津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小笠原豊千代殿御宿

2016-03-26 11:36:55 | 地図散歩

 慶應二年小倉藩は第二次征長戦争の戦場と化した。幕命により熊本藩も出陣し高杉晋作率いる長州軍に大打撃を与えたりしている。
その後熊本藩は撤退、小倉藩は小倉城を自焼させるなど抗戦したが、幼い当主豊千代君は逃避を余儀なくされ、熊本藩領へと入った。
大浪和弥氏の論考「小倉落人と肥後藩・小倉落人に関する基礎的研究」によると、8月2日には豊千代一行の肥後入国が長岡監物から藩庁へ報告されている。出発が何日であったのか定かではないが、一行は12日阿蘇内牧御茶屋に到着している。ここで3ヶ月半ほどをすごし、11月28日熊本城下に入り坪井の伊勢屋に到着した。つい最近絵図を詳しく見ていたところ、図示する処に「いせや惣四郎」の表示を発見、一部資料では「八百屋町」ともあるので、間違いないと思われる。当時は広丁のどんずまりに当たる場所だが、現在は上熊本方面に抜ける幹線道路である。つまり「いせや」の場所は現在ではその道路の中ということになる。
豊千代さま御年4歳、この宿屋に慶應3年4月頃まで滞在された。後の小笠原忠忱公である。
小倉藩からの落人=避難民は5,640人に上ったと大浪氏は指摘されている。小倉藩小笠原家にとっては屈辱の時であった。

改ためて御宿「いせや」の場所を考えると、花畑邸も近くまた熊本城も望まれる場所であり、密かな交流もあったのではないかと想像するが如何であろうか。

コメント
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