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円安と暮らし

2022-11-02 04:01:40 | 暮らし


 日銀は円安政策を進めている。果たしてこの先大丈夫だろうか。円安は何といっても大企業の為のものだ。企業が業績を回復しなければ、日本経済はさらに落ち込むという考えを政府と日銀が持っている。しかし、円安でなければ輸出が出来ないという日本製品では先行きは暗い。

 日本の金利だけが世界と較べて低いために、投資マネーが日本から海外に逃げてゆく結果となっている。その結果円安が進んでいる。かつての円安では日本製品が海外に不当に輸出されるというので、世界から批判を浴びた状態であった。ところが現状は世界は日本の円安を何故か容認している。

 つまり円安で日本製品が安く入ってきたところで、大した影響が海外ではないという程度に日本製品の影響力が落ちたのだろう。という事はもしかしたら円安ではなく、今のレートが日本の実体経済という事になるのかもしれない。そうかも知れないが、そうだとすればかなり深刻なことだ。

 円安誘導が不当に日本の利益になるという状況ではないという事だろう。海外生産に移行している産業も多い。何故日銀が0金利政策によって円安を必要に進めるかと言えば、企業が利益を上げられるようにするためだろう。企業が良くならなければ、日本が衰退するというのが、アベノミクスという政策である。

 確かに円安によって、企業収益は過去最高と言われるほど伸びている。円安は日本の企業全体から見れば悪いことではないのだろう。問題は円安で潤う企業がある一方、円安で消費者物価が上がり、生活が苦しくなっている状態である。アベノミクスは一部の富裕層だけをさらに豊かにする結果になっている。

 円安誘導を続けている日本銀行の黒田東彦総裁が「家計の値上げ許容度が高まっている」と発言して問題化して、謝罪することになった。貧困層の家計は相当に厳しくなっている。許容度はない。政府も緊急に10万円支給という事らしいが、これでは一時しのぎである。

 企業が潤ったとしてもなかなか労働者の賃金に反映しない。新しい製品開発にも回らない。企業は内部留保を高めて、身を固めてこの先の危機を乗り切ろうと考えているのだろう。企業だって危うい状況に違いない。守りに回っているという状態なのだろう。

 一般の人は生活が苦しくなる。自営業者や農業者はひどい状態にますます追い込まれる。それを仕方がないと容認しているのが、今の日銀と政府の方針なのだ。企業がだめになれば、日本がだめになるのだから、我慢してもらうほかないと言い続けている。アベノミクスはひどい経済政策である。

 果たして企業が良ければ良くなるのだろうか。問題の根本は新しい産業が創出できないという日本にあるのではないだろうか。幾ら円安誘導をして、現状の企業を潤わせたところで、次の新しい産業の展望が生まれてこないところに課題があるのではないのか。

 今まで比較的評判が良かった昔の絵を繰り返して描いている状態。過去の自分の絵を否定して、次の一枚にすべてをかけてみる。それでも新しいものを作るという事は難しい。今の状態を否定しない限り次のものは出てこない。これは極めて難しいことになる。

 どうしても今の延長上に今よりましなものがあると思いたい。今の絵を磨き上げることで、少しは良くなると思いたい。ところがこれではだめなのだ。いつも過去を振り払って、過去とは関連なく未来を切り開くつもりで絵に向わなければ、新しいものは出てこない。だめだと思うところに切り込まなければならないから苦しい。

 この絵を描くときの心構えが難しい。覚悟が必要である。今の私の絵なのだから、たいした意味はないのに、大したものなのだと思いたいという心理がある。客観的に見れば、大したことがないくらい分かりそうなものなのに、それが出来ないのが人間である。

 北斎は確かに死ぬまで挑戦し続けたのだが、技術という壁を抜けることがなかった。技術を高めることが、次につながると思っていたようだ。傍から見れば芸術における技術は、たいした意味がないくらい誰にでもわかる。技術は確立したうえで忘れなければならない。

  北斎ほど技術の高い人が、技術を忘れる所まではいけなかった。弓の名人が弓を見てこれは何に使うものですかと聞いたという。そこまで行かなければならないのが、芸術というものだろう。東洋の芸術の崇高さはその理論を越えたところにある。

 円安から話がそれたが、また舶来品の時代が来たという事である。外国人労働者ではなく、お抱え外国人様の時代になるという事である。もう一度基本からやり直すという事だろう。しばらくあまちゃんの時代が続いたのだろう。日本の絵画が世界に誇れる時代は明治の文明開化以降でもある。

 もう一度初めからやり直す時代に入ったという事ではないだろうか。この円安時代はそういう事を示している気がする。日本列島という災害は多いが、なかなか魅力的な島国でもう一度、日本人はやり直しなさいという事のような気がする。

 人はどこから来て何処に行くのか。そのことを思う。命は有限なものだ。人類という命も無限ではないのだろう。科学が進歩してむしろ人類の終焉が見え始めているような気がする。プーチンを見ていると、人間の狂気の方が、人間の英知を上回るようだ。

 欧米の自由主義が能力主義になり、国家資本主義との対立を生んでいる。国家というものが正しいものであれば、国家資本主義の方が優れている。習近平にはぜひその正しさを示してもらいたいところだが、今のところ悪い方向にしか進んでいない。

 共同富裕の思想をどう現実社会で実現するのか。新しい資本主義は国家資本主義の中にあるのか。中国が本当に農村部の貧困層を無くすことが出来るのか。重大な局面にある。今のところ、一時避難以外にない社会情勢ではないか。

 生活の自己防衛である。地方に移住する。食べる物を自分で確保する。若い人は新しい生き方を探す以外にない。都会でくだらない競争に巻き込まれれば、大切な時間を無駄にすることになる。自給的に生きれば、円安の影響は小さい物になる。



 
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