地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

絵が見えかかった状態が続いている。

2021-06-11 04:53:01 | 水彩画


 この水面の変化をどこまで見ることが出来るだろうか。19枚ある田んぼはすべて違う様相をしている。この違いの意味が分からないまま田んぼを描くという事には耐えがたいものがある。水面には雲が映る。森が映る。そして田面が透けて見える。この田んぼの世界をどのように描けるか。

 今は1カ月ぶりに、甲府盆地に来ている。故郷の景色を確認しに来ている。この景色は祖母と母の風景である。何故そう感じるのかはわからないが、祖母が私を負ぶって梅の木の下で、甲府盆地を眺めていた。あそこの笛吹川の向こうのあたりが生まれた油川だと良く話してくれた。

 母が生まれた寺尾の景色を何度も何度も話してくれた。よほど藤垈より寺尾が好きだったようだ。それが何故だったのだろう。藤垈の空は3角形だとよく言っていた。寺尾の甲府盆地に突き出た地形からの、明るい南アルプスの眺めが好きだったと良く話した。



 私の生まれた場所は藤垈である。甲府盆地を湖のように眺めて、奥秩父の連山を対岸として眺めていた。湖の底は季節で変化した。田んぼに水が入ると光り輝き始めた。夜は甲府の街が夜空の天の川を写したように、横たわっていた。

 絵を描いていて、いつも違う描き方になる。何故だろうと考えてみると、どうも絵が見えかかった宙ぶらりんな状態が、続いているような気がし始めた。完全に見えているなら、明確に見えているものを描くのだから、描き方が変わるはずがない。

 全く見えていないにも関わず描いているとすれば、何かの絵の見本で描いているのだろう。この場合も絵は見本と同じ描き方になるだろう。見本は自分の過去の絵かもしれない。あるいは好きな絵描きの描いた絵かもしれない。それになぞらえて描くなら、絵の描き方は変わることがない。



 ところが、何か見えそうな感じがあるのでそれに従おうとしている。ところが完全に見えているわけではないから、見えているように感じるものをその場その場で、変化しながら追いかけてる。今の眼力でその見えているものに従うという事は絵が変わってゆくという事になるのではないだろうか。

 絵を描くという事は見るための能力を高めるためと考えた方がいい。見て描いて見て、見えていることを確認している。絵を描くときには、画面をどうこう考えるより、今目の前に見えている状態をよくよく見て考えなければだめだ。絵になるものが見えないのであれば、それを見えるように努力する。見えないものを描くことはできない。

 良い絵を見ると私が見えていないものを、見えるようにしてくれている。ゴッホの描きだしている世界観は、ゴッホが見て、明確に画面に映した世界観である。その世界観があまりに真実なので、震えが来るほどのことがある。ゴッホの世界観に共感しているわけではない。世界の実相の真実を明確にしてくれていることのすごさに驚いている。


 
  絵は自分の世界観を明確に感じるという事がなければ始まらない。そこに至る為の努力を、絵画修行と呼んでいることになる。こうして20日余りの農作業をさせてもらうことが、絵を描くことの基になる。これがなければ今の状態では絵が嘘のままになる。見えていないことを描いていることになる。

 農作業は本当も嘘もない。正しいか、間違っているかである。この自然界の成り立ちを、身体で感じて理解したいから農作業をしているともいえる。毎朝田んぼに行って、3人で観察をした。知っていることや、田んぼの見方をすべて伝えたいと考えた。

 それは指導するとか、教えるというようなことではなかった。私自身が田んぼをよく見ることであった。新しい発見が沢山あった。田んぼをよく見ることは農作業ではあるが、絵を描くことでもある。田んぼが見えかかっているように、絵も見えかかっている。

 欠ノ上田んぼから柿の下田んぼまで19枚の田んぼはそれぞれの変化をしている。この変化の結果には、必ず原因がある。1週間で草の生える田んぼもあれば、少しも草の生えない田んぼもある。何故だろう。必ずこの背景にある原因を考えてみることが、とても大切である。

 先日、その19枚目の田んぼだけが濁っている。その原因は何だろうという事になった。すると富田さんがそれは19枚目の田んぼは流れ出ることがないから、上にある18枚の田んぼで生成されたものが流れ着いているのだろうというは推察をされた。

 上にある5反分の田んぼで生成された、たぶん微生物とその生産物が次々と下ってきて、貯まってゆくのかもしれない。もしそうであれば、19枚目の田んぼは素晴らしい田んぼになってゆくことだろう。実際に一番出来が良い。

 しかし、それだけだろうか。きっとまだまだ自然の綜合性は完全に把握できたわけではない。新しく田んぼにした土壌の何かが作用している可能性もある。いつもと違う微生物の発生もあるのかもしれない。単純に淀んだ水は濁るものと言う側面もあり得る。

 濁りという違いに気づきその原因を推察する。これは絵を描くことと少しも違わない。田んぼの耕作をして、田んぼの絵を描いてきて、見えるという意味が少しわかってきたと思う。この少しが完全にと変わることはないのかもしれない。それでもここが自分のものにならなければ、絵を描くことなど出来ない。

 こんな具合に考えて、絵を描こうとしている。描く度に絵が変わってゆくことになっている気がする。今は変わってしまう眼に従うほかない。絵らしいものを描こうというようなあさましい気持ちだけは捨てなければならない。

 自分の目が今見ているものに従う。ここに徹底してみる。それがいつまでも揺らいでいるとしても、その揺らぎに従うほか今はないと思う。最近、山梨に描きに来たくなるのは、自分の見てきた原点に立ち返りたいからなのだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 政府の尾身会長への失礼すぎ... | トップ | 葛飾北斎はイラストレーター... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

水彩画」カテゴリの最新記事