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地場・旬・自給

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小田原の農作業10日間

2020-07-13 03:58:21 | 自給

 舟原ため池 上の段の池に水がたまらなくなっている。冬には直したい。

 7月3日(金)
 小田原に到着が夕方5時30分だった。飛行機は割合空いていてた。直行便が復活したので、3時間で着く。羽田からはコロナに気を付けて、乗ったこともないグリーン車両に乗った。車両には私しかいなかったので大丈夫だ。費用には代えられない。

 着いて息をつく間もなく、田んぼや畑をを一通り見てあるいた。見ているだけで気持ちが上がる。さあいよいよ農作業が出来るぞという気分だ。農作業はやはり好きなんだとつくづく思う。まだ、何とか普通に作業できそうなので良かった。

 日曜日に種を播く大豆畑をまず見た。綺麗に耕運してあり、一安心。これなら当日雨が上がれば何とか播種できそうだ。然し天気予報は悪い、しかし九州のすごい雨を思えば、この程度で大変などとは申し訳なくて言えない。九州の農家さんもつらいだろう。苦労されていることだろう。

 田んぼに回ると、どうだろうか少し不安な面もある。色が少し浅いように見えた。夕方だからだろうか。6日に観察会をやるのでその時じっくりと見たい。

 7月4日(土)
 この日は田んぼの草取り、4番田んぼをとにかく取り切る。ここはどういう訳か、草がはびこるようになった。十分転がしてあるのに、草が出てくる。特に手前側が草がひどい。

 それでも久しぶりの草取りも楽しい。昔より草取りの速度は落ちたが、楽しんで続けられるようになった。根気が出てきた。余り疲れないでやれる。現在

 7月5日(日)
 雨がすぐにでも降りそうな空模様。ともかく急いで播種してしまう事になる。いつもは子供や、初めての参加者にも播種器で播いてもらうのだが、今回は慣れたものでどんどん進めてしまうことにする。雨が降り出せば、たちまち播けなくなるからだ。

 全部で2反5畝ぐらいの大豆畑である。それが、2か所に分かれていて、一か所が1反5畝ぐらいで傾斜地で畑は4段に分かれている。8時前に蒔き始めて、人が増えてきた9時には1反は播種が終わった。

 すぐ、舟原圃場に移る。3人一組で播種器を操作する。舟原はそば殻からそばが芽吹いていて、播きづらいところがあった。それでも10時半には播き終わった。播き終わったころに、雨が降り出す。急いでやってよかったよかった。

 そのころ諏訪の原でネットを張り終わった人たちが来て、舟原圃場もキラキラテープを張り巡らせる。11時過ぎにはすべての作業が終わった。こんなに早い播種は初めてのことだ。雨のつもりで、充分準備がしてあったからうまく行ったのだろう。

 7月6日(月)
 田んぼ観察会だ。久野にある、欠ノ上、子の神、舟原の3か所の田んぼを見て歩く。どういうところを見るかと言えば、以下の点である。再掲

 1、株の背丈 ーーーサトジマンで60㎝が基準。葉の幅は12ミリ。 
 2、分げつの数 ーーー1本植で10本以上、20本あっても悪くない。 
 3、株の堅さ ーーー株全体が手に一杯になる量あり、弾力が強いほど良い。
 4、土壌の深さーーー 田んぼに入り歩きにくいほど深くない方がいい。深い場合は、間断灌水で土を固めてゆく。 
 5、葉色ーーー濃すぎないこと。黄ばんでいないこと。周囲の雑草と同じくらいなら心配ない。田んぼ全体に色ムラがない方がいい。この後どんどん色を増してゆくが、どす黒い色でなければ心配ない。色が濃すぎる場合は、穂肥を控える。
 6、トロトロ層の厚さーーー 土を触って表面のふわふわなところがトロトロ層。これは微生物が作り出している。これが厚い方が良い。トロトロ層より下の深い層の土を取り、匂いを嗅ぎ確認。腐敗臭がしなければいい。 
 7、入水口と水尻の違いーーーこの時期に入水口が遅れているのはそれほど心配はない。生育の違いでその年の水管理の状態の良し悪し、水温などがわかる。
 8、泥のわきの具合ーーー 歩いて泡の出具合と泡の匂いを確認。
 9、コナギの状態ーーー 草があればとる。この時期より遅れると、草取りが大変になる。
 10、虫や病気の有無ーーー ツトムシ、ずい虫、幽霊病、イモチ、たいていの場合はそのままでも収まることが多い。その年の様子を記憶して、どの程度に広がるかがで、対策の有無が判断できる。

 夕方から、市役所で中山間地南舟原集落の事業の打ち合わせ。今度の担当の方は女性の方で、とてもしっかりした方で良かった。5年が経過して、新しい事業に変わった。農の会の久野の活動が、全体の活動の中で連携が取れることを期待している。

 7月7日(火)
 田んぼの草取り、5,6,7番田んぼ草取り。ここは手作業の田んぼ。機械でやりたいという人が多いらしい。農の会の自給の意味を考えれば、どこかに手作業の田んぼがなくてはならないと思っている。機械を使わなくとも、田んぼは出来るという実際の姿を残すことは大切なことだ。

 コロガシが充分に入っていて、草はほとんどなかった。手作業の田んぼの状態は他より良い。アラオコシが大変だから、機械でやりたいという気持ちはわかるが。農の会の、地場・旬・自給の意味を身体で感じる場所も必要だと思う。

 アラオコシもしないで、水を入れるだけで、田植えをするという事も検討してみよう。

 7月8日(水)
 田んぼの草取り、10番たんぼ。15番田んぼ。15番田んぼは急遽田んぼに戻した。とても状態が良い。レンゲを寸前に漉き込んだので、草が出ないのだと思う。青草を寸前に漉き込む農法は確かにある。

 7月9日(木)
 何をやったか忘れてしまった。多分この日は寝ていたのだろう。

 7月10日(金)
 午後、田んぼの草取り、2番田んぼの半分まで、

 7月11日(土)
 午前中、舟原ため池草刈り。午後カキツバタの手入れ、株分け。ため池は年々良い環境になってきた。昔のような良い雰囲気が再現されるように努力したい。冬には松を植えたいと思っている。

 溜池は上の池から、下の池にまだ水漏れが続いている。これも冬には工事が必要になっている。上の池にもう少し水がたまらなければカキツバタにも良くない。

 カキツバタは10株を2年前に植えた。一度目に購入した株は全部枯れた。そして、2度目の株を植えてなんとか、昨年は根付いて30株ほどになった。それが今年は150株ほどになっている。それをかなり広い面積に株分けをした。今度は一応水が来るようになったので、何とかなるかもしれない。

 夜は定例会。

 7月12日(日)
 午前中、和留沢林道草刈り。久しぶりにいろいろの方にお目にかかることができたが。余り密にならないように草刈りをする。朝、7時半から始めたので、10時半ごろには終わる。

 和留沢林道の草刈りももう10年くらいの参加になるのだろうか。今年も40人近い方が参加されていた。和留沢の方が半分くらいだろうか。和留沢集落は戦後開拓の入植地である。開拓75年ということになる。小田原では一番自然環境の良い集落である。

 小田原に移る時には和留沢に暮らしたかったのだが、家が探せなかった。昨日の様子では、新しく和留沢に住むようになった人も加わっているような感じがした。和留沢林道は舟原から、4キロほどの道である。今は車道になったけれど、入植当時は歩くだけの道だったそうだ。

 この道が和留沢で暮らす生命線なので、何としても管理は続けなければならない。自分たちでやるほかないことだ。例年、7月の第2週の日曜日が年一回の管理日なので、参加できる間は参加させてもらいたいと思っている。

 午後はマコモダケの抜き取り。3分の2まで取れたのだが、3分の1は取り切れなかった。午前中の草刈り疲労が残り、結構きつかった。もう少し昼寝をすればよかった。この日は久しぶりに暑かったこともある。

 7月13日(月)
 午前中、田んぼや畑をじっくり見て歩くつもり。午後石垣に向う。
 
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春の農作業11日間

2020-07-01 04:24:52 | 自給
 
 石垣空港の見送りの人。ブログにはっきりと小田原行きを書けるのも、もどって三週間が経過したからだ。又小田原に行くのだが、こういう小田原との行き来を余り気持ちよく見られないだろうと思う。石垣島には余所から来た人を見ればコロナと疑えという空気がある。絵を描きに人のいないところに出るくらいなので、心配しないで貰いたい。


 欠ノ上田んぼ7番一本植え。田植え後四週間の様子。予定では9葉期になっていないとならない。写真だけでは分からないが。開張型に株が分ゲツして開き始めてはいる。

 コロナ騒ぎで小田原に行くのが大分遅れた。一応の自粛明けになり、5月28日から6月8日まで小田原に行くことがかろうじてできた。来年の参考にこの10日間を記録しておこうと思う。小田原の春の作業に最低限参加した記録である。

 5月28日(木) 石垣空港を9時05分発で羽田空港に向かう。直行便がないために、那覇乗り換えになる。飛行機はかなり空いていて、3席に一人もいない状態。1時間で那覇着。那覇空港も人影はまばら、1時間乗り継ぎで待って、羽田まで2時間ちょっと、こちらも3席一人がけ。羽田も人は驚くほど少ない。

 羽田から、京急線で横浜へ向かい。途中寝過ごして、杉田で起きる。スギタでつい笑った。戻って、小田原に着いたのは4時頃。バスも人は少ない。ここまで感染の不安のような状態はない。バスの窓から、欠ノ上田んぼの準備と、舟原田んぼの準備完了が見える。ほっとする。

