昨夜はあしがら農の会の定例会があった。大井町の中央公民館で行われた。
場所も随分移ってきたが、定例会にも変化があり、当初の頃から見ると大きな変化がある。先ず、一番は参加人数だろう。10名以下と言う事が長く続いた。山北で立ち上げの形を作った頃は、山北の公民館などで開いていた。私の家で必要に応じて開くようになったのが、定例会の第2段階である。
一番の立ち上げには、MOAからの呼びかけがあった。当時、1993年頃、MOAの方針として1市町村に1支部と言う運動があったようだ。私はMOAの川口さんと言う方から農地をお借りして、仲良くさせていただいていたので、川口さんの要望に応える形で、MOAの普及員の方が、私のところに見えて、話し合いをもった。
私は曹洞宗の僧侶であり、MOAと言う宗教には関心が無いし、今後もかかわりを持つことは無いが、山北の有機農業研究会を立ち上げる事は以前より、興味を持つところなので、やってもいいということを申し上げた。一切MOAの名前は出さずに協力はさせてもらうので、一緒に活動させて欲しいと言う事だった。当時は、MOAに対しなんとなく不安もあったが、産地支部の集会に参加させてもらうようになり、おかしなことは特に無いということがわかった。
山北では有機栽培で、耕作されている方が、10名ほどいた。この方々の連絡を取る形で、「山北有機農業研究会」の集まりを形成した。その頃、瀬戸徳雄さんと言う町会議員の方、鈴木英雄さんと言う農業委員の方などが、参加してくれた。当時も料理の講習会や、朝市、ぼかし肥料の講習会。実験的にいろいろのことを、試みた。10名ぐらいの集まりが、毎月もたれる所までいったが、まだ方向が定まらないで、2,3年が過ぎた。卵の宅配の協力を、お願いしていたと言う事もあり継続だけでも頑張っていた。
96年ごろ、山北有機農業研究会で、一緒に田んぼをやってみたら、新しい展開があると考えた。その頃自給の田んぼを山の上でやっていて、広い田んぼでこのことを確認してみたいと言う事になった。それで、今山北田んぼのやっているすぐそばで、やる事になり、茂木さんという、今やはり町会議員をされている、自然養鶏をやられている方が借りている畑を田んぼにしようと言う事になりました。所が、これが自然農法でやるなんて、とんでもないと言う事で、頓挫する。なぜか茂木さんもかたくなに拒否と言う姿勢に変わる。
こうして、田んぼの場所探しが始まる。当時山北では、最終処分場と、第2東名高速の大問題が、勃発する。このかかわりで、山田純さんと出会うことになる。それが酒匂川グリンフォーラムになる。グリンフォーラムでの塩沢での焚き火を囲む集まりの機会に、こうした場所で田んぼが出来ればという事になる。
丁度その頃98年ごろ、加藤憲一さんが、CLCAの事務所の人として、訪ねて見え、CLCAと関係が始まる。田んぼ探しと、CLCAの意図が結びついて、塩沢での田んぼの活動が行われることになる。
この活動はその後6年ほど継続する。私は立ち上げから3年間係る。
まだ先が長いので、続きとして今日のところは終わることにします。
場所も随分移ってきたが、定例会にも変化があり、当初の頃から見ると大きな変化がある。先ず、一番は参加人数だろう。10名以下と言う事が長く続いた。山北で立ち上げの形を作った頃は、山北の公民館などで開いていた。私の家で必要に応じて開くようになったのが、定例会の第2段階である。
一番の立ち上げには、MOAからの呼びかけがあった。当時、1993年頃、MOAの方針として1市町村に1支部と言う運動があったようだ。私はMOAの川口さんと言う方から農地をお借りして、仲良くさせていただいていたので、川口さんの要望に応える形で、MOAの普及員の方が、私のところに見えて、話し合いをもった。
私は曹洞宗の僧侶であり、MOAと言う宗教には関心が無いし、今後もかかわりを持つことは無いが、山北の有機農業研究会を立ち上げる事は以前より、興味を持つところなので、やってもいいということを申し上げた。一切MOAの名前は出さずに協力はさせてもらうので、一緒に活動させて欲しいと言う事だった。当時は、MOAに対しなんとなく不安もあったが、産地支部の集会に参加させてもらうようになり、おかしなことは特に無いということがわかった。
山北では有機栽培で、耕作されている方が、10名ほどいた。この方々の連絡を取る形で、「山北有機農業研究会」の集まりを形成した。その頃、瀬戸徳雄さんと言う町会議員の方、鈴木英雄さんと言う農業委員の方などが、参加してくれた。当時も料理の講習会や、朝市、ぼかし肥料の講習会。実験的にいろいろのことを、試みた。10名ぐらいの集まりが、毎月もたれる所までいったが、まだ方向が定まらないで、2,3年が過ぎた。卵の宅配の協力を、お願いしていたと言う事もあり継続だけでも頑張っていた。
96年ごろ、山北有機農業研究会で、一緒に田んぼをやってみたら、新しい展開があると考えた。その頃自給の田んぼを山の上でやっていて、広い田んぼでこのことを確認してみたいと言う事になった。それで、今山北田んぼのやっているすぐそばで、やる事になり、茂木さんという、今やはり町会議員をされている、自然養鶏をやられている方が借りている畑を田んぼにしようと言う事になりました。所が、これが自然農法でやるなんて、とんでもないと言う事で、頓挫する。なぜか茂木さんもかたくなに拒否と言う姿勢に変わる。
こうして、田んぼの場所探しが始まる。当時山北では、最終処分場と、第2東名高速の大問題が、勃発する。このかかわりで、山田純さんと出会うことになる。それが酒匂川グリンフォーラムになる。グリンフォーラムでの塩沢での焚き火を囲む集まりの機会に、こうした場所で田んぼが出来ればという事になる。
丁度その頃98年ごろ、加藤憲一さんが、CLCAの事務所の人として、訪ねて見え、CLCAと関係が始まる。田んぼ探しと、CLCAの意図が結びついて、塩沢での田んぼの活動が行われることになる。
この活動はその後6年ほど継続する。私は立ち上げから3年間係る。
まだ先が長いので、続きとして今日のところは終わることにします。