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AIに対して藤井聡太7冠がいてくれた。

2023-06-06 04:32:16 | 身辺雑記


 AIが登場して、人間が引きずり回され、敗れるだろうという予測で、人間が委縮をしている。人間はAIなどに敗れることはない。人間はもう少しまとま存在で、AIという機械に劣るようなことはない。安心してもらいたい。と言って私ごときが言うことでは無駄であるが。

 そもそもAIを制御できないような人類ならば、生存を続ける価値がない。自分の作り出したもので、自分が滅びるのだからそれでいいのだろう。気候変動やマイクロプラスチックのほうがもっと危険だ。それだってAIが解決策を示してくれるかもしれない。

 私の描く絵の方が、AIの描く絵より意味がある。それは描いている絵が示していることだと言いたい。絵は人間が自分の本質に迫って描く物語があるから魅力がある。そのことは絵を描く以上証明したいと考えている。絵が魅力的な理由は、絵には私が描かれているからだ。

 自分の絵がAIより劣るかもしれないと思う人も山ほどいるのかもしれない。そうした絵とは言えない絵らしきものが実は蔓延している。そうした個性のない絵は、絵というものに対する態度が間違っている商品に過ぎないのだ。そういう商品絵画が淘汰されるという意味ではAIは意味がある。

 芸術における創作というものは、人間の脳の極限の問題である。どこまで自分の中に立ち入って、その本質を絵として表現できるのかである。人間に意味があるのは人間なのだから、AIに負けるような軟弱なものではない。これは別に強がりではない。

 そのことを将棋の天才、藤井聡太7冠が示してくれた。先日の名人戦で、藤井7冠は何とAIが詰みはないと判断した場面で、何と詰みがあることを発見した。詰み手順はAIが最も得意とする場面だ。ところがAIは詰み手順を発見できなかった。ところが藤井7冠はその詰み手順を発見した。

 これには驚いた。最終盤の詰み手順の読み合いで、現段階でも人間はAIに勝ることはできないと考えていた。たぶんすべての棋士がその詰み手順を見つけられなかったであろう。ところが、藤井聡太7冠はその手順を見つけた。人間の、天才の能力のすごさを改めて感じる所だった。

 またAIはまだ相手によって手を変えるということができない。相手は人間だから、さまざまである。その相手に勝つためにはどいう手がよいかということが重要だ。羽生九段と渡辺九段では戦い方が違う。相手が人間であるということをまだAIは判断に入れられない。

 普通の人は確かにAIより劣るだろう。しかし、一部の天才はAIに勝る。この天才が勝る部分こそ、人間の大切な部分なのだ。絵を描く人が何千万人いるとしても、時代に意味ある絵として存在するのは1人か2人の天才の仕事なのだ。昔もそうであったし、これからもそうした天才の絵だけが時代に意味あるものとして残るはずだ。

 天才の絵画は時代を超える。東洋も西洋もない。日本には日本の素晴らしい絵画がある。文化的伝統というものがある。日本文化が健全なものとして継続されてゆけば、日本の絵画にまた中川一政 が表れてくれるはずだ。あれほど大きく深い東洋絵画の歴史を持つ中国が現状絵画ないのは、健全な文化が育つ環境ではないからだ。

 だからと言って私のような普通の人間の絵が無意味かと言えばそういう事でもない。藤井聡太7冠だけでは将棋界が成り立たないように、その他大勢も必要ではある。その他大勢が頑張ってその分野自体が成り立つ訳だ。「私絵画」の集積の中に何か新しいものが生まれてくるはずだと予測して居る。

 未来の世界はそういうものだと思う。先ずは資本主義が変わらなければならない。中国のように、国家資本主義の国が生まれ、専制的な政治を行っている。その人権を軽視した社会が、自由主義圏の資本主義に勝るようになったのだ。中国の経済成長の姿を見て常軌を失ったのだ。

 アメリカを中心とした自由主義陣営では、中国の問題を、人権が無視されている、覇権主義的であると、攻撃を強めているが、問題はそういう事ではない。いずれの資本主義も能力主義を克服できるのかという問題がこれからの世界を左右するだろう。能力による差別は中国でもアメリカで日本でも当たり前に行われている。

 この人間の能力という問題に対してAIが登場した。人間を超えた能力を持つ存在が現れたのだ。資本主義ではこのAIと言う能力を必ず利用する。競争に勝つために、どんな制限を加えようと利用するに決まっている。利用を禁じた国があれば競争に負けるだけのことだ。

 普通の人はAIよりも劣る。能力がなければ生きる価値がないのかという問題をAIは鮮明にしたのだ。人間の生きる価値は能力とは関係がない。それぞれの能力を、それぞれがどこまで発揮できるかが重要なことなのだ。人間が生きると言うことは一人一人の問題であり、能力とは関係が無いのだ。

 それぞれが生きる間に一人一人の生命の力を十二分に発揮して生ききるかである。そのことをAIは明確にしたのだろう。人間の能力など知れたものだ。AIが進化すれば、まったくかなわないことが分かっている。科学の発展というものは、加速度的に進化する。

 しかし、私が生きるという事はAIには、AI任せる分は何もない。自分というものをどこまで掘り下げることが出来るかが、人間の生きる役割であり、面白さである。AIには描けないような絵を描くところが人間の可能性である。改めてAIの描ける絵を考え、そういう絵を描くのは馬鹿馬鹿しいことだと自覚しなければならない。

 AIは人間に良い反省の機会を与えてくれたと考えたほうがいい。資本主義の競争原理で、人間が阻害されかかっている。その時にAIが登場して、そんな競争は任せてください。人間は人間にしかできない仕事をしてください。と警告してくれているのだ。

 人間は幸せに暮らすことが目標である。充実した人生を送ることが目標である。好きなことを十二分にやって生きてゆくことが目標である。ロボットやAIはそういう社会を近づけてくれている。競争をしないでも人間がそれなりに生きてゆける世界だ。

 侵略戦争をロシアはやっている。結局のところ能力競争の果ては戦争になる。相手に勝たなければやられるという、資本主義の原理に問題があるのだ。この点を克服することができないのであれば、AIも戦争に利用することになる。そんなことでは人類が誕生自体が無意味になる。

 人間がやらなければならないのは平和で競争がなくとも、安寧に暮らせる世界である。人間が賢く、冷静に対処すれば、科学の進歩は安寧な世界を人間にもたらしてくれる。AIはその序の口である。任せるものはAIに任せたほうがいい。裁判や憲法審査などまずはやらなければならないことだ。多分それができないところに人間の問題があるのだろう。

 
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