論じた贅沢対談集。

目次

第1章 「だましだまし」の知恵
第2章 原理主義に行かない勇気
第3章 「ともだおれ」の思想
第4章 適応力と笑いのワザ
第5章 経済観念という合理性
第6章 参勤交代のスヽメ

東京オリンピック会場のコンペティションに勝利された隈 研吾大先生が、「住まい」についてどのような卓見を述べられるのか・・・・
現役引退したとはいえ資格は現役の私、この本少々気に成るから買って見ようかな~と思っている。
第6章が一番気に成る。 

 

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■松寿庵先生・第181講

2016-03-03 16:08:23 | 史料
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■大雑把ではありますが・・・

2016-03-03 12:15:16 | 史料

 寛永十七年六月一日付で細川忠利は幕府に対し、白川から川尻大川までの間に、高瀬船が行きかうことのできるよう既設の井手(はば二間計、深さ一二尺)を広げたい旨の申請をしている。その時に提出されたのがこの絵図である。(新熊本市史・資料編第三 p194)
これに対し六月十四日付で幕府からお許しが出ている。
もっとも藩内で反対意見が出て工事は差しとめられている。なんとも大雑把な図面に思わず笑ってしまった。(失礼) 

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■再開準備「我が家検索リスト」

2016-03-02 08:31:08 | 地図散歩

 2012:10:9~11:02にかけて7回にわたって「我が家検索リスト」をUP してきたが、このリストを通じてご先祖様の住まいを見つけ出したあいたが方からご連絡を頂いた事がある。それなりの成果はあったかと自負している。
しかしながらUP しているのはまだ半分に過ぎず、残りを何とか再開しなければ成らないと考えている。3年4ヶ月経過しているからなー。
 

           (熊本所分絵図)     
      1、 68-1     二の丸         2012:10:09

      2、 68-2     山崎           2012:10:11
      3、 68-3     高田原         2012:10:14
      4、 68-4     手取           2012:10:19
      5、 68-5     外坪井・千反畑    2012:10:25
      6、 69-6-1   向寺原・建部1    2012:10:29 (地図のみ・リストなし)
      7、 69-6-2   向寺原・建部2    2012:11:02 (      同      )
      8、 68-7     内坪井                      
      9、 68-8     寺原              
     10、 68-9     京町              
     11、 68-10    高麗門・塩屋町       
     12、 68-11    古町              
     13、 68-12    飽田・託摩             

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■寛永17年3月興孝(刑部家祖)、熊本帰着

2016-03-01 16:48:38 | 歴史

 この日細川忠興の五男(刑部家祖・図書家とも)の興孝が、永く證人として在府中の江戸より熊本に帰着したと「熊本藩年表稿」は記している。
(これはどうも間違いで21日が本当らしい。引用したのが生田宏著・圭室諦成校訂の「肥後近世史年表」とあるが、まだ確認には至っていない。)

興孝は三歳で江戸證人として出されたが、この年父の勘気を蒙り同母兄・立允と交替させられて帰国途中で剃髪した。
帰着後は高麗門外安国寺に住したが、後菊池の高野瀬(現・菊池市隈府)に移住した。
三斎の最晩年まで関係は良くなかったとされる。
寛永十五年の暮、忠利が息・光尚に与えた書状には次のようにある。

      同名刑部事身上成不申 迷惑仕ニ付而 金子かされ候由我等分別ニ相不申候
      子之事ニ而候ヘハ三斎様御こらし候ハんと思食 迷惑仕様ニ被仰付候ニ 肥後
      (光尚)取持候事却而刑部為如何と存事候 

翌十六年一月の忠利書状(光尚宛)

      同名刑部事 中を御たがひ候て御誓文ニて御直り候ましきとの儀ニ付而 左候
      ヘハ人しちニ進上被成候刑部 三斎様と中をたがひニ落付候ヘハ 公儀へ人し
      ちニ上ケ被置候而も役ニ不立儀ニ候間 立允を替りニ江戸へ可被召連と御老
      中へ御談合候ヘハ尤との被仰様ニ候

このような状況の中、興孝に替り立允が江戸證人として同年五月二十日に八城を発ち八月十三日江戸に着いた。 

興孝の知行を三斎が管理して与えなかったことも一因だろう。その三斎も正保二年十二月二日八代で死去した。
正保三年九月知行二万五千石(光尚判物)を与えられ、その後熊本に出て古京町に移った。
興孝にとっては誠に不本意なことであったろう。三斎死の直前に見舞いに訪ね、懇ろの対面をしたとされる。 

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■細川家記讀編

2016-03-01 11:51:20 | 歴史

細川家記讀編

    1、 綱利公(一)   自・寛永廿年   至・慶安三年     262頁
    2、  綱利公(二)   自・慶安三年   至・承應三年     274頁
    3、  綱利公(三)   自・明暦元年   至・萬治三年     254頁
    4、  綱利公(四)   自・寛文元年   至・ 同 六年     238頁
    5、  綱利公(五)   自・寛文七年   至・ 同 十三年     240頁
    6、  綱利公(六)   自・延寶元年   至・貞享四年     284頁
    7、 綱利公(七)   自・元禄元年   至・正徳四年     210頁
    8、 綱利公(八止 付録全)                        204頁
    9、 宣紀公(乾)   自・延寶四年   至・享保四年     200頁
   10、 宣紀公(坤)   自・享保五年   至・ 同十七年    162頁
    11、 宗孝公(全)   自・享保三年   至・延享四年     275頁
   12、 重賢公(全)   自・享保五年   至・天明五年     314頁
   13、 宣紀・宗孝・重賢公 附録全                    116頁
   14、 治年公(全)   自・寶暦九年   至・天明七年       68頁
   15、 雑録                                 266頁          全 3,367頁


何故これをご紹介をしたかというと・・・・・・・・・・
細川家記としては「綿考輯録」が刊本として存在するが、綱利公以降が存在しない。
上記「細川家記讀編」は東大史料編纂所のデータベースで見る事ができて有難いが、スクロールしながら見ることが出来ずに少々難儀する。
全15編 3,367頁に及ぶが、これを読み下して活字化する事ができないかと考えている。
「古文書を読む会」が熊本にいろいろある。これらの会が協力しあい分担して行えば実現の可能性は大いにある。さて如何だろうか・・・

(一人で一日に5頁程読み下しタイピングすることが出来れば、一人ででも二年ほどで終わる事はできるのだが・・・・これは無理!!!!)

 

コメント (2)
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