「4・3平和記念館」は入場無料。しかも嬉しいことにカメラ撮影OKです。そして日本語の「ハンドブック」(以下、冊子)もいただけます。たいへんよく出来た冊子です。これをもとに、「4・3事件」を4つの疑問符から理解し直したいと思います。
①「4・3事件」の正式名称は?
実はありません。展示会場は入口から瓦礫が両側に置いてある薄暗い道を通って地下1偕に向かいます。まず出会うのが「白碑」です(写真左)。何も書いていない巨大な碑です。「4・3にふさわしい「真正なる名前」を待ちわびながら横たわっている」(冊子)のです。
事件・蜂起・抗争・暴動など様々な表現がなされますが、「今なお歴史的評価に基づく名称は定まっていない」(同)のです。それほど複雑な要素があるということです。私もこれから「4・3」と言うことにします。
②いつから始まった?
韓国では2000年1月12日に「4・3特別法」(「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」)が制定されました。それによると、「4・3」の起点は1948年4月3日ではなく、1947年3月1日とされています。
朝鮮は1945年8月15日に「解放」を迎えましたが、日本に代わってアメリカの支配が継続し、真の独立は実現しませんでした。そこで人々は47年の「3・1節記念式」を契機に立ち上がりました。1919年3月1日に帝国日本の植民地支配に抗して立ち上がった「3・1運動」の記念日です。
このデモに対して警察官が発砲し、民間人6人が死亡しました。これが「4・3」の起点とされているのです(48・4・3は武装蜂起が始まった日)。
これは「4・3」と日本の関係を理解するうえでたいへん重要です。
③いつまで続いた?
虐殺は48年で終わったわけではありません。北村里の大虐殺は49年1月17日でした。
特別法によれば、「終息」は1954年9月21日とされています。パルチザンが潜んでいた漢拏山の禁足令が解除された日です。
「4・3」は1947年3月1日~54年9月21日まで実に7年7カ月にわたり、アメリカと李承晩傀儡政権によって弾圧が続いたのです。
韓国政府の「済州4・3事件真相調査報告書」(2003年)によれば、このかんの犠牲者は2万5千人~3万人と推定。そのうち女性が21.3%、61歳以上が6・1%、10歳以下の子どもが5.8%、合わせて33%超にのぼっています。この実態もガザを想起させます。
(写真中は発掘された遺骨とその中にあった銃弾。発掘されていない遺骨が済州国際空港地下などに膨大に残されています。写真右は平和公園内・飛雪にある母子像)
④なぜチェジュなの?
アメリカは朝鮮半島を分断して南を支配下に置くため、48年5月10日に「単独選挙」を強行しました。これに最後まで抵抗したのがチェジュ(済州)だったのです。
「済州島は米軍政によって実施された5・10選挙を拒否した南朝鮮で唯一の地域となった」(冊子)
武装蜂起した部隊が掲げたスローガンは、「弾圧に抵抗し、統一国家の樹立を阻む5・10単独選挙に反対する」でした。
これは「4・3」の本質を理解するうえでたいへん重要です。
以上が、新たに学んだことを含めた「4・3」です。しかし、冊子は最後にこう強調しています。
「4・3が朝鮮半島の分断と東西冷戦に始まった悲劇だったとしても、どうしてそんなに多くの人が犠牲になったのかについては、いまだに疑問符が残っているのです。また、非武装の民間人、特に子どもやお年寄り、女性が無惨に虐殺されたことも、大きな疑問のテーマです」
「4・3」の「ナゼ」は尽きません。真相究明はまだ途上です。
ただ、確かなことは、韓国では市民が政府を動かし、自国の重大な歴史事件の真相を解明し、被害者の補償と再発防止を図る努力が続けられているということです。そのために特別法を制定し、調査委員会が活動しています。
このことこそ日本(市民・政府)が学ぶべき最大のものではないでしょうか。