 小田原の家に戻り、すぐに田んぼに行って明日からの打ち合わせ。帰りに、スーパーに行き11日間の食料を冷凍食品を中心購入。スーパーそうてつローゼン。石垣ほど混んでいない。安心して購入できる。石垣ほどコロナに対する緊張感は感じられない。11000円ほど。一日1000円の食料を買ったことになる。 8,160歩

 6月29日(金) 朝から欠ノ上田んぼで苗取り。苗は多すぎるくらいあり、取り尽くせないまま、漉き込む。田んぼ2枚の線引きも終わる。15人の苗取りで過去最高の参加者数。それでも夕方まで苗取りをしても終わらない。4時半から、渡部さんが苗床代掻き。苗が漉き込まれたのは悲しかったが、何しろ苗が多すぎた。どうも3本植えもしたいという要望があり、増えたようだ。しかし、苗取りが一日でできない分量では困る。2本植えまでである。

 15番田んぼの荒起こしをお願いする。いる人全員で畦立て。そして一気に入水を始める。6時半になっていた。15番は崖崩れで、やれないと考えていたが、崩壊部分の外側に畦を作り、急遽田んぼにすることにした。 11,665歩

 6月30日(土) 朝9時から田植えを始める。その前に15番の水がたまらないので、トンボで代掻きをしておく。1時間ほど。上で田植えのために水を調整するので、一番下の15番にはなかなか水が来ない。田植えは25名くらい集まる。昨日線を引き終わっていた。8番と12番を最初に植える。その間に9番。12番と線引きが進む。
 
 線引きは3名で一日がかりで全部終わる。線引き作業はとてもきついので、精鋭が担当。この日の田植えは8,9,10,11,12,13,14,と下の田んぼが終わる。おおよそ、5分の3が終わったことになる。そして、15番の急遽作った田んぼのトンボを行う。なんとか、水が広がり始める。 11,160歩

 5月31日(日) 朝9時から田植え。やはり25名の参加。この日も15番のトンボがけを田植え前の朝1時間ほど行う。ほぼ全体に水が回る。荒起こしだけでも手植えでは田植えができる。このやり方をみんなに知ってもらいたいと言うこともある。上手くゆけばこの方が田んぼの土の状態がいいと言うことがある。

 午前中に15判を除いた、すべての田植えが終わる。田植えが終わった人から、担当の田んぼの補植に入る。午前中に各自担当の田んぼの補植が終わる。水が入ると浮く苗ができる。早めに補植をする。午後、水が回ったところで、そばかす播き。すべて順調に終わる。

 15番も昼前にトンボがけも終わり、畦塗りも終わる。何しろ人数がいるから何でも早い。昼食中水を抜いて、午後の線引きに備える。1時から、線引きをして貰い、すぐに田植え。案外に植えやすい。すべてが終わったのが、3時。実に順調。この後あちこちの直しなど行う。 15,187歩

 6月1日(月) 冨田田んぼの田植え手伝い。良く準備ができていた。冨田さんの丁寧な性格が出ている。田んぼはやはり作る人で違う。午前中で田植え終わる。 4,745歩

 6月2日(火) 家の片付けと荷物の発送。ため池の新しい畑の玉ネギの収穫。タマネギの整理と干し。 タマネギは赤タマネギは良く出来ていたが、他は今ひとつだった。これは小田原ではどこでもそうだったらしい。何が違うのだろうか。赤タマネギは湘南レッド。7,227歩

 6月3日(水) 午前、舟原ため池周辺の草刈りを行いました。(参加12名、刈払機10台、ハンマーナイフ1台、チェーンソー1台)次回は3週後に行う予定。(作業:田仲康介、近藤増男、近藤忠、笹村、近藤孫範、廣川登、渡部、富田、斎藤薫、杉山、東、石井)田中さんには久しぶりにお会いできた。嬉しかった。

 大麦収穫。コンテナに入れて家で干す。東さんの田んぼ荒起こし。舟原奥の通路の田んぼの荒起こし。一番奥の田んぼへの配管部分の穴を掘る。 15,276歩

 6月4日(木) 午前、大麦収穫。東さんの田んぼ荒起こし。舟原奥の通路の田んぼの荒起こし。午後、ため池西側、田んぼ経由水配管作業。材料は農政課支給、当日13時に届く。塩ビ管1本余り、ため池脇の太い管が保管してあるところに一緒に置く。 13.344歩

 6月5日(金) 小麦刈り取り機械準備。大麦をハーベスターで脱粒してみる。大麦は16キロしかない。夕方から小麦畑で機械の試し。バインダー順調。 11,307歩

 6月6日(土) 小麦の収穫。収穫して機械小屋で干す。午後、東さんの田んぼの代掻き水調整。 11,793歩

 6月7日(日) 午前、東さんの田んぼの田植え。 午後、5,6,7,15番のコロガシ。 17,830歩

 6月8日(月) 朝、びわの収穫。11時に石垣に向かって出発。小田原駅まで渡部さんが送ってくれる。 飛行機は一つおきに座る程度の一杯。 まだ直行便はないので、那覇乗り換え。石垣空港はがらんとしていた。石垣島は羽田より緊張している。街を歩く人のほとんどが、マスクをしている。 10,514歩

 まだ、体力的には充分にこなせた。それほどの疲労もなく、快調に動けた。動ける間は小田原に行き、農作業がしたい。農作業すると、気持ちが一新する。やはり、農作業は原点である。これが出来なくなると、絵も心配になる。今度小田原に行ったらば、田んぼの草取りを精一杯させて貰う。

 田んぼのことをあれこれ言うなら、田んぼの草取りをしてからだ。そのように昔から主張してきた。農業のことにはやった人にしか分からないことがある。だから、田んぼに入り、一番辛い田の草取りをやってみて貰いたい。これは自分に言い聞かせていることだ。

 田んぼはどうなっているだろうか。楽しみだ。


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生き方の変え方 ーーー私の場合

2020-06-25 04:05:02 | 自給
 

 石垣のすばらしい雲である。遠くに見えるのは屋良部半島である。日本一美しい村、崎枝が左の付け根辺りにある。崎枝からの眺めもすばらしいのだが、名蔵アンパル越しに崎枝を見るのも実に美しい。光の方向としてはこの角度の方が色がよく見える。同じ場所でも、位置を変えると随分違う物だ。

 位置を変えながら描いていて、いつの間にか両方での見え方が一枚の繪に入ってくることがある。つまり、絵を描くというのは今見ているものを描いているのだが、記憶の中にある凝縮されたものを同時見ていると言うことがある。それは幼い頃脳風景の記憶を含めてのことだ。

 30代後半に生き方を変えた。競争社会から逃げ出した。と言うか脱落した。早めに脱落を認めたことは今思えば幸運だったというか、逃げて良かった。仏教的に言えば、諦めたわけである。不条理が自分の中で明らかに出来たので、諦めることが出来た。

 そもそも絵を描く生き方をしようとしたのだから、その時から社会のレールからは外れていたはずだったのだが。おかしなことに当時の日本の社会には、絵描きになるレールのような物が存在していて、知らぬままにそのレールに乗ろうとしていた。

 コンクールで受賞して、絵が売れるようになるという道である。当時でも公募団体で会員になったとしても絵で食べて行けない状態ではあった。それでも、有名な公募団体で会員になるというのも、絵描きのレールの一つとも思われていた。私も必死に大公募展に出したこともある。落選したり、入選したりの状況で、到底その会の会員になることすら出来そうもなかった。

 絵を売って暮らすというのは余りに不合理に見えた。家が商売人だったから経済のことはよく分かっていた。絵を売って暮らすほど、割に合わない物はないように見えた。他のことなら稼ごうと思えば稼げるのに、何で売りにくい絵を売らなければならないのかが分からなくなった。残念ながら、生きることの正面突破が出来ない。それなら迂回して生きるほかない。

 絵描きになりたいわたしが、競争の中に必死に競っていた。芸術論ではなく、評価される絵画が話題になるような、状態であった。絵描きが生き残るレールの評価が私にはデタラメ以外の何物でも無かった。画商や企業がコンクールを開催して、登竜門にしていた。コンクールで評価される絵画の描き方のような物が、いつの間にか広がっていた。そんなことは絵を描くと言うことと全く違うとしか思えなかった。

 金沢で絵を描いていた頃には想像もしていなかった世界に、東京に戻り紛れ込んでしまった。そもそも人間として生きるための絵を描いていて、それを続けて行く以外に考えもしなかった。それは美術学校に居なかったことが幸いしていたのだろう。芸術としての絵画をただただ模索していた。何故絵を描くのかと言うことを哲学的に、思想的に模索していた。それは当時の美術部の周辺にいた人がそういう刺激をくれるひとだったからだと思う。

 医学部にいた先輩の松木さん。今でもあの存在を尊敬をしている。文学部の先輩の元木さんは毎日新聞の記者になられたが、若く死んでしまったが、出会った人の中で最も頭脳明晰な方だった。工学部の先輩の般若さんは人間の存在感が圧倒的な人だった。その優しい感触に生き方を教えられたと思う。

 そして、同級生だった理学部の坪田さん。ぶつかり合いながら絵を描く人生を教えて貰った。彼は今金沢で現代美術の画廊をやっている。相変わらず難解な人だ。みんなどちらかと言えば、その分野ではどこかおかしな人なのだろうが、私には生き方を模索する人間としての同志だった。対峙できる人がいるということは、成長には不可欠である。

 金沢からそのままフランスに行き、ただただ自分の絵を求めた。東京に戻る。東京の絵の世界は驚くべきものであった。入学試験のように、絵を競争していたのだ。どうすれば公募展で評価されるか。どうすればコンクールで入賞できるか。まるで予備校のような競争の世界だった。結果的にはそれは何も理解も出来ないままだった。レールから見れば実に要領の悪いままに落ちこぼれた。

