

自然農法はどこまでも科学的でなければならない。自然農法を長年されている方と一緒にタマネギを作ろうという話し合いをもったことがある。そしてお互いの農法の様子を学び合おうと話し合った。話の最初はぜひやろうということだったのだが、最後の段階でできないということになった。
自然農法は5年間は準備がいるので、すぐに結果が出ないということだった。それなら5年かけてやってみようじゃないかと話したが、やることにはならなかった。目の前で同じ条件で見せてもらえば、良く分かる。
結果と原因は必ず科学的な論理で繋がっていなければならないのが科学だ。なぜか自然農法は怪しい世界が入り込みやすい。自然農法はいいのだが、似非科学を排除することが、東洋4000年の循環農業への道だと考えている。
農業は自然の摂理に従い行われるものだから、自然崇拝を生みやすい世界になる。農業は当然ながら科学的なものだから、妙に飛躍した考えたは出来る限り排除した方が良い。それには実証以外にない。微生物が放射能を取り除くとか、植物が原子転換を行ているというのも、似非科学である。科学はそういう人間の蒙昧を克服してゆく為にあるのだと思う。迷信を並べてみる。
「月の満ち欠けで、農業をうんぬんする件。」 シュタイナー農法というのがそうらしい。良くは知らないが牛の角や血液などの波動云々等、非科学的ななものが持ち出される。月がこうだったからという話は半分は当たる。外れた半分に対して目をつむるのが似非科学である。太陽の絶対的な影響に比べれば、月の影響など微々たるものだ。農業では月をうんぬんするくらいなら、太陽の力を科学的に考えるべきだ。太陽の黒点一つでも、気候に大きな影響がある。農業を行うものが真剣に対峙すべき自然は太陽だ。月もいいけど太陽もね。
『雑草を抜いてはならない。 」雑草の中でタマネギやニンジンを作ってみろと言いたい。それが出来てから話を聞きたい。雑草があることでよく成育する植物もあれば、雑草を嫌う植物もある。自然を観察すれば当たり前すぎることだ。農業は実践である。雑草の驚異的な繁殖力を観察すべきだ。
雑草は今や、国境がない。ありとあらゆる性格の雑草が現れる。手に負えない帰化雑草が忽ち畑を覆いつくすこともある。代々の農家が徹底して悪い草を排除したところなら、出来たのかもしれないが。今の時代無除草は、極めて困難だ。
『農薬を使う田んぼには鳥が寄り付かない。」 観察に偏見を持たなければ、そんなことはない事がすぐわかる。鳥は餌の多いい田んぼに来る。農薬を使うとエサの昆虫が減るのだろう。
農薬を感知するわけではない。最初にえさ場にした田んぼに来る。夜寝るときは安全な場所に寝る。トキやコウノトリが居なくなったのは、農薬を使ったことや水路がコンクリート化され、餌が亡くなったことが大きいだろう。
農薬に汚染された餌を食べ、繁殖率が下がった。数が減少しさらに繁殖能力が減った。見ていれば雀が嫌がる田んぼなどない。餌は意外に農薬を使っていてもオタマジャクシなど大量にいたりする。農薬の使い方や、種類にもよるのかもしれない。せめてどういう農薬を使うと鳥が来なくなるかまで観察してほしい。
「耕さない堅い土ほど植物の根は深く入る。 」不耕起栽培の信仰である。普通はそういう事は起きない。田んぼの耕盤の硬い土を突き抜く植物もあるが、根を張れない植物の方がはるかに多いい。
団粒化している空隙のある土の方が根は広がる。不耕起栽培でいい植物ばかりなら誰が耕すものか。東洋4000年の永続農業は、ひたすら耕し続けたのだ。それは寿命を短くするほど厳しいものであった。
ここでの耕作はあくまで手でやる範囲である。機械での土の耕し過ぎは腐植を減らしてしまうという事はある。土壌を作物に応じて耕す事が悪いことのはずがない。
「自然農法の作物は安全でおいしい。 」自分で作ったものが美味しいのが普通だ。味というものは主観的なものだ。自分で作れば大抵のものはおいしく感じる。作る苦労も食べているからだ。喜んで食べることが美味しいことになる。人間の原点は、作る喜びと味覚が結びついている。
同時に、枯れかかった植物、病気でやられた植物、虫にいためられた植物、こうした瀕死の植物に実った作物が美味しい訳がない。まずは健全な作物であることが大前提である。自然農法にはおいしい作物が多くあると言う位だろう。
「糖質は中毒になるほど、身体に悪いものだ。」だいたいの食養生を唱える人が砂糖の批判をする。砂糖には迷惑な話だ。砂糖が中毒になるほどおいしいという事はある。しかし、成分的にお酒やたばこのように中毒になる要素はない。
