アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

あふれる「排除アート」と無自覚の加害性

2022年10月21日 | 差別・人権
   

 渋谷区のバス停ベンチで休んでいた大林三佐子さんが殺害された事件(2020年11月16日、写真左は現場)をモチーフにした映画「夜明けまでバス停で」(監督・高橋判明、脚本・梶原阿貴、主演・板谷由夏)が8日から公開されています。

 五十嵐太郎・東北大大学院教授(建築史・理論)は、現場のベンチが手すりで仕切られて横になることができない仕様になっていたことに注目しました。

 五十嵐氏の調査では、こうしたベンチは近辺にあふれていました。ベンチだけでなく突起物をデザインした「アート」は珍しくありません。それらはホームレスが横になれないようにした「排除アート」です。

「何も考えなければ、歩行者の目を楽しませるアートに見えるかもしれない。…しかし、その意図に気づくと、都市は悪意に満ちている。私見によれば、1990年代後半から、オウム真理教による地下鉄サリン事件を契機に、日本では他者への不寛容とセキュリティ意識が増大し、監視カメラが普及するのと平行しながら、こうした排除系アートやベンチが出現した。ハイテク監視とローテクで物理的な装置である」(五十嵐太郎著『誰のための排除アート? 不寛容と自己責任論』岩波ブックレット2022年6月)

 五十嵐氏の本を読んで、自分が住むアパートの近辺を自転車で10分余ゆっくり走ってみました。すると、近所の中央公園に、バス停に、仕切りベンチをはじめ「排除アート」が随所にあることが分かりました(写真中、右)。

 五十嵐氏は、「排除アート」と「通常の市民」の関係についてこう指摘します。

「おそらく、通常の生活をしている人は、仕切りがついたことを深く考えなければ、その意図は意識されないだろう。言葉で「~禁止」と、はっきり書いていないからだ。しかし、排除される側にとって、そのメッセージは明快である。つまり、排除ベンチは、言語を介在しない、かたちのデザインによるコミュニケーションを行う。
 禁止だと命令はしないが、なんとなく無意識のうちに行動を制限する。これは環境型の権力なのだ」(同)

 アーティストの工藤春香氏は、「排除アート」と旧優生保護法による人権侵害の共通性に注目します。

<(工藤氏は)障害者らに不妊手術を強いた旧優生保護法には、「誰が『市民』で、誰がそうでないのかを線引きする」排除アートが重なると指摘。「誰しも無自覚のままに排除に加担するかもしれない怖さ」も感じている。
 「誰かが決めたルールを何となく受け入れ、倫理として内面化していないか。それにはじかれた人が何を思うのか。意識的に考え、疑問を持ち、地道に声を上げ続けるしかないと思います」>(4日付沖縄タイムス=共同)

 きわめて根源的な問題提起です。国家権力は「~禁止」と露骨な表現(命令)を避けて、結果として「国家」にとって都合の悪い人間(グループ)を排除する。「通常の市民」は「無自覚のまま排除に加担する」。

 ホームレスだけの問題でないことは言うまでもありません。障害者、在日朝鮮人、沖縄(琉球)、アイヌなど、日本社会で差別されている人々はすべてそうした「無自覚の排除」の犠牲者ではないでしょうか。

 そしてその「排除」は、やがて「国家」に従順でない人々に向けられ、戦時体制で頂点に達します。「通常の市民」は“非国民”の「排除」に無自覚のまま加担する…。

 そんな、排除・差別の社会をつくる国家権力の策動が、ますます強まっていると感じざるをえません。
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