 それでも10年間はその中にいたのだと思う。まさに失われた10年である。結局の所絵が描けなくなって、山北で開墾生活からやり直すことになる。あのとき東京暮らしを切り上げたことが、人生の分岐点であった。描くべき物が分からなくなったのだ。無理に描こうとすると吐き気をもようすようになってしまった。今でも描くべきものがわかったわけではないが、コンクールや公募展で評価されるような絵の方向とは明らかに違う。

 当たり前すぎることだが、絵は人と競争するような物ではない。絵は商品ではない。絵は自分の生き方である。自分自身が自分の描いた絵を、これが私の生き方だと示せる物であれば、それでいい。今はただそういう方角だけを目指して、描いている。

 少し残念なことは大して見栄えのない自分だと言うことに向き合うことになる。見栄えがしないが、まあ受け入れるほか無い。自分であると言うことはささやかな物であるから、情けないことであるようだが、どこか安心できる。自分という生をあきらめたのかもしれない。

 開墾生活に入るには、大きな転換点であったのだが、当時はそれほどはには思っていなかった。どう生きたいのかを考えてみて、やりたい方向に向かっただけである。自給自足の生活に憧れが強かった。子供の頃の向昌院の暮らしを思い描いていた。肉体としての自分の体だけで、自給自足が可能なのかどうか、試してみたかった。自分という人間を確認したかった。

 それは鶏を飼いたいと言うことや小屋を作りたいと言う子供の頃やっていたことに繋がっていた。条件として、機械は一切使わない。道具の範囲なら使ってもいいだろうと考えた。車を使わない生活。シャベルとのこぎりぐらいである。水は山北駅で汲ませて貰った。20リットルのポリタンクに汲んで、歩いて1時間かけて開墾地まで上った。それが自給自足を切り開けるかの前提条件であった。食料も持っていた。それを重いとはと思わなかったのだから、元気だった。

 大きく暮らし方が変わった。しかし、それほどのこととは思わず、ただ自分の肉体を試してみると言うぐらいだった。まだ、世田谷学園に勤めていて、生活は出来るから、ある意味気楽なところもあった。いつか、自給自足が出来るようになったら、世田谷学園を止めようと考えて、妙に前向きな気分でいた。結局世田谷学園では30歳から37歳ぐらいの7年間働いたことになる。その暮らしを感謝している。

 始めて見た自給自足の暮らしが余りに面白く、そちらにのめり込んで生活をしていた。絵描きになるんだということはほとんど忘れることが出来た。もう絵を止めようと考えた。それで油彩画を止めた。決意するつもりで、絵の具や筆を廃棄した。絵を描くこともほとんど無くなり、わずかに水彩画で周囲の植物を描くぐらいになった。

 この水彩画を何気なく描いたことが次の生き方に繋がった。自給自足で生きる。そこから見えたものを描いてみよう。それが自分らしい絵の描き方だと思うようになった。絵描きという職業は諦めて、好きな絵を描く生き方。それで最後の個展を文春画廊で開催して終わりにした。絵描きとしての生前葬と銘打った個展である。

 自給自足の挑戦への転換は考えてみれば重大なことであったはずなのに、大きな決意もないまま始めていた。そして始めていたら、もう日々が面白くなり、この冒険をなんとしても成功させるのだという気持ちになっていた。母が元気で一緒に面白がってやってくれたことも、力強いことだった。親というのはありがたいものだ。

 母は向昌院で生まれ育ったのだから、自給自足の暮らしは身についていた。戦後の相模原での開墾生活も体験していた。山北の暮らしは3度目の自給自足生活だったことになる。私にしても鶏を飼うことは子供の頃から常にやっていたことだ。鶏を子供の頃から飼っていた経験が、結果的には自給自足の成功に繋がった。

 自給自足の生活が自分の体力で可能だった。この思いがけない結果は天啓のように感じた。この自信はその後生きる上で大きな物だった。自分一人で出来たことを、どうやってみんなの自給に出来るのか。そのことがその後あしがら農の会に繋がった。あれから、30年である。今はあしがら農の会が気持ちよい場として、継続されることに協力できればと思っている。

 
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第6回 水彩画 日曜展示

2020-06-21 04:48:00 | 自給
 第6回 油彩画 日曜展示





 16, 油彩画 「崖の眺め:能登」
 F20号
 1973年8月







 17,油彩画 「沈思」
 F15号
 制作1974年 2月






 18,油彩画 「リンゴのある静物」
 1979年
 f20


 今回は最後に残っていた、古い油彩画を展示する。学生時代の物、2点とその後パリから戻って、描いた静物である。ここで記録しておかないと、失われそうだ。一番興味深いことは今に繋がっていると言うことだ。絵を描くと言うことはそう大きくは変わるものではない。

 むしろこの後描いていた絵の方が変わているのかもしれない。そして戻ったと言うことかもしれない。この辺は自分ではまるで分からない。自分が見ているものを絵らしきものにしようと言うことが変わらない。

 すこしこの機会に、昔のことを思い出して描いておく。油彩画を始めたのは中学1年生の時だ。世田谷中学に入り、すぐに美術部に入部した。絵を描くのが好きだったからだ。小学校の時は水彩画だけだった。小学校の時に世田谷学園で絵のコンクールがあり、出品した。銀賞だか貰った。それもあって中学に行ったらば、すぐに美術部に入ろうと考えていた。

 中学では油彩画を始めようと決めていた。渋谷の道玄坂の上の方にあった、地球堂と言う名前の画材屋さんで、かなり高めのセットを購入した。親が中学に合格をしたらばと言う約束でそれを油彩画セットをくれたのだ。そういえばそのすぐ上に、世界堂という大きな鞄屋さんがあった。

 念願の油彩画のセットだった。確か8号の張りキャンも買ったのだ。同時に美術部に入部した畠山君と、井沢君と買いに行ったのだ。その頃の美術部の顧問が稲田先生で、すばらしい人だった。熱心な生徒が多くいて、毎年芸大に入る先輩がいた。そう、世田谷学園では中学も高校も一緒にクラブ活動をしていた。今は芸大に行くような生徒はいるのだろうか。

 中学や高校で描いた絵は一枚も残っていない。たぶん、小田原の家には残っていたのだが、先日捨てたのかもしれない。探したがもう分からなかった。ラツゥールの大工のヨセフの模写をしたものがあった。それと、シクラメンを描いた木炭デッサンもあったのだが。そうだスケッチブックがもしかしたらありそうだ。

 学校の中にお堂があり、そのお堂を描いた記憶がある。お寺がある学校というのもいいものだと思いながら描いた記憶がある。たぶん学校が好きだったのだ。学校には大きな木が沢山あった。一本の銀杏だと思うのだが、その上にはリスが住んでいた。日曜日に学校に行くと時に見ることが出来た。

 絵ばかり描いていたのは、高校1年までである。それから頭がぐるぐるしているような状態で、陸上部に入って走ることばかりだった。それでも、美術部の学園祭の展覧会には畠山さんから誘われるので、絵だけは出していた記憶がある。そうだ演劇部の小道具係で絵は描いていた。

 油彩画を始めた頃の現物はなくなった。大学に行って絵を再開した。やはり美術部に入ったからだ。大学では絵を描くと言うことははっきり決めていた。大学の美術部時代の2点と、フランスから帰ってから描いた油彩画が1点だけあった。そうだ、リンゴのある静物を描いたのはもう油性を辞めてからだ。油彩画はフランスから帰って辞めて、アクリル画に変わった。

 
 顔料を工夫する工芸的な作品が多い。今度展示したいと思う。以前金沢大学の美術部の友人が、フランスから帰って開いた個展を見てくれて、そんなに変わっていないと言ったのを思い出した。今描いている絵とも変わっていないのかどうか。


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4、原発事故と新型ウイルスとマイクロプラステック

2020-06-08 04:01:24 | 自給
4、原発事故と新型ウイルスとマイクロプラステック (大豆の会原稿)

 原発事故も新型ウイルスもマイクロプラステックも現代の文明の限界を示している。人間が豊かな暮らしをしたいというのは当然のことではあるが。人の暮らし方は地球の限界を超えたのではないだろうか。人間と言う動物だけが欲望のままに、その暮らし方を変えてきて、ついには地球の破綻にまで踏み込んでしまったと言うことではないだろうか。

 世界の人口は爆発的に増加を続けている。1日に22万人だそうだ。人口が増加するから、食料生産も増やさなければならない。化学肥料や農薬を使う近代農業である。プランテーション農業の登場である。

 畜産の巨大化も限界を超えている。動物を一カ所に何万頭も飼育すると言うことはどこかにほころびが生まれる。経済競争が合理化と巨大化を生み、化学合成物質を使わざる得ない現代の巨大畜産である。

 ここまで人口が増えても、まだ経済競争のためには人口増加を図らなければならないとしている。わざわざ、奴隷労働のように外国人労働者の導入が農業分野でも行われている。そうした農場を見学したことがあるが、研修生はなばかりで、低賃金の労働力としか思えなかった。

 拡大再生産を続ける人間の暮らしが限界を超えたのだろう。どこかまでか人間は戻る必要がある。安定的に暮らせる自給的な暮らしをに戻る必要がある。新型ウイルスの登場は、大規模畜産などで行われる、消毒という考え方にひとつの原因があると考えている。自然に調和できない規模の畜産が新しいウイルスを生み出す。

 マイクロプラステックも同じである。プラステック製品は便利で生活を楽にはしてくれた。ところがそのありがたい、プラステックが地球環境を変え始めている。豊かな暮らしのはずの足下が崩れ始めている。着実に環境崩壊が近づいている。

 江戸時代に鎖国をした日本は自給的な国家として、循環型社会を構築していた。食料から燃料まで日本の国土の中でまかなうことができていたのだ。地球環境に人間が調和して暮らすためには、江戸時代を否定的な視点を持ちながら、材料にして、文明を見直すことではないだろうか。

 発酵食品に本気になったのは原発事故後である。原発事故では心が萎えててしまった。ここまで人間が努力して進んできた文明というものが間違っていたと言う衝撃である。この絶望感にさいなまれた。こうなることは70年代に想像はしていた。にも拘わらず、何もできないできた自分が情けなかった。人間らしく生きるということの敗北。どうすれば再生できるか。

 原発事故後農の会の活動も停滞に入る。小田原を離れる人。小田原で食べ物を作ってはいけないという人。それぞれの叫びの声を否定することは出来ない。しかし、これまでやってきた活動を止めるわけにも行かない。先のことは全く考えることが出来なかった。

 よく分からないままに、免疫力を高める暮らしを以前以上に取り組むようになる。夜は8時に寝る。身体を冷やさない。発酵食品を食べる。そして免疫力を高める。それは肉体だけではなく、心の免疫力のこともあった。

 発酵という時間に自分の暮らしの日々の祈りを込めてゆく。ぬか床の神様である。ぬか床信仰である。文明の限界を前にして、祈るほか道がなかった。味噌醤油は作らなければならない。

 放射能を発酵食品で乗り切ろうというのだから、非科学的であることは自覚していた。しかし、そうでもしなければいられないような苦しみのなかに落ち込んだ。あれ以来、もう全体のことは諦らめて、何とか心ある者で寄り添うしかないと思うようになった。

 味噌はどうもそれぞれの好みのようだ。私は3年味噌が好きだ。人によっては半年ぐらいが良いという人もいる。新鮮な大豆の味がいいといわれていた。味というものは不思議なもので、その人のたどり着いた場所のような気がする。私は味と言うよりも、発酵の進んだ味噌の方が、免疫力を高めるのではないかと考えるようになった。その結果として、3年味噌が美味しいと感じるようになったと言った方がいい。

 免疫力を高めることを切羽詰まった気持ちで考えた。良く寝てよく食べる。これは日々の暮らしのことなのだろう。日々の暮らしを大切にする。そして最後に人間は死ぬ。人間を取り巻く環境は良いものだけではない。問題のあるものがいくらでもある。その全体を受け入れる以外に健康はないのだと思う。

 原発事故もあるべくしてあったことだと受け入れるほかない。仕方がないと思うようになった。それを止めることの出来なかった私自身に問題があったのだ。今も再稼働している原発を止められない私の問題だと思うようになった。

 日本の伝統食の重要な位置を占めているのが、米麹、味噌、醤油、である。自給生活を心ある人たちで共有してゆく。文明は抜き差しならぬ形で、ゆがんだまま進もうとしている。抵抗のしようもない形で、人の暮らしを覆いつくしている。

 こんな状況の中で自給生活ということは、何かの可能性を秘めているのではないだろうか。「地場・旬・自給」を掲げて進んできた農の会の方向は、このどうしようもない文明の狂いが生じる中での希望ではないだろうか。



続けて、1から3も再掲しておく。

1、自然も人間も発酵で支えられている

 世界で評価されている日本食の基本は大豆食品である。大豆からできる味噌、醤油、納豆は発酵食品である。日本食の基礎を固める大切な食べ物である。発酵食品は免疫力を高めるという事で、ますます注目されてゆくことと思う。人間の身体は発酵がなければ成り立たないものだと思うからだ。

 発酵に興味を持ったのは、日本鶏を飼うことからだった。子供のころからの鶏好きで、小学校の頃には200羽の鶏を飼っていた。30代後半になって山北の山の中で自給の開墾生活を始めた。その一つの動機は鶏を好きなだけ飼いたいという事があった。鶏が暮らしの中にいる。そういう昔からの暮らしを、自分の人力で作り出せるものか試してみた。

 子供のころから日本鶏がともかく好きだった。中でも声良鶏が好きで長年飼いたいと考えていた。秋田、岩手、青森の鶏で、天然記念物に指定されている鶏だ。山北で暮らし始めてすぐに岩手の盛岡の方から声良鶏を分けてもらい飼い始めたのだが、死なせてしまった。鶏の飼い方には相当の自信があっただけに、その困難な飼育に驚いた。貴重な鶏を死なせてしまった申し訳なさもあり、盛岡に謝りに行った。謝りに行きながら、帰りにはまた声良鶏を頂いて帰ることになった。ここから鶏の飼育方法を抜本的に考え直し、飼育技術を高める努力を始めた。

 第一に元気な雛を孵化するという事が重要である。元気な雛でなければ、当然成長をしない。ところが声良鶏は長鳴き鶏で血統が重要とされる。低音の声で、5節ある良い節回しで、20秒をこえて鳴く。そのためには、特定の血統を維持し、他の系統と交配することは極力避けられている。よい系統の鶏は近親交配が続き、良い系統の鶏と言われるほど、飼育が困難になっている。

 その鶏を育てるためにはどうしたらよいのか、試行錯誤を続けた。先ず生命力の強い卵をとらなければならない。10個の卵の内1個が孵化すれば、良いと言われるほど孵化率が低い。良い系統を維持するためには一シーズンに1000個の卵を孵化するといわれていた。

 そうして系統をやっと維持している。親鶏に生命力の強い卵を産む力を付けなければならない。十分に運動できる、放し飼いの環境が必要である。そして生餌である。昆虫やドジョウなどの生餌を与えると、ぐんと活力が増す。試行錯誤して、ついにたどり着いた飼育方法が良い発酵した餌を与えることであった。

 食品添加物、化学農薬、除菌剤、消臭剤、防虫剤、マイクロプラステック、暮らしを取り巻く化学合成物資の増加は、止まるところを知らない。禁止されたかと思うと、新たな未知の物質が登場する。身体を健康に保つためには、暮らしの中で免疫力を高めることがますます重要だと思う。

 免疫力はよく眠るとか、運動をするとか、からだを温ためるとか、当たり前の生活の中で高められると思うが、何より重要なことは良い食べ物を食べる習慣だと思う。人間の身体は、細胞の数が37兆個と言われる。その身体の中にはそれ以上の数の微生物が暮らしていると言われている。

 自分と思う存在が実は、半分以上が自分の中にいる微生物なのかもしれない。この自分の中にいる微生物のかかわりに影響があるのが、発酵食品である。特に腸の中には大量の微生物がいて、微生物が消化吸収に大きな役割をはたしている。

 その微生物の活動には、発酵が大きな役割を担っている。新鮮な野菜や海藻なども生きた微生物を取り入れるという意味で重要なものであるが。発酵食品が生み出す酵素が、生命力の強化には大きな役割を担うということらしい。これは経験的なことで、その仕組みまでは私にはわからない。

 発酵の世界は奥が深い。理解しているわけではない。良い卵をとろうということで、試行錯誤の経験をしただけである。みそ作りや、醤油作りもそうである。より合理的な方法を試行錯誤してきただけである。

 先日、千葉の酒造会社を見学させてもらった。そこで、麹の発酵した姿をまじかに見せて頂けた。素晴らしい麹あった。私の作る麹もまだまだであることを自覚した。お米の芯まで麹菌が回ったものである。発酵時間は48時間と言われていた。良い麹を作るには必ず、もっと良い方法がある。

 おいしいという基準だって、自分の味覚がおかしくなっていれば、身体に良いはずの発酵食品が、いつの間にか身体に悪いものになっている可能性すらある。良い味噌を作るということは、果たしておいしい味噌でいいのかどうか。おいしいと身体に良いということが結び付く味覚は危ういところに来ている気がする。

 発酵に興味を深めたことから学んだことは、自給の暮らしが大切であるということだった。農の会の「地場・旬・自給」の考え方は、発酵から生まれたものである。発酵を試行錯誤しているうちに、たどり着いたものだった。次回は良い卵をを作り出す発酵について。

 

 

2、発酵養鶏を始める。

 鶏を長年飼っていた。良い養鶏を行うために発酵を利用することになった。発酵を利用した餌を作り。発酵させた床の上に鶏を飼育した。発酵を利用しない限り、よい養鶏はできなかった。良い卵とは何か。良い卵とは産まれてから、2か月以上生きている卵である。

 保存しておいて、2ヵ月してから孵化を始めても雛が孵る卵である。自称良い卵を、購入してみて孵化すれば本物か偽物かわかる。全く孵らない卵だっていくらでもある。鶏仲間の間では、卵は1週間たつだけで孵化率がぐんと下がると言われている。

 そして、鶏の飼育法を様々工夫するなか、発酵利用の自然養鶏に至ることになる。餌には2種類の発酵飼料を使う。発酵には大きく嫌気発酵と、好気発酵がある。麹菌は好気発酵である。味噌の発酵は嫌気発酵に近い発酵で熟成させられる。酸素を好む菌類と酸素を嫌う菌類がいる。この両者を組み合わせて使う事で味噌はできる。

 卵も同じである。卵の生命力が増していった。こうして発酵飼料を使う事で、2か月生きている良い卵が出来た。良い卵から産まれた雛は、元気に育ち、長生きしてくれた。この経験から発酵というものは生き物の元気に大いに関係するという事に気づいた。そして、自分の食べるものも発酵食品が大切だと考えるようになった。

 発酵の勉強をしたことはない特別にはない。鶏の良い卵をとるための工夫の中で発酵という方法にたどり着いた。鶏は自分の家で孵化をしていた。自家作出鶏の笹鶏である。良い卵でなければ、よい雛は生まれない。当たり前のことだろう。

 では良い卵とは何か。元気な卵である。生命力の強い卵である。黄みの色がどうであるとか、黄みが盛り上がっているとか、黄みが濃厚であるとか、そういうことは孵化できるということとは関係がない。有精卵を10個孵化してみて、何個孵るか。有精卵を何日保存して、孵化できるか。

 3か月保存して孵化できる卵が最高に良い卵なのだ。良い卵として売られている有精卵を孵化してみるとわかる。まず孵化できる卵がほとんどないだろう。私もあちこちから購入して試してみた。最高の卵などとの能書きばかり大げさな卵が全く孵化できなかったことが普通であった。

 良い卵を模索する過程で、発酵というものに出会うことになる。良いと思われることを何でもやってみては、卵を孵化してみた。この繰り返しを30年続けることになった。ますます、発酵の迷宮に入り込むことになった。

 発酵は分からないことばかりであった。しかし、3か月生きている卵は作ることができた。このよい卵から学んだ。おいしい卵の味とは、3か月生きている卵の味だ。濃厚だとか、味付け卵とか、孵化もできない卵の味をおいしい卵とすることは、人間の味覚のゆがみということだと考えるようになった。

 おいしいものが、身体によい食べ物であるというまともな味覚に自分を改善しなければならない。と考えるようになった。良い卵の味はかなり淡白な味わいである。私のところの卵が雑誌やテレビで取り上げられることが何度かあった。そのたびにグルメという人が訪れては、どうしても食べたいというのだ。そして、どの人も一度きりになった。あまりに物足りない味にがっかりしたにちがいない。

 人間は暮らしに余裕が生まれ、より濃厚な味をグルメとして受け入れるようになったのではないだろうか。その結果、健康に悪いものであっても、おいしいものというゆがんだ味覚文化が育ったのかもしれない。

 鶏にとって卵は命をつなぐ要である。良い卵はおいしいという以前に生命力が強くなければ命をつなぐことができない。生命力が強いと、味が濃いということを混同してはならない。卵を食べるということはその強い生命力をいただくということなのだと思う。

 だから、強い生命力を味わおうと思った。その味から、もう一度最初の人間の身体に良い食べ物の味を学ぼうと考えた。だから、おいしいで卵を売らないことにした。おいしくないかもしれないが、この味から命の味を学んでほしいと。この静かな命の味こそ本当の食べ物だということ。

 良い卵を作り出す方法は発酵だった。一つはサイレージと言われる家畜の飼料製造法である。牛や馬の飼料に草をサイレージする方法がある。牧場につきものの高い塔である。高い塔には草が詰め込んである。

 草は嫌気性の状態で乳酸発酵をする。この乳酸発酵させることで資料の価値が高まる。鶏にも同じことをした。生草の代わりにお茶殻を使い、発酵菌材料としてヤクルトのミルミルを加えた。ビオフェルミンを加えてみたこともある。お茶殻だけではなく、ミカンの搾りかすも始めた。

 そして、オカラもサイレージした。この3つの発酵資料は、そのままでは好んでは食べないものを、鶏は真っ先に食べるものに変わる。もう一つ行ったのが70度以上の高温で発酵させる、好気発酵である。高温化することで安全で良質な資料を作り出すことができる。特に魚のあらを鶏の飼料に使うことは昔からあった。しかしあらを似たものを食べさすと卵は臭みを増す。鰹節は生臭さがなくなる。鰹節の発酵を再現するように、魚のあらを発酵して使うということにした。卵に臭みが映らないことに成功する。次回は鶏の餌から人間の餌に、話を進める。

 


3、発酵は鶏の餌から人間の食べ物へと進んだ。 
 鶏の餌で発酵の世界の未知に分け入った。そして、発酵は鶏だけでなく、自分の身体にもとても大切なものだという事に気づいた。人間の体の中には人間の細胞の数より多い微生物が暮らしている。

 日本の食文化は発酵食文化と言われる。昔の暮らしでは食べ物を保存するという事が、難しかった。冷蔵庫が無かったからだ。乾燥して干物にする。塩をまぶして、漬物にする。かつ節など世界で最も堅い食品と言われる大発明である。保存法として発酵が様々に利用される。それは鶏の餌と同じで、嫌気性の発酵と、好気性の発酵が食品によって巧みに取り入れられることになる。

 これは鶏で良い卵を作る経験の中で、嫌気性と好気性の二つの発酵が不可欠だった。このことから意識して二つの発酵を利用する必要があると考えるようになった。納豆は好気性発酵で、味噌は半嫌気性発酵である。

 発酵によって、毒を消す作用とか。発酵によって、生では食べられなかったような素材が、美味しい食品に変わるというような不思議を経験する。そして、中でも一番の発見は発酵が人間の免疫力を高めるという事に気づいた事だろう。

 野菜でも生野菜で食べるよりも、漬物にして食べることが基本であった。冷蔵庫がなければ、糠床は暮らしの必需品である。嫁入りの時には糠床を持ってきたなどという話が普通にあった。100年も生き抜いた糠床は夏の暑さでも腐敗しない糠床になっているのだ。

 そのぬか床にいる微生物はどんなものなのかは知らないが、確かに夏の暑さにも腐敗しない100年ぬか床はある。日本人は暮らしを受け継ぐ中で、発酵食品を多用に食べる民族になった。納豆、醤油、味噌、 漬物、鰹節、日本酒。日本食の基本食材が、発酵食品といえるほどである。

 その多くが大豆にかかわりがある。大豆は田んぼの畔に作る、アゼクロ豆。1反の田んぼがあり、それを取り囲む畔に大豆を作る。田んぼのお米が米麹になり、畔の大豆が味噌・醤油・納豆になる。

 特に菜食中心の暮らしではタンパク質を大豆でとることになる。大豆が畑のお肉と言われるゆえんである。しかし、大豆は余りに大量に食べると体に良くない面もある。豆類の中でも大豆は植物毒を多く含んでいる。それが、発酵させることで、味噌、醤油、納豆、のような免疫を高める食品に変わる。

 日本人の食に深く関わってきた。田んぼの恵みを考える必要がある。畦には畦くろまめ(大豆)をつくる。田んぼでできたお米を発酵させて麹を作る。畦の大豆と麹を使い、味噌、醤油が作られる。田んぼの稲わらからは納豆菌が取り出される。大豆を煮て、それを稲わらで包んだだけで出来るのが納豆である。

 稲わらにはお米を発酵させる黒麹菌が現れる。稲わらにいる麹菌を増殖させて麹菌を取ることができる。田んぼの宇宙は日本人の醗酵食の源である。田んぼでお米を作るだけではもったいない。畔大豆を作らなければならない。

 こういう思いが高まる。美味しい大豆というものを取り寄せてあれこれ作ってみた。日本にはたぶん1000種を超える大豆があったのではないだろうか。どこの地域にも地大豆があった。どれほどおいしいと言われる大豆であっても、取り寄せて作ってみると案外においしくなかった。

 その土地にあった大豆というものがあるようだ。大豆は特別にそこの土という環境に適応してゆく作物のようだ。その土地の微生物とどのように共生して成育するかによって、大豆の味にかかわってゆく。だから、一年作ってダメだった大豆も10年作ればおいしくなるのかもしれない。こうして、美味しい大豆を見つけたのが、小糸在来種であった。小糸在来種は千葉県の小糸川周辺で作られてきた品種である。

 米麹を作ると毎年必ず、玄米で作ろうという人がいる。玄米食が健康という意識がある体と思われる。だから、味噌麹も玄米麹で仕込みたいという気持ちは当然である。お米から糠を取り去ることは大切な部分を捨てているようなものだという事になる。

 ところが、玄米を発酵させるのはとても難しい。米麹の発酵で重要なことはお米の奥まで菌が食い込んでゆくかである。表面だけ白く菌が回るのは普通である。しかしそれだけでは十分ではない。菌がお米の芯まで繁殖しなければならない。そうならなければ、酵素の量が充分ではない。

 日本酒の発酵で、周りの糠を60%も削るというような、もったいないことを何故するのか。それはお米の周辺部は大切なお米の命を守るための、防御層だからだ。お米の籾にはもみ殻があり、玄米には硬い糠層がある。こうしてお米は何重にも菌の浸食を防いでいる。だから、糠層を削り取り去ることで、日本酒は良い麹の醗酵に至ったのだ。

 もし、糠にあるミネラルを必要と考えるのであれば、糠自体を味噌づくりの、違う段階で蒸した糠を混ぜ込む方がいいはずである。美味しい大豆と、美味しいお米の出会いが、美味しい味噌である。

 味噌も永くみんなで作っていると、それぞれの好みが出てくるようだ。私は3年味噌が好きだ。人によっては半年ぐらいが良いという人もいる。新鮮な大豆の味がいいといわれていた。味というものは不思議なもので、その人のたどり着いた場所のような気がする。



 
4、原発事故と新型ウイルスとマイクロプラステック  笹村 出

 原発事故も新型ウイルスもマイクロプラステックも現代の文明の限界を示している。人間が豊かな暮らしをしたいというのは当然のことではあるが。人の暮らし方は地球の限界を超えたのではないだろうか。人間と言う動物だけが欲望のままに、その暮らし方を変えてきて、ついには地球の破綻にまで踏み込んでしまったと言うことではないだろうか。

 世界の人口は爆発的に増加を続けている。1日に22万人だそうだ。人口が増加するから、食料生産も増やさなければならない。化学肥料や農薬を使う近代農業である。プランテーション農業の登場である。

 畜産の巨大化も限界を超えている。動物を一カ所に何万頭も飼育すると言うことはどこかにほころびが生まれる。経済競争が合理化と巨大化を生み、化学合成物質を使わざる得ない現代の巨大畜産である。

