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マスク依存症になっている

2022-09-28 04:34:38 | 暮らし
 

 日本人全員がマスクを外す日は来ないかも知れない。今回石垣島を一ヶ月近く離れていて、東京と金沢でそういうことを感じて帰ってきた。人のことではない。わたしがマスク依存症の傾向にあるようなのだ。東京と言う不安が溢れた場所ではマスクしていた方がよほど楽なのだ。

 当たり前の事だが、私のことな誰も気にも止めていないことは分かっている。それでもなんとなく沢山の人の視線を感じる。いつも気をつけていなければ、普通について行けないと思えた。まあ歳をとったと言うことなのかもしれないが。

 それでも田舎者としてはマスクをしているとどことなく仮面状態で守られている感がある。顔隠して尻隠さずなのだが、精神的には悪くない気がしてきた。これはどうも日本人にはマスクを外せない日が来たのではないかと、思えてきたのだ。

 人目ばかり気にする日本人にはマスクは必要なものになったかも知れない。マスクをしていることがそれほど奇異なことでないなら、マスクをしていた方が安心だ。と言う気分。中学生の時に眼鏡をかけたとき以来の安心感を味わっている。

 男の私がそうなのだから、女性の場合もっとその傾向が強いのではないだろうか。確かに私を見てくださいという女性もいないわけではない。そういう人にしてみれば、残念な日々であろうが、たいていの女性の人は見られたくない意識の方が強いのではないか。偶然目が合ったりすると嫌な顔を向ける。

 花粉症の振りをしてマスクをする。これはなかなか悪い事ではなかったはずだ。しかし、今回は誰もがマスクをすることが奨励され、マスクを取れという圧力がない。マスクをしていて不安な奴だとは思われない。これならずーとしていたいという人が出てくるはずだ。

 これはイスラム文化とかぶってくることではないか。イスラム世界では、女性は眼以外は見せてはならないというのが戒律である。この戒律にも様々な意味はあるのだろうが、顔を見せないで良いというのはやはり女性には安心と言うこともあるのではないか。

 もう一つはマスク美人の登場がある。マスクしていた方が神秘的な美しさがでてくる。この美しい人がもしマスクを外したらどれほどのことかという、幻想を作り出す。見えないと言うことの高貴さである。御簾の向こう側にしか、高貴な方はいない源氏物語絵巻。

 世界中でマスクがなくなっても日本ではなくならない。コロナがなくなってもマスクはなくならないかも知れない。つまりだてマスクが登場するのをよそくする。中学生の昔、眼鏡をしたときに安心感を得た。視線を隠せるという感じがした。眼鏡をしてマスクをすれば、これは顔認証を逃れられる。

 今の時代顔認証制度というのがある。これはマスクをしても眼だけ写れば大丈夫なのだろうか。中国では街の至る所に監視カメラがあり、顔が把握されていれば、すべての行動の詳細が記録できるようになっているらしい。軍事国家では普通のことだろう。日本もそのようになり始めている。

 昨日ウラジオストックの領事がロシアでスパイ容疑で捕まったが、戦争国の軍事都市で日中妖しいことなど何故したのだろう。迂闊なのか罠なのか。たぶん罠にはまったのだろう。領事のレベルが低すぎる。証拠の写真などいくらでも存在するはずだ。いくらスパイなどしていないと言ったところで、どうにもならないはずだ。

 領事は果たしてマスクをしていたのだろうか。マスクぐらいはしていてほしいものだ。大使館員は政府からの命令でどこにいてもマスクをする。そんな話ではないわけで、日本にとってスパイ行為は必要なことだ。日本の安全保障はスパイから。

 ミサイル防衛よりもスパイの方がはるかにまともだ。敵を知り己を知れば百選危うからず。ともかくすべての外国のことを熟知することから始まる。今回ロシアのことを何も知らなかったと言うことが分かった。ロシアで知っていたのはドフトエフスキーとシャガールとカンジンスキーぐらいだ。

 しかし、ロシアが何故共産主義から、訳の分からない現代社会の独裁国家になったのかは想像が出来なかった。プーチンが柔道が好きと言うことと、アベを手玉にとっていたと言うことは知っていたが、ここまで無謀な戦争をするほどの低脳者とは思わなかった。

 そうマスクだった。マスク社会になり、だてマスクが流行する。そして、日本教の戒律にマスクが入るかも知れない。まあ、アベノマスクでないことを祈る。あれは耳が痛くてだめだ。アベノマスクをして皆さん国葬には参加したことだろう。

 それが故人への敬意の表し方というものだ。まあ余り死んだ人のことを悪く言うのは趣味の良いことではないが、総理大臣というものは、役割であって個人ではない。総理大臣という勤めをどのようにこなしたかが問題なのだ。だから人が死んだと考える必要なない。

 個人としての葬儀は終わっている。今やっている国葬は役割にたいしての政治的行為だ。安倍氏のためにやっているわけではない。岸田氏と自民党の保守派のためにやっている行事の一つだ。葬儀の名を借りて、静かにしていろと二階氏がほざいたが、とんでもない奴だ。

 嫌だという私のお金も使ってやっているのだ。静かにしないで意見を言う権利はある。それが嫌なら二階氏の個人の費用でやればいいだろう。外国から参列した人にもマスクを強制するという。たぶんアベノマスクの余った奴を渡したのだろう。

 エリザベス女王の国葬では天皇陛下もマスクなしだった。日本はマスクの国だ。もし、アベ国葬を報道する海外のテレビ局があれば、マスク姿が流れることだろう。どうも日本ではマスクを統一教会のすすめで戒律にしたらしいと流れるのだろうか。

 それでも統一教会葬と言うことではないのだろうか。統一教会葬にしてもらえば、本望かも知れない。きっと費用も霊感商法で集めた残金を使うのだろう。ともかく今日は気持ち悪くて耐えがたい日だ。テレビ局は中継をしたらしいが、報道も見たくない。

 この日を今後アベノマスク記念日に制定すると言うことが次に出てくるのだろう。そして、日本人は外に出るときには必ずマスクをするようにと言う、内閣から通達が出る。通達は憲法よりも重い、一度出れば変えられない。情けない限りだ。

 
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