ただただおいしいから取り過ぎるという事に過ぎない。どんなものでも取り過ぎは体に悪い。節制ができるのであれば、砂糖も良いものである。これは農業神話ではないが、沖縄でのサトウキビ農業は最後の砦なのだ。沖縄の砂糖を大切にしよう。
「〇〇菌が農業を救う。 」〇〇の中に入れる言葉をあれかと思う人も多いだろう。癌が治るとか、自動車の燃費が良くなるとまで言っている、あれである。最近下火になってきたのは良いことだ。
微生物は農業を救うというのであれば可能性はあると思う。しかし、微生物を購入しなければできないような奇妙な形の農業にはかかわらないことだ。農業はその土地にあるものを生かすことが基本だ。微生物はどこにでも無限というほど存在する。それを生かす技術を見つけるのが農業技術である。
「奇跡の水の農業利用 」水の波動が農作物に作用するなどと言われる。水の磁場を変えるなどと訳の分からないことも言われる。いずれにしても農業利用には無駄なことだ。機械的に水の性質を変えるなど、自然を生かす農業とは程遠いいものだ。自然界の良い水を使う事が大切なのだ。
まだまだ農業迷信はあると思う。どんな農法も同じ土地で、1反以上の畑で、5年以上継続して行ってから、結果を見なければならない。何しろ4000年循環できるかどうかなのだ。
こうした迷信に迷うという事は、不可思議を信じたいという心の弱さからも来るのだろう。農業を行うという事は、自然の摂理を知り、迷信から抜け出る科学的視野を持つという事でもある。その為に自然と接し、作物を栽培してるようなものだ。極力実証的精神に立ち、科学的な思考をしなければいけない。












久しぶりに「おホウトウ」を作った。山梨県生まれなので、子供のころからホウトウを食べている。ほぼ毎日食べていたと思う。「ホウトウ」ではなく「おホウトウ」であった。ホウトウは打ち込みうどんのことだ。生の面を汁に入れて煮込む。今山梨の飲食店で出されている現代のホウトウはみそ味である。しかし、60年前の境川村は醤油味であった。といってもよその家のホウトウを食べる機会はなかったので、話だけである。甲州でも地域によって味噌味と醤油味があると大人が話していた記憶がある。ホウトウの為に、甲州赤小麦という麦を栽培していたのだと思う。あの麦秋という色である。今の小麦はあんなに大きく赤く見事な色にはならない。それも、子供のころの記憶だから、大きく赤いだけなのかもしれない。そもそも、甲州赤小麦という名前だって、赤かったのであれがそうであろうと思うようになっただけのあやふやなものだ。ただ麦の背丈が随分と高かった。背の高いのは屋根をふくためだ。しかし、これも子供のころの記憶で何でも大きく思い出すのかもしれない。
―――おホウトウ作り方
朝ごはんが終わると、片付けものをしながら小麦粉を練っておく。小麦粉一合が一食分。おばあさんは人数分お椀ですくっていた。ぬるま湯が50㏄弱くらい。塩わずか。今回の小麦粉はパン小麦のハルユタカ。うどん用の小麦がいいのだが、パン小麦でもできないことはない。まず、こねバチに小麦粉の富士山を作る。中央に噴火口を作り、ぬるま湯を灌ぐ。そのまま、水が浸透するのをしばらく待つ。周りから中央に粉をかけながら、練ってゆく。練は強く、30分ぐらいは練り続ける。今は厚めのビニール袋に入れて、足で踏む。踏む数は1000回。一塊になりにくいぐらいがちょうどよい水加減。少なくても練っているうちに粘りが出てくる。水が少ないと腰が出る。塊は濡れ布巾をかけて夕方まで置いておく。ビニール袋でもよい。時間を置くとしっとり、ねっとりなっている。それを再度こねる。これもビニール袋の中でこねると楽である。そして一塊にして、今度は足で押し広げながら、四角にして行く。厚さ7,8ミリほどの座布の形に広げる。形がおかしくなったら、まとめてまた挑戦すればいい。座布団になったら、裏表に小麦粉をまぶす。そして麺棒に巻きつけて、薄く伸ばしてゆく。時々小麦粉をまぶしてゆく。1ミリぐらいの厚さで完成。薄ければ薄いほど良い。
薄くのばされた麺は良く小麦粉をまぶして、折りたたむ。このとき4角に延ばしてあれば、切りやすい訳だ。切るのはできるだけ細く切る。少し切ったら、また小麦粉をまぶしながら、麺を広げて切り口がくっつかないようにしておく。切り終わったときには汁の方が完成していないとならない。広げながら麺をお汁の中に入れてしまうからだ。小麦粉を多くまぶせながらの作業は楽になるが、ホウトウの汁がドロドロになる。私はどろどろのホウトウが好きだから、小麦粉を多くまぶす。しかし、上手は打ち粉の使い方が少ないといわれていた。くっつかない範囲で小麦粉は少なめに。