 ここまで人口が増えても、まだ経済競争のためには人口増加を図らなければならないとしている。わざわざ、奴隷労働のように外国人労働者の導入が農業分野でも行われている。そうした農場を見学したことがあるが、研修生はなばかりで、低賃金の労働力としか思えなかった。

 拡大再生産を続ける人間の暮らしが限界を超えたのだろう。どこかの地点まで、人間は戻る必要がある。自給的な暮らしに戻る必要がある。新型ウイルスの登場は、大規模畜産などで行われる、消毒という考え方にひとつの原因があると考えている。自然に調和できない規模の畜産が新しいウイルスを生み出す。

 マイクロプラステックも同じである。プラステック製品は便利で生活を楽にはしてくれた。ところがそのありがたい、プラステックが地球環境を変え始めている。豊かな暮らしのはずの足下が崩れ始めている。着実に環境崩壊が近づいている。

 江戸時代に鎖国をした日本は自給的な国家として、循環型社会を構築していた。食料から燃料まで日本の国土の中でまかなうことができていたのだ。地球環境に人間が調和して暮らすためには、江戸時代を否定的な視点を持ちながら、材料にして、文明を見直すことではないだろうか。


 
 発酵食品に本気になったのは原発事故後である。原発事故では心が萎えてしまった。ここまで人間が努力して進んできた文明というものが間違っていたと言う衝撃である。この絶望感にさいなまれた。こうなることは70年代に想像はしていた。にも拘わらず、何もできないできた自分が情けなかった。人間らしく生きるということの敗北。どうすれば再生できるか。


 
 原発事故後農の会の活動も停滞に入る。小田原を離れる人。小田原で食べ物を作ってはいけないという人。それぞれの叫びの声を否定することは出来ない。しかし、これまでやってきた活動を止めるわけにも行かない。先のことは全く考えることが出来なかった。


 
 よく分からないままに、免疫力を高める暮らしを以前以上に取り組むようになる。夜は8時に寝る。身体を冷やさない。発酵食品を食べる。そして免疫力を高める。それは肉体だけではなく、心の免疫力のこともあった。


 
 発酵という時間に自分の暮らしの日々の祈りを込めてゆく。ぬか床の神様である。ぬか床信仰である。文明の限界を前にして、祈るほか道がなかった。味噌醤油は作らなければならない。

 放射能を発酵食品で乗り切ろうというのだから、非科学的であることは自覚していた。しかし、そうでもしなければいられないような苦しみのなかに落ち込んだ。あれ以来、もう全体のことは諦らめて、何とか心ある者で寄り添うしかないと思うようになった。


 
 味噌はどうもそれぞれの好みのようだ。私は3年味噌が好きだ。人によっては半年ぐらいが良いという人もいる。新鮮な大豆の味がいいといわれていた。味というものは不思議なもので、その人のたどり着いた場所のような気がする。私は味と言うよりも、発酵の進んだ味噌の方が、免疫力を高めるのではないかと考えるようになった。その結果として、3年味噌が美味しいと感じるようになったと言った方がいい。


 
 免疫力を高めることを切羽詰まった気持ちで考えた。良く寝てよく食べる。これは日々の暮らしのことなのだろう。日々の暮らしを大切にする。そして最後に人間は死ぬ。人間を取り巻く環境は良いものだけではない。問題のあるものがいくらでもある。その全体を受け入れる以外に健康はないのだと思う。


 
 原発事故もあるべくしてあったことだと受け入れるほかない。仕方がないと思うようになった。それを止めることの出来なかった私自身に問題があったのだ。今も再稼働している原発を止められない私の問題だと思うようになった。


 
 日本の伝統食の重要な位置を占めているのが、米麹、味噌、醤油、である。自給生活を心ある人たちで共有してゆく。文明は抜き差しならぬ形で、ゆがんだまま進もうとしている。抵抗のしようもない形で、人の暮らしを覆いつくしている。


 
 こんな状況の中で自給生活ということは、何かの可能性を秘めているのではないだろうか。「地場・旬・自給」を掲げて進んできた農の会の方向は、このどうしようもない文明の狂いが生じる中での希望ではないだろうか。

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柴咲コウ さんの種苗法改正反対の意味。

2020-05-25 04:17:45 | 自給


 柴咲コウさんという女優の方が、種苗法の改正反対を表明してそれが発端になり、今国会での種苗法改正案を取り下げることになった。と報道されている。そんな気はしないのだが、やはり有名な女優さんの意見が世の中を動かすという時代の変化をあえて言いたいと言うことなのだろう。

 以前も農の会に是非とも種苗法の問題点を話したいという方が、定例会にみえた。大変なことだから是非話したいと言うことだった。初対面の外国人の牧師の方だったように覚えている。とても真剣な態度で心配でたまらないという感じだった。

 この種苗法ができると有機農家が自家採種できなくなると言われた。一体どうしてそんな話になるのか分からないので、改正法にそって具体的にその理由を説明してくださいとお願いした。ところがその方も説明に見えたにもかかわらず、よく分かっていないので、残念ながら説明はできないというのだった。こんな感じで種苗法の改正案は自家採種ができなくなると言う理由が不明確のまま、世間に広がっていった。

 世界中が知的財産権を主張する時代になっている。種苗も特許権のような保護をかぶせようと言うことだ。私個人としては知的財産権など不要という考えであるから、私の作ったものを誰がどう利用しようと構わないという考えではある。しかし、世界の趨勢である知的財産権の尊重は日本も避けることはできないとも考えている。

 話が何故、農家の自家採種禁止になったのかが分からない。有機農家が昔からある品種を自家採種することとは、まったく別の話である。有機農家はむしろ自分の品種を作出するくらいの意欲がなければ行けないと考える。現在売られている種は多くが中国産である。中国産の種を使い続ける有機農家というのでは、有機農家と言えるのだろうか。

 もちろん、世界中の新品種を作出した人が、自由にお使いくださいというのであればそれがいいに決まっている。私はササドリと言う鶏の品種を作出した。ササドリで養鶏をしていた。だから新品種を作ることが、どれほど大変なことは分かっているつもりだ。

 ササドリは自家採種できる卵肉兼用種である。雛を購入しなければできない養鶏はまともではないと考えたからだ。フィリピンで農業支援をしている方が、雛が購入できないので養鶏が続かないと言われた。それなら昔のように雛を自分で孵化する養鶏を作り出すべきだと考えたのだ。

 それは誰にも使って貰いたかった。誰がどこでササドリで販売しても問題ないと考えていた。それはわたしが作出する意義を経営的なものとは考えていなかったからである。新品種は世界共有の財産と考えるからであった。雛を購入できない人でもできる養鶏である。

 ササドリの卵を孵化すればササドリになる。私の卵は有精卵である。それをかえしたのだと思われるササドリを、それなりに見るようになった。青山にある有機食品の専門店でササドリと言う名称で鶏肉が売られていたことがある。それで私はかまわなかった。みんなが利用してくれれば嬉しいことだとおもっていた。

 種苗法の改正案には賛否が分かれている。農家が不利益を被ると決めつける人と、このままでは海外に日本の優良品種が流出するという意見に割れているのだろう。実際にすでに優良な果樹の品種や和牛などが、不正流出は多発している。

 一方で農家が自分で種取りしたり、挿し木をしたりすることが禁止されたら、農家が企業から種苗を購入しなければならなくなるという意見がある。この点実際どうなるかはまだ分からない。分からないのだが、普通の品種でこの改正法ではそう言うようなことが起こるとは全く思えない。この作物の具体的範囲がどうども意見が分かれている。

 農家の実際から考えてみると、新しく登録された新品種はそもそもその地域のブランドになっている。それを勝手に他の地域で無断で栽培すると言うことの方が、問題になる。また、そうした登録品種が欲しくともブランド化した品種などは手に入れることは普通には出来ないで当たり前である。

 地域ブランドを作ることは各地域の農家にとって重要なことである。それがどこでもいいとなれば、無断で作る人が現われる。これは農家保護とか言う前に、人間としてこすっからいやり方にしか見えない。そんな人が保護される必要はない。

 今までの登録品種の多くは、国や都道府県の研究機関などが長い年月と多額の費用をかけて開発した知的財産である。今までは国が行ってきたために、その品種を農家が使うことはむしろ奨励される場合が多かった。余り権利を主張しなかった。

 ところが政府としてはこうした国などの公的機関がこうした、研究費用が必要な新種の作出のような事業から手を引こうとしている。そして、そうした新品種の作出を企業に任せようという考えである。そうなると、企業としては知的財産が守られなければ、新品種の作出などの努力をしないことになる。

 そこで登場したのが種苗法の改正案である。企業に種苗の作出を任せたいという考えである。現状としては今までの種苗を作出していた研究機関が研究費や人員が削減されている。そのために、企業とタイアップしたような研究以外はできなくなっている。そのように、研究者から直接伺ったことがある。

 種苗法改正案について、有機稲作の権威の稲葉さんが小田原に見えたときも講演の中で、種苗法が改正されると有機農家が自家採種できなくなると話されていた。そのときも何故改正案で、有機農家が自家採種できなくなるのかと、この法案からどうしてそう考えるのかが理解できなかった。

 質問をしたのだが明確な応えはなかった。そもそも有機農家が何故新しい登録新品種の自家採種をしなければならないのかが分からない。有機農家はむしろ伝統的品種を大切にして、F1品種などを作らないのが普通ではないのか。その意味では有機農家とは関係の薄い問題だと思えるのだが。

 種苗会社が新品種を作るためには大変な経費がかかっている。その品種を勝手に自家採種して利用されたのでは、企業としては困ることだろう。困るから企業は新品種の作出の努力をしないことになる。政府が登録制度を作り、そこで登録された品種に関しては、許可なく自家採種をして利用することが出来なくするのは当然のことではないだろうか。このことに反対すると言うことは、私と同じで、知的財産権を認めないという考えでいいのだろうか。例えば柴咲さんのCDはコピーが許されるのだろうか。そんなことはない。

 石垣市では和牛の登録のごまかしで問題が起きている。A号という優秀な雄牛の精液だと称して、他の雄牛の精液で種付けをしていたのだ。DNA鑑定で分かったのだ。A号という優秀な雄牛を作るためには大変な努力の結果である。その価値が評価されて、その精子は高値で取引される。それは正当な経済行為である。

 ところが、中国などで日本の優良系統の和牛の精子が秘密裏に流通している。そうして、和牛の優良系統が海外に出回ってしまっている現状がある。これでは和牛をブランドとして、育て上げた日本として維持していけないことになる。それこそ国際競争力がなくなる。

 この辺をどうして行くかは農業全体の課題だとおもっている。そして、何度も書くが、今回の法案が何故、有機農家が自家採種ができなくなると言う話になるのかが理解できない。もし分かる人がおられたら教えて貰いたいぐらいだ。

 米は84%は登録品種ではない。登録品種も、30年を過ぎれば一般品種になる。何故有機農業をするものが、新品種を作らなければならないかである。むしろ伝統的な在来種を作るべきだ。30年経過した安定したものでやるのが、有機農業だと思う。

 むしろこの問題の根源は農業の新品種の作出を企業依存しようと言う所にある。従来はお米の新品種は国の研究機関が作出してきた。しかし、政府はそうした研究を縮小している。そして、企業に任せようとしている。ここに問題があるのではないだろうか。民間が開発する発想は、甘みがある、柔らかい、濃厚、要するに消費者好みのものになりがちである。そうした品種は農薬を使わなければ作りにくい品種が多いということになる。

 政府の研究所が作出してきた、食料を安定的に提供するというような思想に基づいた品種はドンドン減少している。それは政府の方向とする農業が国際競争力のある農業という発想だからだ。この考えが間違えなのだ。

 食料を100%自給できない国が、国際競争力など考える必要はない。まず、国の基盤となる食糧自給のための品種の作出であろう。そうした品種の作出は企業では行われにくいものになる。国は農業総合研究所のような基礎研究を深く厚く行う組織をさらに育てる必要がある。


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地方への移住が始まるかもしれない。

2020-05-18 04:30:51 | 自給


 政府は、1月30日~2月3日、東京圏に住む20~50代を対象にアンケートした。東京圏1万人を対象にしたインターネット調査の結果をまとめた。東京圏以外の地方で暮らすことに関心を持っているとの回答が全体の49・8%を占めたほか、若い層ほど関心が高い傾向も浮かんだ。地方暮らしに「関心がある」と答えたのは15.6%で、「やや関心がある」が15.5%、「気にはなっている」18.7%だった。「関心がない」「あまり関心がない」は計47.0%。---共同通信

 ちょっと驚きの期待できるニュースだ。嬉しくてまだ信じられないほどのことだ。これが本当のことなら、未来は充分に明るいと思われる。アーサーミラーのチェリーブロッサムだ。すべては思いから始まる。10人に一人が行動を起こすとすれば、世界は変わる。

 いよいよ新しい時代が近づいているのかもしれない。時代は変わるときは一気に変わるというから、次に時代は案外にもうそこまで来ているのかもしれない。このデーターはすごいことだ。都市消滅の時代が始めて感じられる。新しい生活への願いもって、30年生きてきた。自分が生きている間に地方で暮らす時代が来るのかもしれないのだ。

 このアンケートは政府が行ったものと言うことだが、まさか何か意図があって偏向を加えていると言うようなことはないのだろうか。余りに嬉しくてそんなことまで考えてしまった。1月末と言えば、コロナ不安が蔓延する前の話だ。コロナ感染が影響していると言うことはないだろう。

 コロナ後の時代ははっきりと都会を離れる人が増加する可能性が出てきた。資本主義の限界なのだと思う。中国とアメリカの経済戦争に巻き込まれてさまよう日本を見ていると、日本にはそういう自覚さえ持てないのだと思える。たださまようだけでどこに向かうかが見えないで居るのだ。

 そこで暮らしている日本人がこのままではないはずだと。日本人は良くコロナに対応したと思う。まだ日本人の生活力があると言うことだ。アメリカやヨーロッパでの死者数を見ると、すでに生活能力が空洞化しているのだと思う。

 コロナウイルスには様々なデマのようなものが飛び交い、政府もテレビ報道も科学性というものを失うことがよく分かった。インフルエンザより軽い病気だと今でも主張する人が居る。正しく恐れない人は正しい判断を失う。それは原発の時と同じである。調査報道を行うだけの力を日ごろから、養っていないときちっとした報道は行えないと言うことである。

 日本人が地方に分散して暮らすようになれば、日本は新しい時代を作ることが出来るだろう。日本列島の豊かな環境はまたとない素晴らしいものである。可能性に満ちているのだ。今放棄が続いている土地に戻り、人間らしく生きることだ。それは誰にでも出来ることだ。

 私は30年自分で試してみた。100坪の土地で、一日1時間の労働をすれば、食糧の自給とは可能だということを、信じて貰いたい。ただし、これは協働すればと言うことで、一人でやるとすれば、2時間働く必要があった。協働することが出来れば、誰にでも加わることが出来る。

 あしがら農の会は今もそれを模索している。この実践は必ず次の時代を切り開く、参考になるはずだ。地方生活の一番の困難は技術である。生活技術というものが失われている。日本は江戸時代循環型の暮らしを完成させた国なのだ。

 それはシャベル1本の自給だ。化石燃料など一切使わない自給である。江戸時代の人が普通にやっていた暮らしである。もちろん江戸時代の人には出来なかった、様々な文明の利器がある。例えばイネの品種改良は当時のものより20%増収できる。

 江戸時代はどれほど頑張っても8俵と言われていた。それが今の時代10俵とれるのだ。化学肥料も、農薬も不要だ。機械は籾すり精米機があれば、なんとかなる。細かなことはこのブログにもいろいろ書いてきた。また、お米と鶏は必携である。このことは農文協で本にして貰った。

 そのほか分からないことがあれば、私が生きている限り疑問には答えたいと思う。何とか、自給的に暮らす方法を生きている間に伝えたいと思う。もしそういう時代の転換が出来るなら、コロナによって、次の時代の扉が開くと言うことになるかもしれない。

 もちろん簡単なことではない。たぶんこのブログにも何度書いているかと思うが、北斜面の杉林を開墾して畑を作り、田んぼを作り、食の自給を5年間で達成した。難しかったのは例えば杉の抜根はどうすればいいかというような、生活の工夫力である。

 田んぼをどうすれば出来るのかなどいろいろ調べたが分からない。しかしやってみたら何のことはなく出来た。江戸時代には普通にあった大切な技術が忘れ去られている。私にも出来たことだ。必ず可能である。

 私は東京まで通勤できる場所で、開墾生活が出来る場所を探した。それが山北町の高松山中腹であった。東名高速バスで世田谷区にある世田谷学園に通勤していた。三日間連続で授業をさせて貰い。その間の2泊は東京に泊まった。四日間は山北で開墾生活である。夢のようなすばらしい暮らしであった。今戻れるとすればあの頃が一番いい。

 テレワークがどこまで進むかがひとつの鍵であろう。週に1,2回会社に行けば仕事が可能であれば、都会の会社でも大丈夫だろう。もう一つは企業自体が安全保障で部門によっては地方に分散する可能性もある。政治がまともであれば、そういう推進も行われるところだろうが、ほとんど政治には期待できない。

 企業自体に次の時代を見据える能力があれば、それぞれが動き出すはずだ。人口減少の中で、日本の企業が能力を発揮するためには個々人の人間力の向上以外にない。そのためには人間が人間らしい暮らしを持つと言うことしかないと思っている。


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非常時で重要なことは食料の安定供給。

2020-04-18 04:23:42 | 自給


 新型コロナウイルスの世界規模での感染拡大が深刻化する中、各国で小麦やコメなどの食料の輸出を制限する動きが広がっている。非常事態で一番重要なことは食糧の安定供給である。日本の食料は大丈夫なのだろうか。

 コロナとの戦いを第三次世界大戦であるとするなら、日本は食糧を増産しなければならない。食糧不足に陥る可能性がある。又、食糧が不足してから想定外では困る。戦争で一番大変だったのは、最前線の兵役よりも戦後の食糧不足だったと、常々父は言っていた。

 お米の作れるところはすべて作らなければならない。何しろ日本は食糧自給率38%の国なのだ。これから世界での食料の輸出余力が失われてゆく可能性がある。もし海外から食料が来なくなれば、ウイルスの蔓延以上に大変な事態になる。

 緊急事態であれば、第三次世界大戦であれば、まず食糧の安定供給である。そのためには日本では稲作である。お米が充分にあれば、後は何とかなる。お米を増産すべきだ。今ならまだ間に合う。世界が食糧不足に陥る前提で準備すべきだ。

 食糧不足になれば途上国の食糧不足が深刻化することになるだろう。人口急増の国々ではさらに悲惨なことが起こると思われる。日本も食糧支援の努力が必要になる。そのためには増産できる田んぼにはすべて作付けすべきだ。政府がふさわしい価格で買い取るのであれば、農家は間違いなく作付けをしてくれる。まだそれだけの農家が残っている。

 幸いなことに日本には稲作というすばらしい農業が存在する。休耕されている水田を今年の作付けに間に合うように政府が指示をしなければならない。今ならまだ間に合うギリギリの所だ。政府には検討を是非ともお願いしたい。今年は本気で稲作をしなければならない年になる。心より農水省にお願いをしたい。

