津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■吉浦郷右衛門覺書(ニ)

2016-03-23 18:41:25 | 史料

一、天野源右衛門殿柳川ニ居申され候中 家中之衆中ニ馬之中
  乗を初メ被申候 其時分迄者西国方ニハ馬の小乗不存候處ニ
  柳川衆へ者右之通源右衛門殿ゟ傳被申候 武之法式品々御
  座候由 岡田平大夫殿と申仁物語ニ承り 平大夫儀御事ニて
  ト柳川衆故御存知ニて御物語御座候
一、右源右衛門殿武功之中ニ者 第一覚ハ 光秀様御謀反之事
  信長様を鎗付被申候 其次第ハ 光秀様御謀反之思召立ニ
  て 御在城丹波亀山ニ御引入被成 外へ之聞ニ候 中国毛利家
  との御取合之為御人数を催され候分ニて 御人数御仕立被
  成 亀山ゟ京都へ本道を御押被成候てハ行程遠く 間抜仕
  候間 御数国之中故 人夫を大勢御取寄被成 大江山の中
  に夜の間ニ朝道を被仰付 夜中ニ京都ニ御着被成 天正十
  年六月二日之未明ニ 左馬助様御手先ニて 信長様御宿陳
  本能寺へ御取懸被成 未タ御門開キ不申候ニ付 左馬助様
  ゟ仰入られ候者 城之助様御謀反ニ付 光秀御味方ニ参
  り申候 早々御門開き被申候様ニと有之候得者 御門番之衆中ニ
  驚 取あへす御門を開き候付 其侭押入 御門番之者共
  を一々切伏 未明と申 俄之事故 差而立向衆無之故 其侭
  御臺所前迄御仕込被成 其時信長様ヘハ御さばき髪
  ニて 半弓を御持被成 御臺所口ニ御立被成候哉 世悴共と御
  いかり被成候 御威光ニ 覚へずハつと平腹(伏)仕候 中ゟ源右衛門進
  ミ出 鎗を以信長様之左之御頬先を突被申候を 信長様源
  右衛門鎗りを御握り 鎗先之血を御衣ニて御ぬくひ取 鎗ヲ
  御つき放し 其侭奥へ御入被成 其跡ゟ森蘭丸切出申
  され候を 是も源右衛門付ケ被申 其時親子共ニ仕舞候と
  高聲ニ呼わり申され候 是ハ蘭丸を城之助様と心得違
  ての儀ニ御座候 城之助様へハ 二条之御城ニ被成御座候儀
  を 兼而乍存 取違被申候故 後年武功物語之節者 自分
  邊ハうろたへ 武邊毎度座興ニ被申候由御座候 源右衛門
  殿終に様子ハ於唐津左之頬ニ無名の腫物出来 色々療
  養被仕候得共平癒無之 有馬湯治ニ罷越 唐津發足
  之時分被申候ハ 平癒仕候ハヽ帰可申 平癒無之候ハヽ二度帰り
  申間敷と被申候處ニ 有馬湯治ニても快気無之候ニ付 彼方ニて
  自害仕相果被申候 子息壱人御座候ヲ御取立 壱万石被下
  御家督被仰付候處 無程目を相煩 盲ニ成被申候由ニ御座候 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■海坂という言葉

2016-03-23 17:45:06 | 徒然

 藤沢周平の小説は100%とは言わないまでも随分読んだ。今でも随分くたびれた文庫本がわが本棚に並んでいる。
多くの舞台となった海坂藩の名前の由来を知ったのは、そう遠い話ではない。なんとなく俳句を親しむようになってからのことである。
藤沢は「半生の記」の中で「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかに弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である。」と書いている。
舟が水平線の彼方に見えなくなるのは海に傾斜があって他界に至ると考えたからという。神話における「海神の国と人の国との境界」という考え方の何とロマンチックなことか。 
熊本では天草の西海岸に出ないと水平線を見る事はできない。ましてや水平線に消え行く船の姿などとても見る機会はなさそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする