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食糧自給率37%の国にくらす不安

2019-08-18 04:05:43 | 自給

 石垣島の宮良川上流。このあたりで鶏の声がしていたのだが。最近聞かなくなった。

 昨年度2018年の食糧自給率は37%であった。エネルギー換算である。過去最低である。食糧自給率の統計が取られた初年度の1965年が73%で一番高かった。その後一貫して低下して、このところは40%を切る数字である。

 世界は人口増加の一途である。そして耕作面積は減少している。食糧危機は迫っているのだ。日本は人口減少にもかかわらず自給率が低下している。自給率が50%を切るような国は自立した国家とは言えないだろう。

 自給率がここまで低いと言うことを深刻に受け止めるべきだ。韓国が、日本にICチップの製造材料を依存していために、大変な事態になっている。日本に経済圧力を加えるとすれば、食料であろう。

 政府は2025年に45%を目指すとしている。この数字でも安定して暮らすためには極めて低い数字である。中間目標である。日本ほど恵まれた気候の国であれば、100%の食糧自給率であるはずだ。その低い数字ですら遠のいているばかりである。これもまたアベ政権の薄っぺらな口先標語に過ぎない。農業軽視としか思えない。

 アベのミックスもダメであった。新しい産業の創出ができなかった。それでも、上手くいっていると総理府の文章には出ている。成功と言えば、見解の違いで責任をとるものはいないで済む。食糧自給率もできないでも誰も責任をとらないだろうし、国民も追求はしないだろう。これが良くない。

 理由が無いにもかかわらず、達成できなかったとすれば、誰かが責任をとるのがまともな社会だ。最終的には総理大臣の責任だ。最近の政治は適当で、できないでもおざなりでは無いか。保育園の方はどうなったのか。

 食糧自給率などたいしたことでは無いと思い込まされている。いつでも輸入できる。アメリカが売らないというなら、ブラジルから買える。オーストラリアから買える。この考えが間違いなのだ。中国が食糧輸入国になった。インドやアフリカの人口増加は深刻なものだ。地球は食糧危機が迫っている。日本は人口減少しているから、この点で鈍感ではないか。

 戦争で一番つらかったのは食糧不足であったと、父も母も常々話していた。父は中国の最前線での7年間兵隊生活であった。その7年間の戦地の方がまだ食糧事情はまだ良かったそうだ。戦後の食料不足は深刻で、アメリカの食料援助が無ければ、恐ろしい飢餓が起きたはずだ。

 両親は今は米軍に接収された、相模原で開墾をして食料生産を戦後始めた。それでかろうじて食料を確保して生き延びた。その開墾で父と母は出会った。母の実家の向昌院では子供を東京に出すために相模原で開墾を始めた。

 叔父達3名に僧侶になるために開墾をしながら駒沢大学に行けというのであった。東京の父の家は食料が無いから、相模原で開墾を始めた。そこで父と母は結婚することになる。農業をしたことの無い父の家を、母が手伝ってくれたのだ。

 父の弟は稲作の研究者であったのだが、実際の食料生産には役に立た無かったらしい。父はそもそも畑をできなかった。東京芝に生まれ育った父には畑仕事はできなった。母ひとりが耕作者として活躍したらしい。おじさんも駒沢大学に行きながら、手伝ってくれたそうだ。

 母は実家の向昌院が自給生活をしていたから、百姓の自給能力は高かったのだ。その後、母は山北で挑戦した私の開墾生活もずいぶんと助けてくれた。私も向昌院での暮らしで自給生活はいくらか身についていたので、山北の自給生活は楽しい暮らしだった。

 自給に一番重要なことは機械でも農地でも無い。人間である。農業に携わる人間が第一である。相模原の開墾地の一角に兄妹で耕作していた人がいたそうだ。サツマイモの苗を植え方さえ知らなかったので、叔父が変わって植えてあげたのだそうだ。

 ところが水が無い場所でサツマイモは枯れてしまったそうだ。そして結局は妹さんが飢え死にをしてしまった。同級生に栄養失調で死んだ子供がいた。そんな時代が本当にあったと言うことが分かっているのだろうか。農地があってもやり方が分からなければ食料はできない。そういう当たり前のことが、今深刻になっている。

 子供の頃池田勇人という大蔵大臣がいて、貧乏人は麦を食えと答弁して大騒ぎになった。しかし、いまや国は貧乏人も大金持ちもコメを食えと言ってもいい事態だ。まずは、コメを消費税から外す。国の安全保障のためだ。一日に玄米2合と宮沢賢治は詩を書いた。コメさえあればなんとかなる。コメの作り方が分からなくなれば日本は終わる。

 稲作はこのまま5年もすると、大きく変わるだろう。70歳を超えた農業者の年齢はいよいよ、耕作不能年齢になる。田んぼをやれる人がいなくなる。これからの5年間に新しい農業をやる人を作らなければ、日本は食料生産のできない変則的な国になる。

 日本人の暮らしは体を動かすことから、頭だけを動かす仕事に変わり始めている。農業から離れた日本人は体を使う仕事を嫌うようになっている。外国人労働者が日本の農業もやるようになるのかもしれない。しかし、それは労働者を雇用するような大規模農業企業であろう。日本の農地の多くは中山間地の農地である。耕作不利な農地は急速に放棄されるだろう。そして地方は消滅する。

 特にこまめな水利管理の必要な小さな田んぼは維持できない可能性が高い。それは小田原でも同じ事だ。最近お隣の田んぼの下田さんが亡くなられた。同い年で一緒に自治会をやらせてもらった。私の後の自治会長である。農協に勤められていた方である。久野でも古い家で、広い農地や山をもたれていた。

 誠実で熱心な方で、ずいぶんと助けられた。自治会長をなんとか私のようなよそ者ができたのは、下田さんのおかげである。下田さんは広く田んぼを耕作されていた。自らコツコツと農道を作り、水路を整備され、楽しそうに田んぼ作りをされていた。信頼できる下田さんに耕作を依頼する人は増えているところだった。

 この後どうなるのだろうと思うと、呆然とする。全国に広がっている不安であろう。どう引き継ぐかが、現時点での農地の一番の課題だ。団塊の世代が農業ができなくなる、あと5年がタイムリミットである。政府は45%に自給率を増やすと言いながら、無策である。無策であるから、自給率が下がるのである。食料を忘れている総理大臣の国の不幸。

 国が責任を放棄している以上、次の世代につなぐ方策を、全国でそれぞれの方法で当事者が編み出すほか無い。子供がやってくれると言う人は幸運であるが、全体としてはもうそうした継承は考えられない時代だ。次の人をそれぞれが見つけ出す以外に無い。

 私のように30代で農業に入ったものですら、次に引き継がなければならない切羽詰まった状況である。あしがら農の会では次への引き継ぎが始まっている。あしがら農の会は緩やかな連携の中で、次にやりたい人が加わりやすい環境を作っている。

 初めてでも一緒に田んぼができる条件がある。1万円の会費で120キロのお米が配布できる。これが25年継続できた。だから未来にもつながっている。16家族の新規就農者も育った。農の会は仕組みである。良い仕組みがあれば、素晴らしい人が自然に集まる。

 地域の優秀な農業者が助けてくれる。農業の研究者も助けてくれる。農地の紹介など行政の支援も受けやすい。未来に農業を継続するひとつの方法だと思う。小さな競争力の無い農地を継続するひとつの方法である。あしがら農の会の仕組みを研究して、利用して貰いたい。

 農の会の仕組みは小田原では上手くいった。多分都市近郊では可能な方法であろう。それぞれの地域に合う方法を、農業者自身が見つけるほか無い状況である。国は農地法を変え無ければならない。しかし、もうそんなことを待っている時間は無くなっている。


 

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自然農法の科学

2019-07-13 04:53:47 | 自給

 自然農法はどこまでも科学的でなければならない。自然農法を長年されている方と一緒にタマネギを作ろうという話し合いをもったことがある。そしてお互いの農法の様子を学び合おうと話し合った。話の最初はぜひやろうということだったのだが、最後の段階でできないということになった。

 自然農法は5年間は準備がいるので、すぐに結果が出ないということだった。それなら5年かけてやってみようじゃないかと話したが、やることにはならなかった。目の前で同じ条件で見せてもらえば、良く分かる。

 結果と原因は必ず科学的な論理で繋がっていなければならないのが科学だ。なぜか自然農法は怪しい世界が入り込みやすい。自然農法はいいのだが、似非科学を排除することが、東洋4000年の循環農業への道だと考えている。

 農業は自然の摂理に従い行われるものだから、自然崇拝を生みやすい世界になる。農業は当然ながら科学的なものだから、妙に飛躍した考えたは出来る限り排除した方が良い。それには実証以外にない。微生物が放射能を取り除くとか、植物が原子転換を行ているというのも、似非科学である。科学はそういう人間の蒙昧を克服してゆく為にあるのだと思う。迷信を並べてみる。

  「月の満ち欠けで、農業をうんぬんする件。」 シュタイナー農法というのがそうらしい。良くは知らないが牛の角や血液などの波動云々等、非科学的ななものが持ち出される。月がこうだったからという話は半分は当たる。外れた半分に対して目をつむるのが似非科学である。太陽の絶対的な影響に比べれば、月の影響など微々たるものだ。農業では月をうんぬんするくらいなら、太陽の力を科学的に考えるべきだ。太陽の黒点一つでも、気候に大きな影響がある。農業を行うものが真剣に対峙すべき自然は太陽だ。月もいいけど太陽もね。 

 『雑草を抜いてはならない。 」雑草の中でタマネギやニンジンを作ってみろと言いたい。それが出来てから話を聞きたい。雑草があることでよく成育する植物もあれば、雑草を嫌う植物もある。自然を観察すれば当たり前すぎることだ。農業は実践である。雑草の驚異的な繁殖力を観察すべきだ。

 雑草は今や、国境がない。ありとあらゆる性格の雑草が現れる。手に負えない帰化雑草が忽ち畑を覆いつくすこともある。代々の農家が徹底して悪い草を排除したところなら、出来たのかもしれないが。今の時代無除草は、極めて困難だ。

  『農薬を使う田んぼには鳥が寄り付かない。」 観察に偏見を持たなければ、そんなことはない事がすぐわかる。鳥は餌の多いい田んぼに来る。農薬を使うとエサの昆虫が減るのだろう。

 今も、欠ノ上田んぼにはアオサギが4羽も来ていて、極めて迷惑をしている。イネをつぶして歩いている。何とか追い払わないとならない。田んぼのオタマジャクシを食べているようだ。

 農薬を感知するわけではない。最初にえさ場にした田んぼに来る。夜寝るときは安全な場所に寝る。トキやコウノトリが居なくなったのは、農薬を使ったことや水路がコンクリート化され、餌が亡くなったことが大きいだろう。

 農薬に汚染された餌を食べ、繁殖率が下がった。数が減少しさらに繁殖能力が減った。見ていれば雀が嫌がる田んぼなどない。餌は意外に農薬を使っていてもオタマジャクシなど大量にいたりする。農薬の使い方や、種類にもよるのかもしれない。せめてどういう農薬を使うと鳥が来なくなるかまで観察してほしい。

  「耕さない堅い土ほど植物の根は深く入る。 」不耕起栽培の信仰である。普通はそういう事は起きない。田んぼの耕盤の硬い土を突き抜く植物もあるが、根を張れない植物の方がはるかに多いい。

 団粒化している空隙のある土の方が根は広がる。不耕起栽培でいい植物ばかりなら誰が耕すものか。東洋4000年の永続農業は、ひたすら耕し続けたのだ。それは寿命を短くするほど厳しいものであった。

 ここでの耕作はあくまで手でやる範囲である。機械での土の耕し過ぎは腐植を減らしてしまうという事はある。土壌を作物に応じて耕す事が悪いことのはずがない。

  「自然農法の作物は安全でおいしい。 」自分で作ったものが美味しいのが普通だ。味というものは主観的なものだ。自分で作れば大抵のものはおいしく感じる。作る苦労も食べているからだ。喜んで食べることが美味しいことになる。人間の原点は、作る喜びと味覚が結びついている。

 同時に、枯れかかった植物、病気でやられた植物、虫にいためられた植物、こうした瀕死の植物に実った作物が美味しい訳がない。まずは健全な作物であることが大前提である。自然農法にはおいしい作物が多くあると言う位だろう。

  「糖質は中毒になるほど、身体に悪いものだ。」だいたいの食養生を唱える人が砂糖の批判をする。砂糖には迷惑な話だ。砂糖が中毒になるほどおいしいという事はある。しかし、成分的にお酒やたばこのように中毒になる要素はない。

 ただただおいしいから取り過ぎるという事に過ぎない。どんなものでも取り過ぎは体に悪い。節制ができるのであれば、砂糖も良いものである。これは農業神話ではないが、沖縄でのサトウキビ農業は最後の砦なのだ。沖縄の砂糖を大切にしよう。

 「〇〇菌が農業を救う。 」〇〇の中に入れる言葉をあれかと思う人も多いだろう。癌が治るとか、自動車の燃費が良くなるとまで言っている、あれである。最近下火になってきたのは良いことだ。

 微生物は農業を救うというのであれば可能性はあると思う。しかし、微生物を購入しなければできないような奇妙な形の農業にはかかわらないことだ。農業はその土地にあるものを生かすことが基本だ。微生物はどこにでも無限というほど存在する。それを生かす技術を見つけるのが農業技術である。

  「奇跡の水の農業利用 」水の波動が農作物に作用するなどと言われる。水の磁場を変えるなどと訳の分からないことも言われる。いずれにしても農業利用には無駄なことだ。機械的に水の性質を変えるなど、自然を生かす農業とは程遠いいものだ。自然界の良い水を使う事が大切なのだ。

  まだまだ農業迷信はあると思う。どんな農法も同じ土地で、1反以上の畑で、5年以上継続して行ってから、結果を見なければならない。何しろ4000年循環できるかどうかなのだ。

 こうした迷信に迷うという事は、不可思議を信じたいという心の弱さからも来るのだろう。農業を行うという事は、自然の摂理を知り、迷信から抜け出る科学的視野を持つという事でもある。その為に自然と接し、作物を栽培してるようなものだ。極力実証的精神に立ち、科学的な思考をしなければいけない。

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2、発酵養鶏を始める。(大豆の会の通信原稿)

2019-07-12 04:49:34 | 自給
 鶏を長年飼っていた。良い養鶏を行うために発酵を利用することになった。発酵を利用した餌を作り。発酵させた床の上に鶏を飼育した。発酵を利用しない限り、よい養鶏はできなかった。

 良い卵とは何か。良い卵とは産まれてから、2か月以上生きている卵である。保存しておいて、2ヵ月してから孵化を始めても雛が孵る卵である。自称良い卵を、購入してみて孵化すれば本物か偽物かわかる。全く孵らない卵だっていくらでもある。鶏仲間の間では、卵は1週間たつだけで孵化率がぐんと下がると言われている。
 
 そして、鶏の飼育法を様々工夫するなか、発酵利用の自然養鶏に至ることになる。餌には2種類の発酵飼料を使う。発酵には大きく嫌気発酵と、好気発酵がある。麹菌は好気発酵である。味噌の発酵は嫌気発酵に近い発酵で熟成させられる。酸素を好む菌類と酸素を嫌う菌類がいる。この両者を組み合わせて使う事で味噌はできる。
 卵も同じである。卵の生命力が増していった。こうして発酵飼料を使う事で、2か月生きている良い卵が出来た。良い卵から産まれた雛は、元気に育ち、長生きしてくれた。この経験から発酵というものは生き物の元気に大いに関係するという事に気づいた。そして、自分の食べるものも発酵食品が大切だと考えるようになった。

 発酵の勉強をしたことは特別にはない。鶏の良い卵をとるための工夫の中で発酵という方法にたどり着いた。鶏は自分の家で孵化をしていた。自家作出鶏の笹鶏である。良い卵でなければ、よい雛は生まれない。当たり前のことだろう。

 では良い卵とは何か。元気な卵である。生命力の強い卵である。黄みの色がどうであるとか、黄みが盛り上がっているとか、黄みが濃厚であるとか、そういうことは孵化できるということとは関係がない。有精卵を10個孵化してみて、何個孵るか。有精卵を何日保存して、孵化できるか。3か月保存して孵化できる卵が最高に良い卵なのだ。
 
 良い卵として売られている有精卵を孵化してみるとわかる。まず孵化できる卵がほとんどないだろう。私もあちこちから購入して試してみた。最高の卵などとの能書きばかり大げさな卵が全く孵化できなかったことが普通であった。

 良い卵を模索する過程で、発酵というものに出会うことになる。良いと思われることを何でもやってみては、卵を孵化してみた。この繰り返しを30年続けることになった。ますます、発酵の迷宮に入り込むことになった。

 発酵は分からないことばかりであった。しかし、3か月生きている卵は作ることができた。このよい卵から学んだ。おいしい卵の味とは、3か月生きている卵の味だ。濃厚だとか、味付け卵とか、孵化もできない卵の味をおいしい卵とすることは、人間の味覚のゆがみということだと考えるようになった。
 
 おいしいものが、身体によい食べ物であるというまともな味覚に自分を改善しなければならない。と考えるようになった。良い卵の味はかなり淡白な味わいである。私のところの卵が雑誌やテレビで取り上げられることが何度かあった。そのたびにグルメという人が訪れては、どうしても食べたいというのだ。そして、どの人も一度きりになった。あまりに物足りない味にがっかりしたにちがいない。

 人間は暮らしに余裕が生まれ、より濃厚な味をグルメとして受け入れるようになったのではないだろうか。その結果、健康に悪いものであっても、おいしいものというゆがんだ味覚文化が育ったのかもしれない。

 鶏にとって卵は命をつなぐ要である。良い卵はおいしいという以前に生命力が強くなければ命をつなぐことができない。生命力が強いと、味が濃いということを混同してはならない。卵を食べるということはその強い生命力をいただくということなのだと思う。

 だから、強い生命力を味わおうと思った。その味から、もう一度最初の人間の身体に良い食べ物の味を学ぼうと考えた。だから、おいしいで卵を売らないことにした。おいしくないかもしれないが、この味から命の味を学んでほしいと。この静かな命の味こそ本当の食べ物だということ。

 良い卵を作り出す方法は発酵だった。一つはサイレージと言われる家畜の飼料製造法である。牛や馬の飼料に草をサイレージする方法がある。牧場につきものの高い塔である。高い塔には草が詰め込んである。草は嫌気性の状態で乳酸発酵をする。この乳酸発酵させることで資料の価値が高まる。

 鶏にも同じことをした。生草の代わりにお茶殻を使い、発酵菌材料としてヤクルトのミルミルを加えた。ビオフェルミンを加えてみたこともある。お茶殻だけではなく、ミカンの搾りかすも始めた。そして、オカラもサイレージした。

 この3つの発酵飼料は、そのままでは好んでは食べないものを、鶏は真っ先に食べるものに変える。もう一つ行ったのが70度以上の高温で発酵させる、好気発酵である。高温化することで安全で良質な資料を作り出すことができる。

 特に魚のあらを鶏の飼料に使うことは昔からあった。しかしあらを煮たものを食べさすと卵は臭みを増す。鰹節は生臭さがなくなる。鰹節の発酵を再現するように、魚のあらを発酵して使うということにした。卵に臭みが映らないことに成功する。次回は鶏の餌から人間の餌に、話を進める。
 
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大豆の播種と大麦の麦茶づくり

2019-07-09 04:03:21 | 自給
 大豆の播種をした。大豆の会の畑が3か所ある。一か所は全員で行い、終わってから、2班に分かれて播種した。全体で20人くらいの人だったかと思う。子供たちもたくさん来てくれた。まとめる太田さんの指示がとても良く、午前中で作業が終わった。去年は夕方までかかったのだから、すごい進歩だ。


 7月10日トンネルの中の苗床で発芽が始まる。3日目である。

 7月6日の播種の予定が、7月7日という事になった。今年の6月の雨続きはほとんど日照がないという状態である。例年の15%としか日照がないという事で、注意喚起がされている。この中晴れ間に耕してくれてあった。渡部さんである。ありがたいことだ。作業は準備7割と言える。

 イネの方は田植え以降晴れ間がないという事で、生育は遅れ気味である。このまま、梅雨明けが長引き晴れないようであると、収量にも影響が出てくるであろう。もう例年こうだからと言えないような、毎年の気象の変動である。


諏訪の原大豆圃場

 大豆は昨年発芽がとても悪かった。理由は特定できたわけではないが、種まきの後豪雨が降り、その後極端な暑さが来た。あれで種がとろけてしまったのではないかと思っている。

 今年も雨が続けば、種が腐るのではないかと心配している。天候はほぼ曇り、雨もあったが、ひどいものではなかった。上手く行けば、きょうあたり、少しは発芽している気がする。明るくなったら、見に行ってみる。

 

 麦は小麦が150キロで。大麦が9キロ弱の収穫だった。収量は普通作。こちらも雨続きの中で、苦労したようだ。麦は梅雨時で干せない。天日乾燥の為非常に苦労する。機械小屋に持ち込むところまで、私はやったのだが、その後が大変だったようだ。脱穀以降は参加できなかった。みんなで協力して作業してくれた。有難いことだ。

 

 小麦はミルパワーに100キロ届けて、精粉をお願いしてくれた。ミルパワーでは石臼で丁寧に粉にしてくれる。貴重な粉になる。これは10月ごろいつも粉になって戻ってくる。小麦は寝かせてから精粉すると、香り立つ粉になるらしい。しかもその香りが長く保つのだそうだ。

 


 小麦種を10キロ保存。大麦は1キロだけ種保存。もう一度干してある。帰りに種の保存冷蔵庫に入れて帰るつもりだ。後は粒で欲しい人や、小宮さんに種のお返し。

 大麦は8日の午前中に焙煎した。欠ノ上田んぼの陽だまりガーデン。こういう火を使う作業がいつもできる場所があるというのは、有難いことだ。火事の心配もない場所。水もある。竈もあるし、薪もある。

 焙煎はとても重要だ。美味しい麦茶を作るには時間をかけ長時間焙煎しなければならない。以前テレビで見た麦茶の焙煎は、小石を混ぜて焙煎して、後で石を分けるやり方だった。石焼き芋の手法だ。かなり色が黒に近いところまで焦がしていた。

 美味しい麦茶を作るなら、入れる前にもう一度焙煎するといいと思っている。コーヒーが焙煎が重要なのと同じくらい麦茶も焙煎技術である。ともかく農の会の麦茶ほどおいしい麦茶は飲んだことがない。

 今回、小麦でもできるのではという意見があって、小麦も焙煎して飲んでみた。確かにそれなりの味ではあるが、やはり大麦の方が飲みごたえがある。理由は大麦はもみ殻に包まれている。このもみ殻が焦げる。これが苦みの抵抗感になっているようだ。

 麦の会は現在6名で運営されている。作業が大変な割に、小麦粉の価格も高くなる。その為に、継続する人が少ない。それでもこの会から、3名ものパン屋さんが生まれた。良い活動だとは思う。
 
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小麦の刈り取り ハルユタカ

2019-06-08 04:00:21 | 自給
6月5日、6日と麦刈りをした。5日の午後は、三国上の畑の麦刈りをした。6日には一日をかけて総生寺裏の畑を刈った。面積からすると実に手間取る麦刈りであった。そういえば昨年もバインダーの故障で苦労をした。7日から雨という天気予報なので、早いのは承知で刈った。予報通りの激しい雨だったので、やった甲斐があった。これ以上延ばすと、石垣島に帰ってしまうからだ。麦の会としては、私がいる間にやった方がまだ良いと思い無理に作業した。意外に硬くなっていたので、見込み違いかもしれない。草が相変らずすごかった。機械はとても入らない状況なので、手で刈った。と言っても買ってくれたのは太田さんだ。刈ることはそれほどでもなかったが、雑草とより分けるのが大変なことだった。麦の草では毎年苦労している。ネズミ麦、カラスムギ、もう一つ大きくなる麦に見える変な雑草があった。ネズミ麦はイタリアンライグラスが野生化したもの。カラスムギはえん麦の野生種。隣のみかん畑では、ネズミ麦が下草として蒔かれているから、これがきている可能性もある。どれほど草取りをしても雑草が残ってしまう。余りのことにもうこの畑ではやりたくない。総生寺裏の方も草はない訳ではないが、三国上ほどではない。三国上の畑は雑草の種を相当落したことがあるのだろう。麦以外のものを作った方がいいかもしれない。


手前はジャガイモの会の畑である。

麦自体はよくできた方ではないかと思う。粒張りは良かった。三国上の畑は土が良かった。この後大豆を播くので、様子がわかる。60cm間隔で播いたはずだ。畝幅を広げたので、分げつもそれなりにあった。しかし、草取りの手間は尋常なことではなかった。土壌が良ければ雑草の繁茂もすざましい。60㎝なので、地面に陽が入り過ぎる。総生寺裏の畑は30センチ畝で播いた。こちらは土壌はかなり悪い。大豆を作ってもよくできない畑であった。水の浸透性の悪い畑だ。少し掘ると硬い耕盤に突き当たる。半分のジャガイモ畑の方は炭素循環農法で現在土壌改良をしている。半分は小麦による土壌改良と比較してみようという考えもある。どうせ麦はできないだろうと思いながら、緑肥でも構わないという気持ちで小麦を播いた。収穫できれば、その時は収穫しようと言う位の気持であった。まず、土壌改良という頭があったので、ソバカスは多めに蒔いた。前作の大豆の片付けが終わって、すぐに10袋撒いてトラックターで耕し、時間を空ける間もなく小麦の播種である。時間を空けていたら、播種時期を逃すので仕方がなく、急いだ。

畑は三国上が3畝、総生寺裏が4畝。収量で言えば、総生寺裏の方が3倍はある。土壌が悪い方の畑の方が出来が良いというのも、雑草を取れるかどうかの違いだったのだと思う。畑が平らで長方形という事も作業がしやすい。三国上は変形で傾斜地だ。総生寺裏の畑の土壌の問題は水の浸透の悪さである。小麦の栽培は、冬の間の雨の少ない時期なので、影響が少なかったのかもしれない。大豆は水分の影響が強いらしいから、上手くできなかったのかもしれない。大豆の窒素固定と、ソバカスを10数体播いたという事も麦の肥料効果につながったのかもしれない。麦は肥料食いだ。冬場で肥料を吸いにくいという事もある。イネに比べたら、数倍の肥料が必要になる。分げつは肥料がなければ少ないものになる。麦踏はほとんど関係がない。何度か比較実験をしたが、踏んだ所の方がよくなるというようなことは一度も経験がない。家の畑や、舟原田んぼ下で作った麦は良く分げつした。天候や土壌にもよるのだろうが、霜で浮き上がるという事もない。麦踏より、畝間に追肥でそばかすを撒いておいて、土をかぶせてやると、分げつが増えるようだ。

農の会麦部からはパン屋さんが3軒も生まれた。大磯、開成、根府川の方でやられている。皆さん、小麦を栽培するパン屋さんである。麦部は小さな活動ではあるが、ここから育った人もいるという事は凄いことではないだろうか。育ったなどと言えば、おこがましいことだが、麦作りを経験してもらえたという事は、嬉しいことだ。そうい意味で麦部は継続はしたい。麦は現在機械小屋に置いてある。いたるところに麦を立てかけてある。外に干せればいいのだが、梅雨時なので雨でカビてしまうことになる。無理無理機械小屋に干した。もう少し乾かし、雑草が少なければ、そのままハーベスターにかけることも出来るかもしれない。刈り取って、すぐハーベスターというやり方でやったこともある。来年、できれば総生寺裏の一か所にして、ハーベスターという手はある。畑が2か所になっているというのは、手間がかかり良くなかった。併せて7畝になる。140キロ取れれば神奈川県の平均収量を超えることになる。私は帰ってしまうので、申し訳ないがみんなにやってもらうしかない。




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玉ねぎの保存法

2019-06-06 04:06:46 | 自給
6月4日、玉ねぎの収穫をした。もう少し先にすれば大きくなるのでよいのだが、石垣島にタマネギを送りたい。送る前にせめて1週間は干しておきたい。そう思って少し早めに収穫した。玉ねぎの収穫時期は葉が倒れて10日後ぐらいと決めている。良く晴れた日に収穫をして、屋根のある家の裏の土間に並べておく。ひと月ぐらいはそのまま置いて置く。まだ葉もついているし、根もついている。暇なときに、根ははさみで切る。葉も切り落としてしまう。保存の前処理でもある。玉ねぎは365個収穫して、一日1個は食べる。すでに50個畑でトウ(ネギ坊主のつぼみ)の出たのを選んで食べた。だから、保存用は315個という事になる。一年間食べていると話したら、嘘だろうネットにはそんなことは書いてないと言われた。そういう時代なのだとナルホド納得。もう何年間も保存をして一年食べている。保存法を前も書いたと思うのだが、もう一度書いてみる。

手前のものは生ごみたい肥化装置、回転するので攪拌が簡単である。ここは家の北側で、屋根がある。下はコンクリート。

まず、保存性の良い晩生の品種と、早くできる早生品種の2種類を作る。保存性の良い品種を10カ月保存できれば、一年切れ目なく食べることが出来る。ネオアースが保存性が良いのでいつもつくる。そして、早くできる早生品種。これはいつも苗を貰っている。今小田原のタマネギ農家が作る品種は、ほぼ早生品種のようだ。簡単に大玉になる。私が有機栽培で作っても、普通に売られている物よりも大きくなる。中てのネオアースは大きくはなりにくい。また大きくならないように、しまった硬い玉ねぎを作ることが目標でもある。肥料が多いいと大きくはなるが緩い球になる。小さい硬いタマネギの方が保存性が良い。栽培法で保存性はかなり違う。大きいのが良いと思うなら、保存は諦めるほかない。先ず掘り起こしたら、良くよく乾燥させる。場所があれば、ひとつづつ軒先に吊るせばいいのだろう。風が通り日が当たらない場所が良い。昔なら高い床の縁の下である。普通場所がないから、まず床に転がして、乾かしてやる。根は切った方が保存は良くなる。玉ねぎは葉とは関係がなく、根がいつまでも水分を吸収している。

十分乾いたらば、3分の1くらいの堅いものを選びながら、ネットのタマネギ袋に入れる。風通しの良い、日陰に吊るしておく。暗いほど良くて、縁の下で良い場所があればその方がさらに良い。玉ねぎは腐ってくることがある。それを見つけたらすぐ捨てる。腐りが周囲にまで及ぶ。保存で一番の問題は芽が出てくることだ。これは春になって光と温度が影響する。大きいものから、順番に食べてゆく。私の場合、現段階で50個は食べたことになる。一日一個は食べれないでしょうと言われたが、カレーなど作れば3個は食べてしまう。チャーハンでも1個入れることもある。タマネギほど重宝な野菜は少ない。保存向きのタマネギも1月ごろになると、柔らかくなるものが出る。あるいは芽が出てくる。芽が出た物から食べる。そして、2月ごろになって残っている玉ねぎは冷蔵庫に入れてしまう。60個ほどなので冷蔵庫に入る。これを食べ終わるころには新タマネギが登場するわけだ。

今年も苗作りに失敗した。苗床が充実していなかった。苗床づくりには相当前から力を入れなければだめだ。100株程度が自分の作ったネオアース苗だった。これは保存性が良いので、保存に回す。後はジョイフャームから購入した苗である。苗は植えてから、穴あきビニールを掛けた。松田さんがビニールを掛けて成功したと言われたからだ。試しに穴あきビニールをかけてみた。苗を植えてすぐである。と言っても、石垣島にもどるので、1月末くらいに取り除いた。久野の諏訪の原圃場が寒いという事がある。ビニールを初期だけかけておいたら、私だけウリバエにやられなかった。しかも初期活着の悪さが全く見られず、安定して初期生育した。全員がウリバエにやられて植え直したのだが、その中に植えられていたのに、私の苗は一本も欠けることなく成長した。ビニールトンネルは面倒ではあったが、効果があったことは確かだ。寒さ対策の方は、苗の活着が良かったという意味では成功であった。そして燻炭を厚く引いて、草対策もした。草が抑えられたかと思っていたら、どうも渡部さんが抜いてくれたらしい。そうかなとは思っていたのだが、全くありがたいことだ。





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手摘みのお茶作り

2019-05-09 04:20:20 | 自給
5月3日と5日は農の会のお茶摘みだった。私は時間があったので、3日も出たいと思ったのだが、笹村は5日の予約で3日は出てもらっては困ると言われてしまった。それくらい、申し込みが多かったという事のようだった。以前のお茶摘みでは延べ100人という事もあった。今回は75人くらいの参加になっているのではないだろうか。徐々にお茶の活動が復活している。ここ8年間頑張って継続してくれたお茶の会の人たちの苦労思うと、頭が下がる。毎年美味しいお茶が飲める。他所の畑のお茶を飲むととても物足りない。去年の秋、台刈りを4分の1しているので、今年位の人数が今の限界であろう。お茶の芽の大きさはちょうどよい一心3葉というところであった。この日程を決めるのも、大変なことである。2月にもうお茶摘みの予定を立てなければならないのだから、よほどの天候の読みと運が必要である。今年はかなり芽が伸びてから、相当寒い日があったから、霜でやられたかと思ったのだが、意外に大丈夫だった。農の会のお茶畑は坊所川の脇で霜には強い。お茶はいつものように、田中さんの所で製茶をしてもらった。お茶の分配は5月11日になる。

全体では240キロの収穫である。4分の1が台刈りで全く詰摘めない状態としては、まあまあの状態ではないだろうか。75人という事は、一人平均3,2キロを摘んだという事になる。75人と言っても小さな子供から、初めての人まで入れてだから、こんなものかもしれない。私は8,4キロ摘んだ。過去最高が12キロだ。頑張れば今年も10キロまでは摘める感じがした。2時半で終了になったので、そこで終わりとなった。製茶は60キロ単位でしかできないので、この後やるとしたら、30キロでやってくれる久野製茶組合の方に行かなければならない。お茶畑に残る葉は10キロぐらいしかない状態になったので、ちょうどよい終わり方だった。アルバイトをお願いすると一日仕事で10キロが手摘みの量だそうだ。私にもそれくらいはまだ摘める体力がある。2時半に摘み終わり、お茶を工場に運んだり、機械小屋への片づけをして、3時半にはすべて終わった。このくらいが良い加減かもしれない。

今年のお茶摘みも気持ちの良いものであった。準備をしてくれたお茶の会の人たちが、とても良く配慮をしてくれていて、安心して茶摘みが出来た。始めてお茶摘みをやる人もいる。農作業を初めてという人もいる。そうした中で、作業を滞りなく進めることは事前準備が大変である。参加している人はあまり気付かないと思うが、あれこれ準備は気苦労なものだ。お茶の会の人が道具を機械小屋に取りに来た時に、メモを見ながら何度も道具をチェックしていた。駐車のことや、トイレのこと、大勢でやるという事は違った苦労がいるものだ。その苦労が見えないところまで行かないとならない。そこまで行かないと楽しいお茶摘みにはならない。何にしてもお茶を摘み残さないことが大切である。人数が集まらず、お茶が摘み切れないと、悲しいお茶摘みになる。同時に人は居るのだが、自分のお茶が摘み終われば、それで帰ってしまう人ばかりというのも、寂しいお茶摘みだ。みんなで協力して、農の会のお茶畑の管理をするという事だと思う。初めての人は、商売としてのお茶摘みに参加したと思っているだろう。

農の会の活動が気持ちよく継続できたことは、誰かに負担感がないという事だ。自分が頑張っているのに、他の人がやらない。こういう思いがあると長くは続かない。参加する人にはさまざまな人がいるし、思いも違う。一生懸命にやる人ほど、他の人に不満が出がちだ。そこで、参加を記録して、参加のレベルで収穫を分配するという案が出てくる。いかにも一見公平という考えである。ところがこういう考えを取り入れたところは大体にその後もうまく行かない。上手く行くところは、参加者を信じて、みんなで育てゆく気持ちがある所だ。実際に年数がたてば、分かってくるものだ。分かって去る人もいるが、たいていの人はやってくれている人に感謝の気持ちを持つようになる。それが人間の集まりだと思う。できる人が出来るだけのことをする。できない人はそのことを感謝をする。できる人は人間の成長をする。一つの人間修業なのだと思う。沢山そういう人を見てきた。いかにも偉そうでおかしいが、お茶の会の人たちもそういう確かな成長をしていると思う。だから、ただただ気持ちの良いお茶摘みが出来た。あと何年出来るかはわからないが、お茶が6,3キロ摘める間は参加したい。6,3キロ摘むと1,2キロのお茶になる。つまり月々100グラムの自分のお茶が飲めるという事になる。これが自給の原点だと思う。



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冬の間の麦とタマネギ

2019-05-06 04:15:49 | 自給


玉ねぎは石垣にいる間いつも心配だった。2カ月以上も畑を見に行かないで、どうなるのか初めてのことだった。想像では草負けするのではないかと思っていた。小田原を離れる最後の日だったから、2月15日に最後の草取りをした。それから戻って畑を見に行ったのが4月27日。春の草の出るときに居なかったことになる。そして写真のような結果である。草取りした後の写真なのだが。玉ねぎはそれなりに育っていて意外に大丈夫だったのだ。やり方としては、2月15日の草取りの後、燻炭を出来るだけ播いた。これで被膜を作ればある程度草が抑えられると考えた。これが草抑えの成功になったのではないだろうか。玉ねぎは何といっても草とりである。それと、久野では寒さである。寒くて成育できないという事がある。燻炭マルチは保温にもなる。今年は、苗を植え付けてから、2月15日まではトンネルをした。苗の活着をよくすることと、ウリバエの予防である。他の人はウリバエにやられたという中、私だけは全く影響がなかった。今のところそこそこのサイズのタマネギになりそうだ。


保存性が良いので、ネオアースを作りたいのだが、ネオアースは今年も小さいようだ。ネオアースの苗作りに失敗をして、出来たものは100個あるだろうか。こちらを保存に回して、先に食べるものを、ジョイファームから苗を分けてもらった。ソニック苗だった。こちらは生育も良くて玉も大きくなりそうだ。他の人のものを見ると、すでに球が浮き上がっている。私のものは燻炭に埋もれたような状態である。玉ねぎが浮き上がってくるのは普通のことであるが、あまり好きではない。埋もれたまま球が大きくなってくれた方がいい。まだ小さいのかも知れないが、あと2週間はこのままで行きたい。


総生寺の裏の麦畑である。緑肥にしてもいいからと考えて、一応播いたものである。ここの畑は土が悪くて、よくできるとも思えなでいた。前作が大豆である。大豆がとても悪かった。地面の下に耕盤があり水が抜けずに溜まってしまうおかしな土壌である。昔田んぼがあったかのような感じだ。まず40袋ソバカスを播いた。そして耕して、麦を播いた。そばかすを撒いて時間を空ける余裕もなかったのだが、この点では問題はなかったようだ。冬場は肥料の効き方がゆっくりになる。しかし、畑のムラがすごい。土が出来ていない証拠である。分げつもかなり少ない。1反の畑の内、半分の5畝に麦を播いた。麦の土壌改良能力の効果を見てみたい。根が深く入るというから、耕盤が壊れることを期待している。奥の半分は炭素循環農法で土壌改良を試みている。深い溝を掘り、そこにチップを入れた。この後、全体が大豆畑になる。麦を作ったところと、炭素循環農法の所と、どんな違いが出るのか楽しみである。奥の炭素循環農法の所がジャガイモである。ジャガイモは先日0度になって霜げた。黒く葉が萎れてしまった。影響はないようにも見えるが、ないとは言えないようにやられているものもある。


これは三国の上の畑の大麦である。三国の畑は放棄地を借りて、やはりソバカスを撒いて、播種した。大麦は最初の発芽は良かったのだが、その後の生育は良くない。加えて大麦を蒔いた辺りは土も良くないと思われる。これは麦茶にしたいと思って蒔いた。どうも大麦は久野で作るには少し寒いのではないだろうか。麦茶にするほどなければ、せいぜい、種保存である。



こちらは三国の上の畑の小麦の方だ。こちらの畑もすごいムラが起きている。初めての畑なので、仕方がないのかもしれない。然し株自体の分げつは悪くない。穂が出ているところはとても大きくなっている。株間をこちらは広くとった。諏訪の原の悪い土壌の畑よりは、土がよさそうに見えたので、株間を広げた。こちらは出来としては良いのではないかと思う。冬の間の草取りに参加できなかったので、申し訳ないことであった。みんなが草取りを相当苦労してやってくれたようだ。




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ホウトウの作り方

2019-03-26 04:09:06 | 自給

久しぶりに「おホウトウ」を作った。山梨県生まれなので、子供のころからホウトウを食べている。ほぼ毎日食べていたと思う。「ホウトウ」ではなく「おホウトウ」であった。ホウトウは打ち込みうどんのことだ。生の面を汁に入れて煮込む。今山梨の飲食店で出されている現代のホウトウはみそ味である。しかし、60年前の境川村は醤油味であった。といってもよその家のホウトウを食べる機会はなかったので、話だけである。甲州でも地域によって味噌味と醤油味があると大人が話していた記憶がある。ホウトウの為に、甲州赤小麦という麦を栽培していたのだと思う。あの麦秋という色である。今の小麦はあんなに大きく赤く見事な色にはならない。それも、子供のころの記憶だから、大きく赤いだけなのかもしれない。そもそも、甲州赤小麦という名前だって、赤かったのであれがそうであろうと思うようになっただけのあやふやなものだ。ただ麦の背丈が随分と高かった。背の高いのは屋根をふくためだ。しかし、これも子供のころの記憶で何でも大きく思い出すのかもしれない。

―――おホウトウ作り方

朝ごはんが終わると、片付けものをしながら小麦粉を練っておく。小麦粉一合が一食分。おばあさんは人数分お椀ですくっていた。ぬるま湯が50㏄弱くらい。塩わずか。今回の小麦粉はパン小麦のハルユタカ。うどん用の小麦がいいのだが、パン小麦でもできないことはない。まず、こねバチに小麦粉の富士山を作る。中央に噴火口を作り、ぬるま湯を灌ぐ。そのまま、水が浸透するのをしばらく待つ。周りから中央に粉をかけながら、練ってゆく。練は強く、30分ぐらいは練り続ける。今は厚めのビニール袋に入れて、足で踏む。踏む数は1000回。一塊になりにくいぐらいがちょうどよい水加減。少なくても練っているうちに粘りが出てくる。水が少ないと腰が出る。塊は濡れ布巾をかけて夕方まで置いておく。ビニール袋でもよい。時間を置くとしっとり、ねっとりなっている。それを再度こねる。これもビニール袋の中でこねると楽である。そして一塊にして、今度は足で押し広げながら、四角にして行く。厚さ7,8ミリほどの座布の形に広げる。形がおかしくなったら、まとめてまた挑戦すればいい。座布団になったら、裏表に小麦粉をまぶす。そして麺棒に巻きつけて、薄く伸ばしてゆく。時々小麦粉をまぶしてゆく。1ミリぐらいの厚さで完成。薄ければ薄いほど良い。

薄くのばされた麺は良く小麦粉をまぶして、折りたたむ。このとき4角に延ばしてあれば、切りやすい訳だ。切るのはできるだけ細く切る。少し切ったら、また小麦粉をまぶしながら、麺を広げて切り口がくっつかないようにしておく。切り終わったときには汁の方が完成していないとならない。広げながら麺をお汁の中に入れてしまうからだ。小麦粉を多くまぶせながらの作業は楽になるが、ホウトウの汁がドロドロになる。私はどろどろのホウトウが好きだから、小麦粉を多くまぶす。しかし、上手は打ち粉の使い方が少ないといわれていた。くっつかない範囲で小麦粉は少なめに。

汁はカボチャのホウトウが代表的だ。カボチャを10分は煮てとろけるところが良い。インゲン、ニンジン、タマネギ、長ネギ、キノコの類、鶏肉、豚肉。あるいは貝類。何でもよいのだが、色々入れた方が、よい味になる。だしは煮干しが合う。丁寧にやるなら昆布もいい。全体にお汁はそもままでも食べれるところまで煮込んでおく。ここに面をほぐしながら落としてゆく。面が水分を吸うので、お汁は大目に作らなければならない。煮すぎると麺が柔らかくなるので、3,4分で固めのうちに終わる。食べている間にも麺は汁をすってゆく。どんぶりによそってから、生卵を入れる。生卵を入れると汁の味が絶妙になる。長ネギのみじん切りを多めに乗せる。そして七色唐辛子をかけて完成。

アアうまかった。

 

 

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孤食の連続6食料理

2019-02-12 04:15:28 | 自給

食事を作るのは好きだ。久しぶりに孤食を続けている。一人分を作るというのはなかなか難しいものだと改めて感じた。高校の頃は孤食であった。この頃は東京の松陰神社というところに住んでいたのだが、一人で食事を作り食べていた。家は3家族同居の9人で住んでいたのに孤食という変な同居家族だった。それぞれが違う事をやっていて忙しかった。家族が4つほどの商売をやっていて、夜は麻雀屋をやっていた。同居していた青木さん家族は当時中華の惣菜店をしていた。朝から晩まで中華総菜を作っていたのだから、それを食べさせてもらえばよかったのだろうが、そういう事は新しい料理の試食の時ぐらいだった。調理場やお店は三軒茶屋だったので、ついでという事がなかったのだろう。たまには9人で食べた記憶もあるが、覚えているくらい稀なことだったと思う。一人の食事がほとんどだった。

今はあの頃の半分も食べない。少量だから料理が難しい。6食分一度に作る。一度と言ってもバリエーションがあり、違う料理に変化してゆく連続料理である。朝、まず小さな保温寸胴鍋に、最近はやりの袋入りの鍋の汁を入れる。例えば、完熟トマト鍋スープ。などと書いてあるものだ。その日の好みで、伊勢エビだしスープ。とかカニスープ。とかいろいろ買って来てある。トマト味スープを鍋に入れる。そこに野菜ジュースを入れる。ホールトマト缶を入れる。緑色野菜ジュースという時もある。こにキャベツをぶつ切りにして放り込む。面倒なと思いながら、タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、オリーブオイルニンニク、あるいは醤油ニンニク、大きめのまま、入れる。弱火で煮込む。これはタイマーで12分。電気コンロのタイマー機能は便利だ。大抵の場合はこの間にコーヒーを入れている。仕掛けておいて、またこういう風にブログを書き始めることもある。そこに、冷凍エビ、ホタテ、など魚介類を要れる。そして、またタイマーで12分かける。熱い内に保温ジャーの中に入れておく。

ご飯は1.5合の糯米玄米に天津栗を加える。ここに焼き豚、キノコ等も入れる。圧力電気釜で炊く。場合によっては竹の子、アサリ、とかを中心にする。冷凍ものか、缶づめで食べれるものが売っていればであるが。もちろん玄米のままのこともあるが、大抵は味付きご飯にしておく。そうしておけば弁当のおにぎりも簡単だからだ。場合によってはこれをチャーハンに変化させて食べることもある。玉ねぎか長ネギをオリーブオイルで炒める。味付けご飯と卵を入れて、炒めれば出来上がる。チャーハンには必ず、スープを付ける。連続料理のスープを取り出し、コショウとゴマ油と生わかめを入れる。すべて同時進行でやるから、慌ただしいようだが、手順が慣れているので、ブログを書く合間にことは進んでいる。そして、お腹が相当に減ったなという段階に成ったら食べる。

次は昼食事に、連続料理鍋を温めて、最後にカキを加えてカキなべで食べる。そして夜は坊さんなので薬席で食事ではないことにしている。鍋に、ブロッコリーとか、長ネギとかを大量に加えて、酒を飲みにながら少量食べる。ご飯は食べないで酒。翌朝はさらに鍋の汁だけを移して、ガンモドキ、あるいはさつま揚げ、厚揚げ、のような豆腐系。そして割り卵を入れて、冷凍うどんを加えて温める。場合によっては朝食は、残ったものにカレー粉を加えて、カレーにする。カレー粉はあれこれあるのだが、これを加えるとおいしくなると、レストラン葡萄舎の方がくれた。粉は加える。これで、糯米玄米栗ご飯にかけたカレーという事になる。

2日目の昼食は具材の残り次第でこれをパエリアにすることもある。つまり、ごはんが無くなっていればである。よく洗ったコメを生のまま、オリーブオイルでいためる。この時に焦げるので、丁寧にかき回しながらいためる。硬いままであるが香ばしく焦げたような感じになったら、鍋に入れる。とろ火で上手く煮込む。そして最後の2日目の夜は、残ったカレー鍋かパエリアで酒を飲む。こうして2日分の流れを繰り返す。このやり方が良いのは食材に無駄が出ないという事だ。前はこれが2人分のこともあったから、作りやすかったのだが、一人分は量の加減が難しい。やせ我慢かもしれないが、孤食の良いのは好きなものを勝手に食べれるというところである。この味は良いのだが、見た目の悪い料理は人様には提供しにくい。このほか、おでんロールキャベツ連続バージョンとか、丸ごとキャベツバージョン。豚肉ゆでながらバージョン。骨付き鶏肉の丸ごと白菜鍋バージョン。いろいろキノコ鍋バージョン。様々な連続バージョンを作った。どれもこれもほぼ2日連続料理だった。計算してみると一回の食材費が平均4000円ほどかかる。6食分と思えば、1食666円か。

 

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丸ごとみかん味噌

2019-01-27 04:04:14 | 自給

麹造りの様子。まごのりさんの圃場で今年はやらせていただいている。素晴らしい雰囲気である。明るい林の中での味噌づくり。今日はこれから味噌の仕込みである。

味噌づくりの日には持ち寄り料理が行われる。出来れば味噌料理という言ことになっている。皆さんなかなかの工夫した料理を持ち寄ってくれるので、毎年感心する。私も新しい料理に挑戦する。今年は30年味噌づくりをして、過去一番の味噌になっているので、その味噌を生かしたいと思っている。3年味噌である。3年前に仕込んだ味噌が今丁度良い熟成になった。こんな時間のたった味噌は嫌いな人もいるのだが、静かに熟成を進めた味噌の味が好きだ。味噌もそれぞれの好みがあるから、どれがいいという事はないが、古味噌の味は子供のころから、酸っぱくなった味噌を食べていたせいだと思う。お寺では味噌は毎年仕込んであるのだが、やはり作り過ぎることがよくあったのだろう。いつも酸っぱくなっていた。酸っぱいからと言って捨てるようなことはないから、酸っぱい味噌がなんとなく向昌院の味噌の味という事だった気がする。おばあさんが味噌を仕込むようなことはとても好きで、新しい味噌を開けるときの嬉しそうだった様子を思い出す。

古めの発酵の進んだ味噌はどちらかと言えば煮込んで味が良くなる。火を入れ過ぎたら味噌の風味がなくなるなどと、調理人の人が言っているが、私には理解しがたい。即製の味噌を使っているのではないか。味噌もいろいろなのだ。売られている味噌の大半はそもそも私には味噌というようなものである。味噌とまでは言えない代物だと思っている。丸大豆味噌というような但し書きが味噌にあったりする。一体四角い大豆があるのかと言いたくなる。大豆の粉を味噌風味にしたようなものを味噌と呼んでいるのではないか。良い発酵をした味噌は煮込んでその風味を増すものだと思う。少なくとも私の家の味噌は煮込んで味が出る。味噌汁に出汁など不要である。味噌だけで十分のコクがある。などというのも手前味噌ならではの主張か。これはあくまで私の好みで、他の人には通用はしない。今年の味噌が美味しいのは、麹造りの成功にあると思っている。

20日に麹の仕込みを行い。27日が味噌の仕込みである。今年は麹を仕込んでから、千葉の方の有機の給食の見学に行った。少し手抜きになって、麹が今ひとつかもしれない。温度管理的にはうまく行ったのだが、手入れをしないで進んだ。温度が36度ぐらいまでで推移したので、ついつい手入れをしないで、手抜きをした。見た目それなりの出来だが、もう一つ発酵が深く進んでいないように見える。やはり温度が上がらなくとも手入れはした方が良いのだろうか。と言っても味噌づくりも今年を最後にしようと思っている。作った味噌を小田原に於いて置く訳だから、運ぶだけで大変なことだ。みんなでやる味噌づくりも楽しいから、まだやめるとまでの決意は出来ていないのだが。

酒粕味噌を作った。

酒粕を日本酒でクリーム状に延ばして、そこに味噌を加えたもの。日本酒とお湯でトロトロにする。そこに味噌を加えてゆく。酒粕の新鮮なものをたまたま頂いた。いすみ市の木戸泉酒造を見学に行った。この酒造会社は日本酒の古酒に力を入れている。日本酒は新酒のものだと思っていたのだが、目からうろこである。古い文献にも古酒の良さが書かれていると言われていた。古酒を作るにはその製造法で、お酒が参加されない手法が必要という事だった。55度の高温でお酒を仕込むのだそうだ。この高温での製造で保存料無しで、40年古酒が出来ていると言われていた。まったく驚きである。酒粕を頂いた。これを使った味噌料理と思い、酒粕味噌と作ってみた。焼きおにぎり、パンに塗ってトースト。