汁はカボチャのホウトウが代表的だ。カボチャを10分は煮てとろけるところが良い。インゲン、ニンジン、タマネギ、長ネギ、キノコの類、鶏肉、豚肉。あるいは貝類。何でもよいのだが、色々入れた方が、よい味になる。だしは煮干しが合う。丁寧にやるなら昆布もいい。全体にお汁はそもままでも食べれるところまで煮込んでおく。ここに面をほぐしながら落としてゆく。面が水分を吸うので、お汁は大目に作らなければならない。煮すぎると麺が柔らかくなるので、3,4分で固めのうちに終わる。食べている間にも麺は汁をすってゆく。どんぶりによそってから、生卵を入れる。生卵を入れると汁の味が絶妙になる。長ネギのみじん切りを多めに乗せる。そして七色唐辛子をかけて完成。
アアうまかった。
食事を作るのは好きだ。久しぶりに孤食を続けている。一人分を作るというのはなかなか難しいものだと改めて感じた。高校の頃は孤食であった。この頃は東京の松陰神社というところに住んでいたのだが、一人で食事を作り食べていた。家は3家族同居の9人で住んでいたのに孤食という変な同居家族だった。それぞれが違う事をやっていて忙しかった。家族が4つほどの商売をやっていて、夜は麻雀屋をやっていた。同居していた青木さん家族は当時中華の惣菜店をしていた。朝から晩まで中華総菜を作っていたのだから、それを食べさせてもらえばよかったのだろうが、そういう事は新しい料理の試食の時ぐらいだった。調理場やお店は三軒茶屋だったので、ついでという事がなかったのだろう。たまには9人で食べた記憶もあるが、覚えているくらい稀なことだったと思う。一人の食事がほとんどだった。
今はあの頃の半分も食べない。少量だから料理が難しい。6食分一度に作る。一度と言ってもバリエーションがあり、違う料理に変化してゆく連続料理である。朝、まず小さな保温寸胴鍋に、最近はやりの袋入りの鍋の汁を入れる。例えば、完熟トマト鍋スープ。などと書いてあるものだ。その日の好みで、伊勢エビだしスープ。とかカニスープ。とかいろいろ買って来てある。トマト味スープを鍋に入れる。そこに野菜ジュースを入れる。ホールトマト缶を入れる。緑色野菜ジュースという時もある。こにキャベツをぶつ切りにして放り込む。面倒なと思いながら、タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、オリーブオイルニンニク、あるいは醤油ニンニク、大きめのまま、入れる。弱火で煮込む。これはタイマーで12分。電気コンロのタイマー機能は便利だ。大抵の場合はこの間にコーヒーを入れている。仕掛けておいて、またこういう風にブログを書き始めることもある。そこに、冷凍エビ、ホタテ、など魚介類を要れる。そして、またタイマーで12分かける。熱い内に保温ジャーの中に入れておく。
ご飯は1.5合の糯米玄米に天津栗を加える。ここに焼き豚、キノコ等も入れる。圧力電気釜で炊く。場合によっては竹の子、アサリ、とかを中心にする。冷凍ものか、缶づめで食べれるものが売っていればであるが。もちろん玄米のままのこともあるが、大抵は味付きご飯にしておく。そうしておけば弁当のおにぎりも簡単だからだ。場合によってはこれをチャーハンに変化させて食べることもある。玉ねぎか長ネギをオリーブオイルで炒める。味付けご飯と卵を入れて、炒めれば出来上がる。チャーハンには必ず、スープを付ける。連続料理のスープを取り出し、コショウとゴマ油と生わかめを入れる。すべて同時進行でやるから、慌ただしいようだが、手順が慣れているので、ブログを書く合間にことは進んでいる。そして、お腹が相当に減ったなという段階に成ったら食べる。
次は昼食事に、連続料理鍋を温めて、最後にカキを加えてカキなべで食べる。そして夜は坊さんなので薬席で食事ではないことにしている。鍋に、ブロッコリーとか、長ネギとかを大量に加えて、酒を飲みにながら少量食べる。ご飯は食べないで酒。翌朝はさらに鍋の汁だけを移して、ガンモドキ、あるいはさつま揚げ、厚揚げ、のような豆腐系。そして割り卵を入れて、冷凍うどんを加えて温める。場合によっては朝食は、残ったものにカレー粉を加えて、カレーにする。カレー粉はあれこれあるのだが、これを加えるとおいしくなると、レストラン葡萄舎の方がくれた。粉は加える。これで、糯米玄米栗ご飯にかけたカレーという事になる。
2日目の昼食は具材の残り次第でこれをパエリアにすることもある。つまり、ごはんが無くなっていればである。よく洗ったコメを生のまま、オリーブオイルでいためる。この時に焦げるので、丁寧にかき回しながらいためる。硬いままであるが香ばしく焦げたような感じになったら、鍋に入れる。とろ火で上手く煮込む。そして最後の2日目の夜は、残ったカレー鍋かパエリアで酒を飲む。こうして2日分の流れを繰り返す。このやり方が良いのは食材に無駄が出ないという事だ。前はこれが2人分のこともあったから、作りやすかったのだが、一人分は量の加減が難しい。やせ我慢かもしれないが、孤食の良いのは好きなものを勝手に食べれるというところである。この味は良いのだが、見た目の悪い料理は人様には提供しにくい。このほか、おでんロールキャベツ連続バージョンとか、丸ごとキャベツバージョン。豚肉ゆでながらバージョン。骨付き鶏肉の丸ごと白菜鍋バージョン。いろいろキノコ鍋バージョン。様々な連続バージョンを作った。どれもこれもほぼ2日連続料理だった。計算してみると一回の食材費が平均4000円ほどかかる。6食分と思えば、1食666円か。
麹造りの様子。まごのりさんの圃場で今年はやらせていただいている。素晴らしい雰囲気である。明るい林の中での味噌づくり。今日はこれから味噌の仕込みである。
味噌づくりの日には持ち寄り料理が行われる。出来れば味噌料理という言ことになっている。皆さんなかなかの工夫した料理を持ち寄ってくれるので、毎年感心する。私も新しい料理に挑戦する。今年は30年味噌づくりをして、過去一番の味噌になっているので、その味噌を生かしたいと思っている。3年味噌である。3年前に仕込んだ味噌が今丁度良い熟成になった。こんな時間のたった味噌は嫌いな人もいるのだが、静かに熟成を進めた味噌の味が好きだ。味噌もそれぞれの好みがあるから、どれがいいという事はないが、古味噌の味は子供のころから、酸っぱくなった味噌を食べていたせいだと思う。お寺では味噌は毎年仕込んであるのだが、やはり作り過ぎることがよくあったのだろう。いつも酸っぱくなっていた。酸っぱいからと言って捨てるようなことはないから、酸っぱい味噌がなんとなく向昌院の味噌の味という事だった気がする。おばあさんが味噌を仕込むようなことはとても好きで、新しい味噌を開けるときの嬉しそうだった様子を思い出す。
古めの発酵の進んだ味噌はどちらかと言えば煮込んで味が良くなる。火を入れ過ぎたら味噌の風味がなくなるなどと、調理人の人が言っているが、私には理解しがたい。即製の味噌を使っているのではないか。味噌もいろいろなのだ。売られている味噌の大半はそもそも私には味噌というようなものである。味噌とまでは言えない代物だと思っている。丸大豆味噌というような但し書きが味噌にあったりする。一体四角い大豆があるのかと言いたくなる。大豆の粉を味噌風味にしたようなものを味噌と呼んでいるのではないか。良い発酵をした味噌は煮込んでその風味を増すものだと思う。少なくとも私の家の味噌は煮込んで味が出る。味噌汁に出汁など不要である。味噌だけで十分のコクがある。などというのも手前味噌ならではの主張か。これはあくまで私の好みで、他の人には通用はしない。今年の味噌が美味しいのは、麹造りの成功にあると思っている。
20日に麹の仕込みを行い。27日が味噌の仕込みである。今年は麹を仕込んでから、千葉の方の有機の給食の見学に行った。少し手抜きになって、麹が今ひとつかもしれない。温度管理的にはうまく行ったのだが、手入れをしないで進んだ。温度が36度ぐらいまでで推移したので、ついつい手入れをしないで、手抜きをした。見た目それなりの出来だが、もう一つ発酵が深く進んでいないように見える。やはり温度が上がらなくとも手入れはした方が良いのだろうか。と言っても味噌づくりも今年を最後にしようと思っている。作った味噌を小田原に於いて置く訳だから、運ぶだけで大変なことだ。みんなでやる味噌づくりも楽しいから、まだやめるとまでの決意は出来ていないのだが。
酒粕味噌を作った。
酒粕を日本酒でクリーム状に延ばして、そこに味噌を加えたもの。日本酒とお湯でトロトロにする。そこに味噌を加えてゆく。酒粕の新鮮なものをたまたま頂いた。いすみ市の木戸泉酒造を見学に行った。この酒造会社は日本酒の古酒に力を入れている。日本酒は新酒のものだと思っていたのだが、目からうろこである。古い文献にも古酒の良さが書かれていると言われていた。古酒を作るにはその製造法で、お酒が参加されない手法が必要という事だった。55度の高温でお酒を仕込むのだそうだ。この高温での製造で保存料無しで、40年古酒が出来ていると言われていた。まったく驚きである。酒粕を頂いた。これを使った味噌料理と思い、酒粕味噌と作ってみた。焼きおにぎり、パンに塗ってトースト。
丸ごとみかん味噌
丸ごとみかんのマーマレードを作り、そこに味噌を加えたもの。丸ごとみかんは眼に良いので、何にでも使いたい。マーマレードづくりは普通でいいのだが、みかんの皮も含めて細かく刻む。それに火を入れてゆく。皮がとろけるまで煮詰める。砂糖は控えめで十分甘くなる。みかんだけだから、そのマーマレードで食べるには少し物足りない味かと思う。そこに味噌を加えて、あまじょっぱい舐め味噌を作る。これは案外にご飯に合う。
昨日は、近藤まごのりさんの諏訪の原圃場で麹作りが行われた。新しい場所で新しい味噌づくりが始まった。
農の会としての味噌づくりは、第一回は小田原の私の家でやったのだと思う。小田原に越してすぐだったので、2003年のことではないだろうか。中野さんという開成の方で、MOAの自然農法されていた方と一緒に宅配事業をしていた。その中野さんのやり方というのが、麹を塩漬けにして眠らせて、一年於いて置くというやり方だった。そのやり方が開成では普通だといわれていた。 まだ10人ほどで、20キロの釜でやったのだったと思う。大豆も購入したものだ。私の家で3回ほどやって、2006年ごろに、梅の里センターでやるようになった計算になる。その頃に農の会としての大豆栽培も開始をしたことになる。2008年には醤油を仕込んだ記録がある。2008年には小宮さんの所に味噌の貯蔵庫を作る計画を立てたが、これは紆余曲折があり実現が出来なかった。予定者名簿には以下の名前がある。大野、諏訪間、阿部武、安藤、石井智子、渋谷、兼藤、藤崎、瀬戸、小泉、中原、鈴木淳子、下川A、下川B、笹村、吉野馨子、河合、酒井まや、中村、佐々木、小野田、塩谷卓也、松本、三木、杉崎、この頃にはこういう人々が参加していたという事になる。 2009年の大豆栽培の参加者名簿には56名が記載されている。
梅の里センターのみのり館には大きなコンロがいくつもあり、味噌づくりには良い場所だった。そのころは麹造りには藁の編んだものが必要だという岩手から来た千田さんの方式が残っていた。ムシロ編みからやっていた。今思うと納豆ではないのだから、むしろで麹を仕込むという事の意味は理解しにくいが、東北のやり方にあるのだろうか。ところがその稲わらの掃除が不十分という事で梅の里ではやれなくなった。何しろ庭の芝生に藁が落ちていたというので怒られたのだ。責任者だった中原さんの所では子供が生まれる直前の奥さんが電話で呼び出され、怒られるという事件になてしまった。当時の梅の里センターの管理者の考えた方には驚くべきものがある。この事件では農政課に正式に抗議をして、謝罪と撤回をさせた。しかし、この事件でみのり館は使いづらくなってしまった。
みのり館から、小宮さんのおじさんの所に移り、3回目から旭ブルーベリー園にさらに移った。20キロぐらいの大釜をあちこちから8つほど集めて並べてやっていた。盛大なものだった。3,4年この方式でやったのだが、これでは効率が悪いというので、120キロ入る大釜を購入した。この時期が一番試行錯誤しながら盛り上がった時期ではなかったかと思う。参加者が多くなり過ぎたということもあり、味噌作りはいくつかに分かれてやるようになっていった。生産者の人たちは自分でやる方が楽という事に成り、農の会の味噌づくりから徐々に距離をとるようになった。 そして、大豆の会には2つの大きなことが起きた。一つは長年中心にやっていた、中原さんが奈良に移住することになった。全てを要領よく一人で担ってくれていたので、居なくなってから、戸惑う事が多かった。特に個人的な関係で参加者に連絡していたので、連絡先のすべては教えられないという事になった。参加メンバーで一度途絶えた人も多かった。中原さんが去った後を引き継いでくれたのは藤崎さんである。 もう一つは原子力事故の影響である。小田原でも大豆の放射能汚染の不安から活動から離れる人が増えた。藤崎さんは茅ケ崎に住んでいたのだが、大豆の会が原子力事故で一番苦しくなった時期、何とか持ちこたえてくれた恩人である。今でも大豆の会を支えてくれている。
その頃やっていた西大友の大豆畑を止めて、大豆畑を機械小屋の前に移動することになった。トラックターの移動に困ったことが理由である。トラックターを運搬できるトラックがない。作業が煩雑になった。そこで、機械小屋の前ならば、面倒がないという事で機械小屋の前の畑に大豆畑が移動した。大豆畑の作業はだいぶ楽になった。味噌づくりも、小宮さんの所から、機械小屋でやるようになった。やはり大釜の移動がだんだん負担になったことが理由である。 舟原の旧機械小屋の前に大豆畑を移動してからは、今度は大豆栽培で苦労することになった。永塚でやっていたころは、田んぼの中で、高いベットを毎年作り直して作っていた。ベットの間には水があるような大豆畑だった。ここでの栽培はとても優秀で、反収で言えば200キロ越えで今の倍は取れていたと思う。ただし、ハトが良く来る畑で、種から作るという事は全くできなかった。 苗を作り植え付ける方式だった。この頃稲葉さんの断根挿し木方式を試みていた。これは、久野の機械小屋の前に移動してからも続けていたが、成果なく終わった。そして機械小屋前の畑は地主さんが亡くなられて、返すことになった。そして、欠ノ上の畑に移動することになる。そのあたりからのことは、最近のことなので、皆さんご存知かと思うので、これで終わりにする。
今年は久野の「農の会」の畑では麦があちこちで播かれた。小麦、大麦、ライ麦、えん麦と様々な麦が作られている。耕作としての所もあり、緑肥の所もある。小田原に戻り、早速麦踏をしながら、観察をした。やはり農業でおもしろいのは観察である。それぞれの麦の性格もわかる。同じ麦を播いたところでは成長の違いで、畑の中の場所による土壌の違いも想像できる。わずかな距離の違いで、自然環境がこれほども違うのかという事もわかる。有機農法で耕作するという事は、この違いを見極めて耕作するという事になる。毎年違う場所で耕作するためにそういう事が必要になった。必要は生みの親で、畑を観察する面白さが深まったと思う。以前麦を作られていたMOAの方の畑で、畑の隅の小さな小屋の影が麦畑の上にはっきりと出ていたことがあった。その小屋がその場所に何十年もあったという事が、土壌にまで出ているという事に驚いた。こういうことは自然に従う農業にだけ見られる興味である。
麦踏がどのくらい歩くものかフィトビットで計測した。ほぼ半日の作業で1万歩だった。健康麦づくりである。別段麦踏が麦の生育に有効と考えているわけではない。無駄だと思っているのだが、麦踏ほど気分の良い作業は少ないのでやる。午前中だけで2反ぐらいの畑の麦踏をやったことになる。全部で5か所である。まず、総生寺裏の畑は小麦ハルユタカが5畝。ここは目分量の畝間30㎝程度で密に撒いてある。疲れて来て曲った結果が出ている。緑肥にしても良いという考えである。何故なら土壌がとても悪い畑だからだ。予測していた通り、発芽ムラがひどい。植える前に播いた肥料のムラが麦の生育に現れている。肥料分がすぐ現れるという事は、土壌が荒れている状態。慣行農法の畑だった時の化学肥料や除草剤の影響がまだ残っている。結果としての腐植不足。これでは大豆が出来なかった訳だ。ここの小麦は観察だけでもいいと考えて蒔いた。もし成育すれば収穫する。今の調子だと、収穫は出来るが収量は低そうだ。
そして、次は三国工業上の麦の会のメインの畑。ここは初めて借りた畑なので、心配をしていたのだが、土は悪くないようだ。発芽したものは十分な成長をしている。しかし、生育ムラはまだある。草が出ていたのを除草してくれてあった。有難い。2月に入ったならば、そばかすを撒いて土寄せをしたいと思う。土寄せをすると麦は分げつが増えて良くなる。平らなところに麦は播いてあるから、麦踏をして少し土壌がへこむ、そこに風邪土が寄せられる。そういう効果はあるかもしれない。小麦のハルユタカは良い生育だが、大麦の方は霜枯れている。結構暖かそうな畑なのに、大麦はずいぶんと寒さに弱い。欠ノ上田んぼ下の畑には、ライ麦が播かれている。ここはレンゲが出ていたので、レンゲをあまりいためない様にライ麦を播いた。上手く発芽している。南に山があり、冬の間は日照は全くない畑だ。畑の横に久野川が流れている。寒さが淀んでいる。土壌は昼間になっても霜柱が解けることがない。それでもライ麦が発芽しているので、少し驚いた。
舟原田んぼ下の畑では、山室さんの小麦が生育が良い。その他も、久野の中では一番成育が良くなっているようだ。標高は一番高い。三国上よりだいぶ寒いと思ったのだが、寒さの影響は感じない。やはり日当たりの良い畑は違う。麦の会よりだいぶ早く播いたそうだ。播種時期の違いが、冬では大きな影響になっている。春になってどう違ってくるのだろうか。追いつくのではないかと思っているがどうなるだろう。大麦も良い成長をしていた。少しうらやましくなった。しかし、大豆の収穫が12月まで遅れたのだから、麦の播種が遅れたのも止む得ないところだ。こちらのライ麦はそれほど条件が悪い訳ではないのに、欠ノ上田んぼ下の日陰の畑と大きな違いはない。その理由は、肥料不足かもしれない。肥料を十分入れてから播かないと、麦はダメだ。霜柱の立つような畑は麦踏効果が影響すると聞いたことがあるので、日陰の畑はは少し麦踏をしてみる必要があるかもしれない。諏訪の原圃場のえん麦は土壌表面にバラマキをしただけだが、それなりに出ている。タマネギの苗の植え付けの時期だったから、12月初めだった。と言ってもまだ分げつはしていない。播種量が多すぎるのだろうか。
12月の自給作業を書こうとしているが、これで月々書いてきた最後の記事にするつもりだ。暖かい冬が続いている。自給作業自体がこの12月で終わりという事になる。終わりと言っても、今植えてある作物は収穫まで行うが、新しいことはもう始めないつもりだ。やはり野菜に関しては石垣から来てというのでは無理だろう。今植えられているものは、大豆がいよいよ収穫になる。小麦、大麦は播種したばかり。タマネギも苗を植え付け中。カブ。大根。ニンジン。長ネギ。里芋。これらを順次収穫している。植えたものは収穫して、有難くいただきお腹に収めて終わりになる。始めたことには必ず終わりがあるから当然のことだ。寂しいというほどのこともない。その時その時でやれることはやり尽くした感がある。残念ながら野菜に関しては途中退場という事だ。野菜というものがそれぞれに、生育が違う。突き詰めることが難しかった。雑草のこと。土のこと。肥料のこと。連作のこと。種取りのこと。どれもこれも難しかった。
自給生活は39歳で始めた。開墾から始めて30年やったことになる。上手く行かない、いまだ分からないことばかりである。達成できなかった計画ばかりである。鶏と田んぼについてはやり尽くした感が強い。野菜に関しては納得いかないままである。では絵はどうだろう。いまのところ野菜よりも、さらにやり尽くした感がない。もう絵の方は60年やったことになるのに。これは困ったことだ。絵は野菜よりもさらに難しい。あと30年あるつもりだ。何とか絵も鶏と田んぼまでのやり尽くした感に進みたいものだ。そう自給のことだった。トマトなどとても興味があったが、よくわからないまま終わりになった。納得できないままである。残念ながら、能力不足として受け入れるしかない。自給農業というのは、飢え死にしないで生きてきたという事で良いのかもしれない。大根がだめでもカブが良ければそれでよい。白菜がだめなら、他の葉物で間に合わす。どうもこの辺の考え方が私には向いて居なかったようだ。
今年、諏訪の原圃場でみんなの自給畑を、有機農業塾として始めた。根守さんのいままでの栽培を公開してもらったという事になるのだろう。根守さんの計画はなかなか緻密なものであった。簡単そうで当たり前に見えるが、計画性がある。根守さんは連作を嫌うようだ。草もあまりあまり好まないようだ。実践からそうしたやり方になったのだろうか。根守さん計画を渡部さんが一番立派に実践した。ともかく高畝である。土寄せ農業と名付けてもいいほどの高畝栽培法である。農業も個性が強いものは面白い。高いところは40㎝もある。草取りも省けると言って、土を寄せている。今回初めて私の栽培で良くなったものがある。分げつする長ネギである。明らかに良い出来である。何かやったのかと根守さんに言われて考えてみた。わすれていたのだが、タマネギの種まきの時に作った土ぼかしが余ったので、3メートルの間に10キロほど土寄せの時に使ったのだ。これが効果を上げた。渡部さん直伝の土寄せ農法である。肥料恐るべし。
諏訪の原圃場では初めての畑で、ホウレンソウが出来た。野菜は結局のところ土が良ければできる。最後になって初めての経験である。みんなのホウレンソウはほとんど消えた。ところが私のホウレンソウだけ立派なものになった。あまりに立派なので(初めてのことなので)、まだ眺めて食べないでいる。寒くなってから食べようと思っている。ホウレンソウが出来た理由は叢生栽培である。草だらけ以外他に何もしていない。あれこれ叢生栽培で失敗してきたが、今回初めて、カブ、大根、ホウレンソウと成功した。不思議なことだ。こういう思いもよらない事ばかり現れるから、野菜作りは達成できなかった。ニンジンは草取りを徹底した。よくできている。野菜は様々だという事が今になって身に染みる。ヤイチ芋も作った。これは葉っぱの出来でを見ると悪そうだ。肥料不足なのではないかと見える。しかし、味は良いのではないかと期待している。まだ葉に緑が残っているので、食べないでいる。楽しみに正月食べるつもりだ。正月と言えば、田んぼのクワイが収穫が16日になる。

昨日小麦と大麦を蒔いた。例年11月11日に播くことにしていた。今年は23日になってしまったので少し、遅くなった。小麦が3畝、大麦が1畝だけである。今年の作物の様子を見ていると、冬が遅れているので、少し遅れたぐらいがちょうどよいのかもしれない。例年11月11日に雪の便りが、今年はちょうど今頃である。大豆は7月7日の七夕と決めていた。別に理由はないのだが、覚えやすいのでいつの間にかそう考えるようになっていた。3月3日のひな祭りは農作業開始日。などと自分なりに決めていた。根拠はないが、なんとなく奇数の日が重なるので、面白いと思いそう覚えていた。小麦を作るのも今年が最後になるのかもしれない。冬の間、小田原に長くは居ないような気がする。やはり冬の過ごしやすい、石垣に行きたくなるのではないだろうか。昨日タマネギ畑の準備もした。という事はタマネギの苗作りは最後に失敗で終わりという事か。若干情けないものがあるが、充分という事はなかなかないものだ。
麦の播種は久野の三国工業の上に借りた、新しい畑である。例年は大豆の後に小麦は播いていた。ところが今年はまだ、大豆が収穫前である。こんなに大豆が遅れた年は経験がない。20年は作ったが、12月に入っての大豆の収穫は経験がない。大豆の後はジャガイモを作りたいという話もあり、予定していた小麦の播種の場所が大豆の収穫が終わっていたとしても、でき無くなっていた。それではと、舟原田んぼの下で、岩本さんがトマトを作っていたところでやるという事になった。その予定でいたら、今度はそこは薬草を作るという事になった。いよいよ、小麦はもうやらないのかと思っていた。種を残すだけでもやった方がいいのに、と思っていたら、欠ノ上田んぼの地主さんにお礼のお米を持って行ったらば、空いている畑があるのでやらないかという話があった。その場所が三国工業の上の畑である。緩やかな傾斜で2反という事だったが、結局4畝という事になった。前からやっていた方がいて、まだやりたいという事らしい。それはそれでいいので、ともかく1年間4畝だけ先ずはお借りするという事になった。
すぐに、ソバカスを20袋入れてトラックターで耕した。2日だけだが間を空けて、小麦と大麦を播種した。麦の会は5名の参加希望者が居るが、種まきは4名の参加だった。朝8時から1時間ほどで播くことができた。ゴンベイ播種器で播くので始めればすぐ終わってしまう。本当はそばかすを撒いてもう少し日を空けたかったが、すでに遅れているので、急いで播くことにした。冬の間なので、生ソバカスでも肥料当たりすることはないという事にした。70㎝の畝間を空けた。畝間を耕運機で間を耕して、草取りと土寄せをする。少しは楽。4畝ぐらいなら、手でやってもさほど違わないが。様子次第だ。麦は追肥が重要。2度は追肥をしたい。追肥もソバカスがいい。燻炭が沢山あるので燻炭を撒けば霜抑えになるかもしれない。草取りは大体初めての畑では問題がない。続けていると、ネズミ麦やカラス麦が出てくる。
麦を終えてから、タマネギの準備に出かけた。場所は諏訪の原圃場。こちらはすでに渡部さんがトラックターで耕し始めていてくれていた。こちらには17人参加なので、区割りを17名分作り、あみだくじで場所決めをした。私は8番だった。ベットは1メートル幅で長さが11m。かなり去年より広い。両側に60㎝の通路がある。通路になる予定の場所を掘ってベツトを盛り上げる。ベットが高くなっていると、草取りが楽だからだ。去年は黒マルチを使う場所と、使わない場所とを比較をした。しかし、結局のところ黒マルチをしたからと言ってよくできたわけではなかった。草取りが少し楽という事もあったが、相当に厳重にしたのだが、風に吹き飛ばされ、面倒くさいことになった。張るのも面倒だし、ごみも出す。自給タマネギには黒マルチはいらないというのがける論だ。しかし、冬の間はトンネルをやろうと考えている。久野の畑は寒すぎてタマネギにはきついようだからだ。