済州島(チェジュド)と沖縄には多くの共通点があります。
前回の訪問(2017年10月)では、民意に反して基地が建設されようとしていること、そして空港などが軍民共用化されようとしていること、さらに日本とアメリカによって「加害の島」にされてしまったこと(済州島は南京大虐殺の、沖縄はベトナム戦争の出撃基地)に注目しました(2017年11月11日、12日、14日のブログ参照)。
以前、沖縄タイムス(23年7月2日付)に、「済州と沖縄 多い共通点」と題した新里紹太・沖縄県ソウル事務所長のコラムが載りました。新里氏が指摘していたのは次の5点です。
①地理と歴史 最南端の島の自治体。済州島も1402年まで「耽羅(たんら=島国)」という名の独立国だった。
②方言 本島の言葉との違いが大きく、ユネスコの消滅危機言語に認定されている。
③トイレ かつて沖縄には豚小屋に直結する「フール」という便所があり、済州にも80年代まで「トンシ」という同様の便所があった。
④水族館 「アクアプラネット済州」という水族館は、済州道知事だった金泰煥氏が美ら海水族館を視察して造ったもの。
⑤平和の希求 「4・3平和公園」にある犠牲者の名前を刻んだ石板(写真左・中)は沖縄の「平和の礎」を参考に造られた。
これに加えて、今回の再訪で気付いたことがいくつかあります。
1つは、空港、商店街はじめ済州のいたるところに建っている(立っている)トルハンバンという石像です(写真右)。「石製の爺さん」という意味の守り神だそうです。沖縄のシーサー、あるいは石敢當を想起させます。いたる所にある守り神は、両島の苦悩の歴史・現実と無関係ではないと思えました。
もう1つは、いずれも観光が主力経済のリゾート地であること。空港は観光客でにぎわっていました。しかし、多くの観光客のうちどれほどの人が「4・3」を「沖縄戦」を知っているでしょうか。「観光(経済)」と「政治・歴史」の乖離を感じずにはおれません。
そしてもう1つ。
「4・3平和記念館」ハンドブックにこう書かれています。
「沖縄が米軍によって陥落させられると、日本軍は米軍の日本本土への上陸を防ぐ最後の砦として、済州島に大軍を配置し、島を要塞化した。…済州島での「第2の沖縄戦」は辛うじて免れた」
「捨て石」です。沖縄は実際に「捨て石」にされ、済州島は「第2の捨て石」にされる寸前だったのです。
この一節を読んで、文京洙・立命館大教授の指摘を思い出しました。
「何よりも朝鮮人にとって不幸だったのは戦争が長引いたことがソ連の参戦を招き、そのことが朝鮮半島の分割占領、ひいては朝鮮の南北分断につながったということであろう」(『新・韓国現代史』岩波新書2015年)
敗戦が誰の目にも明らかだったにもかかわらず戦争を長引かせた張本人は天皇・裕仁でした。それは裕仁が終戦を進言した「近衛上奏文」(1945年2月14日)を一蹴したこと一事をとっても明白です。裕仁が降伏を引き延ばしたのは「国体護持」すなわち天皇制の存続(自らの延命)のためだったことも周知の事実です。
裕仁が近衛の上奏を受け入れていれば、沖縄戦はなかった、沖縄は「捨て石」にされることもなかったのです。東京大空襲も広島・長崎への原爆投下もありませんでした。そして、ソ連参戦もなかったのです。
沖縄と済州島の過去・現在の苦難は日本によってもたらされたもの、さらに言えば、天皇制(直接には裕仁)によってもたらされたもの、と言って過言ではありません。
これが今回再認識した済州島との沖縄(琉球)の共通点です。