丸ごとみかん味噌

丸ごとみかんのマーマレードを作り、そこに味噌を加えたもの。丸ごとみかんは眼に良いので、何にでも使いたい。マーマレードづくりは普通でいいのだが、みかんの皮も含めて細かく刻む。それに火を入れてゆく。皮がとろけるまで煮詰める。砂糖は控えめで十分甘くなる。みかんだけだから、そのマーマレードで食べるには少し物足りない味かと思う。そこに味噌を加えて、あまじょっぱい舐め味噌を作る。これは案外にご飯に合う。

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大豆の会ができるまでーーー5

2019-01-21 04:49:32 | 自給

昨日は、近藤まごのりさんの諏訪の原圃場で麹作りが行われた。新しい場所で新しい味噌づくりが始まった。

農の会としての味噌づくりは、第一回は小田原の私の家でやったのだと思う。小田原に越してすぐだったので、2003年のことではないだろうか。中野さんという開成の方で、MOAの自然農法されていた方と一緒に宅配事業をしていた。その中野さんのやり方というのが、麹を塩漬けにして眠らせて、一年於いて置くというやり方だった。そのやり方が開成では普通だといわれていた。 まだ10人ほどで、20キロの釜でやったのだったと思う。大豆も購入したものだ。私の家で3回ほどやって、2006年ごろに、梅の里センターでやるようになった計算になる。その頃に農の会としての大豆栽培も開始をしたことになる。2008年には醤油を仕込んだ記録がある。2008年には小宮さんの所に味噌の貯蔵庫を作る計画を立てたが、これは紆余曲折があり実現が出来なかった。予定者名簿には以下の名前がある。大野、諏訪間、阿部武、安藤、石井智子、渋谷、兼藤、藤崎、瀬戸、小泉、中原、鈴木淳子、下川A、下川B、笹村、吉野馨子、河合、酒井まや、中村、佐々木、小野田、塩谷卓也、松本、三木、杉崎、この頃にはこういう人々が参加していたという事になる。 2009年の大豆栽培の参加者名簿には56名が記載されている。

梅の里センターのみのり館には大きなコンロがいくつもあり、味噌づくりには良い場所だった。そのころは麹造りには藁の編んだものが必要だという岩手から来た千田さんの方式が残っていた。ムシロ編みからやっていた。今思うと納豆ではないのだから、むしろで麹を仕込むという事の意味は理解しにくいが、東北のやり方にあるのだろうか。ところがその稲わらの掃除が不十分という事で梅の里ではやれなくなった。何しろ庭の芝生に藁が落ちていたというので怒られたのだ。責任者だった中原さんの所では子供が生まれる直前の奥さんが電話で呼び出され、怒られるという事件になてしまった。当時の梅の里センターの管理者の考えた方には驚くべきものがある。この事件では農政課に正式に抗議をして、謝罪と撤回をさせた。しかし、この事件でみのり館は使いづらくなってしまった。

みのり館から、小宮さんのおじさんの所に移り、3回目から旭ブルーベリー園にさらに移った。20キロぐらいの大釜をあちこちから8つほど集めて並べてやっていた。盛大なものだった。3,4年この方式でやったのだが、これでは効率が悪いというので、120キロ入る大釜を購入した。この時期が一番試行錯誤しながら盛り上がった時期ではなかったかと思う。参加者が多くなり過ぎたということもあり、味噌作りはいくつかに分かれてやるようになっていった。生産者の人たちは自分でやる方が楽という事に成り、農の会の味噌づくりから徐々に距離をとるようになった。 そして、大豆の会には2つの大きなことが起きた。一つは長年中心にやっていた、中原さんが奈良に移住することになった。全てを要領よく一人で担ってくれていたので、居なくなってから、戸惑う事が多かった。特に個人的な関係で参加者に連絡していたので、連絡先のすべては教えられないという事になった。参加メンバーで一度途絶えた人も多かった。中原さんが去った後を引き継いでくれたのは藤崎さんである。 もう一つは原子力事故の影響である。小田原でも大豆の放射能汚染の不安から活動から離れる人が増えた。藤崎さんは茅ケ崎に住んでいたのだが、大豆の会が原子力事故で一番苦しくなった時期、何とか持ちこたえてくれた恩人である。今でも大豆の会を支えてくれている。

 その頃やっていた西大友の大豆畑を止めて、大豆畑を機械小屋の前に移動することになった。トラックターの移動に困ったことが理由である。トラックターを運搬できるトラックがない。作業が煩雑になった。そこで、機械小屋の前ならば、面倒がないという事で機械小屋の前の畑に大豆畑が移動した。大豆畑の作業はだいぶ楽になった。味噌づくりも、小宮さんの所から、機械小屋でやるようになった。やはり大釜の移動がだんだん負担になったことが理由である。 舟原の旧機械小屋の前に大豆畑を移動してからは、今度は大豆栽培で苦労することになった。永塚でやっていたころは、田んぼの中で、高いベットを毎年作り直して作っていた。ベットの間には水があるような大豆畑だった。ここでの栽培はとても優秀で、反収で言えば200キロ越えで今の倍は取れていたと思う。ただし、ハトが良く来る畑で、種から作るという事は全くできなかった。 苗を作り植え付ける方式だった。この頃稲葉さんの断根挿し木方式を試みていた。これは、久野の機械小屋の前に移動してからも続けていたが、成果なく終わった。そして機械小屋前の畑は地主さんが亡くなられて、返すことになった。そして、欠ノ上の畑に移動することになる。そのあたりからのことは、最近のことなので、皆さんご存知かと思うので、これで終わりにする。

 

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麦畑の様子

2019-01-10 04:07:36 | 自給

今年は久野の「農の会」の畑では麦があちこちで播かれた。小麦、大麦、ライ麦、えん麦と様々な麦が作られている。耕作としての所もあり、緑肥の所もある。小田原に戻り、早速麦踏をしながら、観察をした。やはり農業でおもしろいのは観察である。それぞれの麦の性格もわかる。同じ麦を播いたところでは成長の違いで、畑の中の場所による土壌の違いも想像できる。わずかな距離の違いで、自然環境がこれほども違うのかという事もわかる。有機農法で耕作するという事は、この違いを見極めて耕作するという事になる。毎年違う場所で耕作するためにそういう事が必要になった。必要は生みの親で、畑を観察する面白さが深まったと思う。以前麦を作られていたMOAの方の畑で、畑の隅の小さな小屋の影が麦畑の上にはっきりと出ていたことがあった。その小屋がその場所に何十年もあったという事が、土壌にまで出ているという事に驚いた。こういうことは自然に従う農業にだけ見られる興味である。

麦踏がどのくらい歩くものかフィトビットで計測した。ほぼ半日の作業で1万歩だった。健康麦づくりである。別段麦踏が麦の生育に有効と考えているわけではない。無駄だと思っているのだが、麦踏ほど気分の良い作業は少ないのでやる。午前中だけで2反ぐらいの畑の麦踏をやったことになる。全部で5か所である。まず、総生寺裏の畑は小麦ハルユタカが5畝。ここは目分量の畝間30㎝程度で密に撒いてある。疲れて来て曲った結果が出ている。緑肥にしても良いという考えである。何故なら土壌がとても悪い畑だからだ。予測していた通り、発芽ムラがひどい。植える前に播いた肥料のムラが麦の生育に現れている。肥料分がすぐ現れるという事は、土壌が荒れている状態。慣行農法の畑だった時の化学肥料や除草剤の影響がまだ残っている。結果としての腐植不足。これでは大豆が出来なかった訳だ。ここの小麦は観察だけでもいいと考えて蒔いた。もし成育すれば収穫する。今の調子だと、収穫は出来るが収量は低そうだ。

そして、次は三国工業上の麦の会のメインの畑。ここは初めて借りた畑なので、心配をしていたのだが、土は悪くないようだ。発芽したものは十分な成長をしている。しかし、生育ムラはまだある。草が出ていたのを除草してくれてあった。有難い。2月に入ったならば、そばかすを撒いて土寄せをしたいと思う。土寄せをすると麦は分げつが増えて良くなる。平らなところに麦は播いてあるから、麦踏をして少し土壌がへこむ、そこに風邪土が寄せられる。そういう効果はあるかもしれない。小麦のハルユタカは良い生育だが、大麦の方は霜枯れている。結構暖かそうな畑なのに、大麦はずいぶんと寒さに弱い。欠ノ上田んぼ下の畑には、ライ麦が播かれている。ここはレンゲが出ていたので、レンゲをあまりいためない様にライ麦を播いた。上手く発芽している。南に山があり、冬の間は日照は全くない畑だ。畑の横に久野川が流れている。寒さが淀んでいる。土壌は昼間になっても霜柱が解けることがない。それでもライ麦が発芽しているので、少し驚いた。

舟原田んぼ下の畑では、山室さんの小麦が生育が良い。その他も、久野の中では一番成育が良くなっているようだ。標高は一番高い。三国上よりだいぶ寒いと思ったのだが、寒さの影響は感じない。やはり日当たりの良い畑は違う。麦の会よりだいぶ早く播いたそうだ。播種時期の違いが、冬では大きな影響になっている。春になってどう違ってくるのだろうか。追いつくのではないかと思っているがどうなるだろう。大麦も良い成長をしていた。少しうらやましくなった。しかし、大豆の収穫が12月まで遅れたのだから、麦の播種が遅れたのも止む得ないところだ。こちらのライ麦はそれほど条件が悪い訳ではないのに、欠ノ上田んぼ下の日陰の畑と大きな違いはない。その理由は、肥料不足かもしれない。肥料を十分入れてから播かないと、麦はダメだ。霜柱の立つような畑は麦踏効果が影響すると聞いたことがあるので、日陰の畑はは少し麦踏をしてみる必要があるかもしれない。諏訪の原圃場のえん麦は土壌表面にバラマキをしただけだが、それなりに出ている。タマネギの苗の植え付けの時期だったから、12月初めだった。と言ってもまだ分げつはしていない。播種量が多すぎるのだろうか。

 

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12月の自給作業

2018-12-01 04:03:16 | 自給

12月の自給作業を書こうとしているが、これで月々書いてきた最後の記事にするつもりだ。暖かい冬が続いている。自給作業自体がこの12月で終わりという事になる。終わりと言っても、今植えてある作物は収穫まで行うが、新しいことはもう始めないつもりだ。やはり野菜に関しては石垣から来てというのでは無理だろう。今植えられているものは、大豆がいよいよ収穫になる。小麦、大麦は播種したばかり。タマネギも苗を植え付け中。カブ。大根。ニンジン。長ネギ。里芋。これらを順次収穫している。植えたものは収穫して、有難くいただきお腹に収めて終わりになる。始めたことには必ず終わりがあるから当然のことだ。寂しいというほどのこともない。その時その時でやれることはやり尽くした感がある。残念ながら野菜に関しては途中退場という事だ。野菜というものがそれぞれに、生育が違う。突き詰めることが難しかった。雑草のこと。土のこと。肥料のこと。連作のこと。種取りのこと。どれもこれも難しかった。

自給生活は39歳で始めた。開墾から始めて30年やったことになる。上手く行かない、いまだ分からないことばかりである。達成できなかった計画ばかりである。鶏と田んぼについてはやり尽くした感が強い。野菜に関しては納得いかないままである。では絵はどうだろう。いまのところ野菜よりも、さらにやり尽くした感がない。もう絵の方は60年やったことになるのに。これは困ったことだ。絵は野菜よりもさらに難しい。あと30年あるつもりだ。何とか絵も鶏と田んぼまでのやり尽くした感に進みたいものだ。そう自給のことだった。トマトなどとても興味があったが、よくわからないまま終わりになった。納得できないままである。残念ながら、能力不足として受け入れるしかない。自給農業というのは、飢え死にしないで生きてきたという事で良いのかもしれない。大根がだめでもカブが良ければそれでよい。白菜がだめなら、他の葉物で間に合わす。どうもこの辺の考え方が私には向いて居なかったようだ。

今年、諏訪の原圃場でみんなの自給畑を、有機農業塾として始めた。根守さんのいままでの栽培を公開してもらったという事になるのだろう。根守さんの計画はなかなか緻密なものであった。簡単そうで当たり前に見えるが、計画性がある。根守さんは連作を嫌うようだ。草もあまりあまり好まないようだ。実践からそうしたやり方になったのだろうか。根守さん計画を渡部さんが一番立派に実践した。ともかく高畝である。土寄せ農業と名付けてもいいほどの高畝栽培法である。農業も個性が強いものは面白い。高いところは40㎝もある。草取りも省けると言って、土を寄せている。今回初めて私の栽培で良くなったものがある。分げつする長ネギである。明らかに良い出来である。何かやったのかと根守さんに言われて考えてみた。わすれていたのだが、タマネギの種まきの時に作った土ぼかしが余ったので、3メートルの間に10キロほど土寄せの時に使ったのだ。これが効果を上げた。渡部さん直伝の土寄せ農法である。肥料恐るべし。

諏訪の原圃場では初めての畑で、ホウレンソウが出来た。野菜は結局のところ土が良ければできる。最後になって初めての経験である。みんなのホウレンソウはほとんど消えた。ところが私のホウレンソウだけ立派なものになった。あまりに立派なので(初めてのことなので)、まだ眺めて食べないでいる。寒くなってから食べようと思っている。ホウレンソウが出来た理由は叢生栽培である。草だらけ以外他に何もしていない。あれこれ叢生栽培で失敗してきたが、今回初めて、カブ、大根、ホウレンソウと成功した。不思議なことだ。こういう思いもよらない事ばかり現れるから、野菜作りは達成できなかった。ニンジンは草取りを徹底した。よくできている。野菜は様々だという事が今になって身に染みる。ヤイチ芋も作った。これは葉っぱの出来でを見ると悪そうだ。肥料不足なのではないかと見える。しかし、味は良いのではないかと期待している。まだ葉に緑が残っているので、食べないでいる。楽しみに正月食べるつもりだ。正月と言えば、田んぼのクワイが収穫が16日になる。 

 

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小麦大麦の播種

2018-11-24 04:10:58 | 自給


昨日小麦と大麦を蒔いた。例年11月11日に播くことにしていた。今年は23日になってしまったので少し、遅くなった。小麦が3畝、大麦が1畝だけである。今年の作物の様子を見ていると、冬が遅れているので、少し遅れたぐらいがちょうどよいのかもしれない。例年11月11日に雪の便りが、今年はちょうど今頃である。大豆は7月7日の七夕と決めていた。別に理由はないのだが、覚えやすいのでいつの間にかそう考えるようになっていた。3月3日のひな祭りは農作業開始日。などと自分なりに決めていた。根拠はないが、なんとなく奇数の日が重なるので、面白いと思いそう覚えていた。小麦を作るのも今年が最後になるのかもしれない。冬の間、小田原に長くは居ないような気がする。やはり冬の過ごしやすい、石垣に行きたくなるのではないだろうか。昨日タマネギ畑の準備もした。という事はタマネギの苗作りは最後に失敗で終わりという事か。若干情けないものがあるが、充分という事はなかなかないものだ。


麦の播種は久野の三国工業の上に借りた、新しい畑である。例年は大豆の後に小麦は播いていた。ところが今年はまだ、大豆が収穫前である。こんなに大豆が遅れた年は経験がない。20年は作ったが、12月に入っての大豆の収穫は経験がない。大豆の後はジャガイモを作りたいという話もあり、予定していた小麦の播種の場所が大豆の収穫が終わっていたとしても、でき無くなっていた。それではと、舟原田んぼの下で、岩本さんがトマトを作っていたところでやるという事になった。その予定でいたら、今度はそこは薬草を作るという事になった。いよいよ、小麦はもうやらないのかと思っていた。種を残すだけでもやった方がいいのに、と思っていたら、欠ノ上田んぼの地主さんにお礼のお米を持って行ったらば、空いている畑があるのでやらないかという話があった。その場所が三国工業の上の畑である。緩やかな傾斜で2反という事だったが、結局4畝という事になった。前からやっていた方がいて、まだやりたいという事らしい。それはそれでいいので、ともかく1年間4畝だけ先ずはお借りするという事になった。

すぐに、ソバカスを20袋入れてトラックターで耕した。2日だけだが間を空けて、小麦と大麦を播種した。麦の会は5名の参加希望者が居るが、種まきは4名の参加だった。朝8時から1時間ほどで播くことができた。ゴンベイ播種器で播くので始めればすぐ終わってしまう。本当はそばかすを撒いてもう少し日を空けたかったが、すでに遅れているので、急いで播くことにした。冬の間なので、生ソバカスでも肥料当たりすることはないという事にした。70㎝の畝間を空けた。畝間を耕運機で間を耕して、草取りと土寄せをする。少しは楽。4畝ぐらいなら、手でやってもさほど違わないが。様子次第だ。麦は追肥が重要。2度は追肥をしたい。追肥もソバカスがいい。燻炭が沢山あるので燻炭を撒けば霜抑えになるかもしれない。草取りは大体初めての畑では問題がない。続けていると、ネズミ麦やカラス麦が出てくる。

麦を終えてから、タマネギの準備に出かけた。場所は諏訪の原圃場。こちらはすでに渡部さんがトラックターで耕し始めていてくれていた。こちらには17人参加なので、区割りを17名分作り、あみだくじで場所決めをした。私は8番だった。ベットは1メートル幅で長さが11m。かなり去年より広い。両側に60㎝の通路がある。通路になる予定の場所を掘ってベツトを盛り上げる。ベットが高くなっていると、草取りが楽だからだ。去年は黒マルチを使う場所と、使わない場所とを比較をした。しかし、結局のところ黒マルチをしたからと言ってよくできたわけではなかった。草取りが少し楽という事もあったが、相当に厳重にしたのだが、風に吹き飛ばされ、面倒くさいことになった。張るのも面倒だし、ごみも出す。自給タマネギには黒マルチはいらないというのがける論だ。しかし、冬の間はトンネルをやろうと考えている。久野の畑は寒すぎてタマネギにはきついようだからだ。

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