 稲作は環境を豊かにする農業である。循環型の農業が可能な作物である。感染症時代には重要な食料生産方法になるはずである。新型ウイルスの登場の原因は、気候変動、化学物質の多量の使用、人口の増加、大規模畜産等が考えられる。

 人間が地球環境を極端に改変したことが、新型ウイルスの出現につながっている。もう少し戻り、江戸時代の日本人の暮らし方を再認識しなければならない。肉をほとんど食べない。お米中心にした発酵食品の暮らしである。

 日本の国土で3000万人が暮らすことが出来た。この江戸時代は方法は世界の参考になるはずだ。作物の品種改良や農業技術の進歩で、倍の6000万人は循環的に暮らせるはずである。

 幸い日本は6000万人ぐらいまで減少するという予測である。その当たりを目標にして、日本列島という類い希な豊かな場所に幸せの国を作ることが世界の良い事例になるのではないだろうか。それが国家の品格というものだ。

 6925万人というのは昭和11年の人口である。戦前の世界である。83歳の今のお年寄りが生まれた時代はまだ6000万人台だったのだ。この頃にはまだ健全な農業が存在した。

 食料輸入などしないでも暮らすことの出来た時代があったのだ。ところが国は世界に広がる帝国主義に対抗して、軍事国家を目指し、軍備の拡張大陸への進出と政策を誤る。そのためにみじめな戦争の末に敗戦となる。

 それが明治の日本帝国を目指した帰結だったのだ。競争主義の末路は常にそうしたものである。必ず勝者と敗者が存在する。もう一度日本が原点に立ち返り、この他に例を見ない豊かな国土を生かして自給的に生きることではないだろうか。

 もし6000万人の人が自給的に生きるとすれば、一人100坪だから、0,033ヘクタール。200万ヘクタールの農地があれば可能だ。実は日本の耕地面積は減少したとは言えまだ440万ヘクタールある。実は日本人全員が自給すれば、日本の国土で日本人は生きることが可能なのだ。

 この自給は一日1時間働けばいい。後は会社に行こうが絵を描いていようが、それぞれの生き方をすればいい。こんなに豊かな社会は無いはずである。江戸時代の3000万人の安定はそうした暮らしであった。江戸時代が良い時代というのではないが。参考にすべき良いところもあったと言うことだ。

 明治維新で帝国主義を目指した日本は、江戸時代のすべてを悪いものとするほかなかった。そのために江戸時代に開発された、循環型の農業技術も古くさい役に立たないものとして否定されて消えていった。この自給のための技術をもう一度見直すことが大事である。

 これはペシャワールの会がアフガニスタンで行った灌漑事業のように、江戸時代の技術を現代の資材を利用しながら利用すると言うことだろう。ビニール資材を利用しないで出来る農業技術はある。大型機械を利用しないでも可能な農業技術はある。

 油紙や障子を使って、苗作りがされていたのだ。まだかろうじて、そういう昔のすばらしい農業技術を記憶されている方は各地におられると思う。その土地土地におられるお年寄りから、お話を聞いておくことが大切である。

 自給のための食糧生産は商品経済とは関係のないものだ。どこの国もまず、主食作物は作る。主食食料を貿易の取引材料にしてはならない。今回のウイルスはどうも得体の知れないところがある。どんな展開をするか過去の事例では計り知れないことが起こるかもしれない。

 お米を作って無駄になることはない。もし幸運にも余れば食糧支援に回せばいいだけだ。世界の様子は今後変わって行くことだろう。
 

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小麦、タマネギ、味噌づくり。

2020-01-27 04:46:50 | 自給

タマネギ畑の様子。

 今回小田原に来たのは、小麦とタマネギの様子を見るのが第一目的。そして味噌づくりである。麹を作りみそを仕込むので、どうしても最短でも9日間必要だった。水彩人のこと等もこの間にあったので、せわしない小田原滞在だった。

 小田原に来るととくに思う事だが、私がこうして農業を出来ることは農の会の仲間がいるからである。麹づくりも、味噌づくりも、為ネギも、小麦も、みんなのお陰でやることが出来る。有難いことだ。足手まといにならないようにやれる間は加えてもらいたいと思っている。

 昨年は小田原の寒さで体調を崩したので、今年は相当に気を付けて暮らしていた。今年は例年よりは暖かいこともあり、体調も問題なく過ごすことができた。成田空港を行き帰りで通過するのでマスク着用である。東京に行くとき、電車の中、バスの中でもマスクをしていた。

 今の私には人込みはマスクが必要な状態かと思う。そもそも肺が弱い。寒い空気を吸うと咳き込むようになる。肺炎は要注意である。結核を昔やったことが影響しているのかもしれない。この点石垣島に行って、身体が楽になった。



 玉ねぎは順調な生育だった。初めての場所で標高もすこし高く相当寒くなることが予想されたので。今年は穴あきトンネルの使用を全体にかけた。いくらか風に飛ばされたようだが、幸い私の所はしっかり埋めたので大丈夫のようだった。

 今年は雨が多いいので、乾いて水やりをしなければならないという事もないようだ。トンネルの中もしっとりした状態だった。雨の少ない年だと、閉じ切っていたのでは少し心配になる。

 ビニールトンネルは昨年私だけ実験的にやってみた。結果が良かったので全体にかけることにした。久野が少し寒いという事があるのかと思う。特にタネバイでタマネギに食害が全体であったのに、穴あきトンネルにした私のものだけまったく食べられなかった。

 今年の場所は風の吹くそうな寒い場所である。土もまだ良くない。玉ねぎは十分には出来ないかもしれないが、今のところそれなりにできてきている。立ち枯れた様なものはない。先ずは一安心した。草が少ないのはしっかりと燻炭で表層を覆ったからではないかと思っている。

 種をまいて苗から作ったものが半分。購入した苗が半分ぐらいだろうか。何とか根付いて入るので、春になれば、生育を始めてくれるだろう。玉ねぎも追肥が出来ればした方がいいかと思う。ただ私は4月まで小田原に来れないので、どうなるかちょっと心配である。世話になるしかないので、申し訳ない限りだ。

 トンネルは新しく購入したわけではなく、イネの苗に使っているものを再利用した。かなり汚れてはいるが、まだ使えるので使った。もう5年以上使っているものだと思う。ビニールは洗って使うほどに大事につかっている。

 本来は有機農業ではビニール資材は避けたいところだ。しかし、どうしても使わざる得ない場面もある。こだわって使わないで上手く行かないよりは、大切に使えば許される範囲もあるのではないかと思っている。



小麦畑の様子

 小麦は発芽してくれるかどうかさえ心配だった。カラスの大群が押し寄せていたのだ。カラスは大豆の落ちた粒を食べていたらしい。その後小麦の種に行くのではないかと心配した。何故か小麦の種は食べないでくれた。

 小麦の発芽はうまく行った。今の所それなりの生育になっている。草もそれなりに生えていた。この段階で草取りをしておくと、この後の草がだいぶ違う。麦が生育を始めてくれて、雑草よりも先行してくれるといい。

 半分が炭素循環農法の畑で、チップが大量に入っている。半分は大豆麦の繰り返しである。大豆に関していえば、炭素循環農法の畑の方が、出来が良かった。麦は逆になると予測している。麦は2年目の炭素循環農法の畑では窒素が少なくできない可能性があると思うからだ。



 麦踏をして、ソバカスの追肥をした。麦は毎年肥料不足になる。追肥はかなりやらないと十分に分げつが取れない。麦が取れるような土壌になるには5年はかかるだろう。

 まだ2年目では収量も期待できない。毎年成育不足になっている。今年は1反弱あるので、250キロは少なくとも取りたい。もう一度土寄せ追肥がいるかもしれない。これも来れないので、小麦の会のみんなに期待するほかない。

 麦踏は小田原ぐらいの寒さの場所では意味がない。今年は霜柱自体が2回目だと言っていた。比較調査を繰り返したが、麦踏をしたら分げつが増えるという事はなかった。ただ、土寄せ追肥ははっきりと効果がある。

麹の仕込み

 麹の仕込みは1月19日だった。50口ぐらいの麹の仕込みである。一口3キロだから、150キロのお米を麹にしたことになる。あさ8時から夕方4時過ぎまでかかった。途中家に戻り、麹を保温カーペットに設置して、3時ごろにまた戻った。

 麹の出来はまずまずだった。根守さんの麹がとても進んでいて、いいものだった。なんと、月曜まで発酵を継続したという。味噌麹はこの方がいいと思う。お米の芯まで麹菌が入っていた。根守さんはなかなか研究家だ。千葉に行ったときは何しろ背中に麹のリュックサックを背負っていたぐらだ。ぜひ、農の会の野菜作りをまとめてみてもらいたい。

 皆さんがずいぶん頑張ってやられていた。大豆の会は心地よい空気が流れている。これが一番大事なことだ。私の麹はもう一つの出来であった。何とかなるだろうというレベルである。落ち着いて面倒が見れなかったためだと思う。麹は気持ちの問題がかなりある。

 味噌づくりも70名位の参加で、過去最高の参加者数ではなかったかと思う。しかも小雨に降られた。どうなることかと思ったのだが、素晴らしいことに、少しの問題もなく、見事に流れた。

 特に子供たちが、10名以上いたと思う。楽しく遊んでくれたと思う。MAGOの森の味噌づくりに子供たちが沢山いてくれたのは、嬉しい限りである。参加できてよかったと思う。

 なぜ、こんなことが実現できているのか。考えてみれば奇跡的なことだろう。米を作り、大豆を作り、麹を作り、味噌を仕込む。この一連の流れを、農の会の仲間の力で実現している。しかも、70名もの味噌づくりである。

 こうした心で繋がった活動が次の時代の方角を示している。私が離れて1年以上たつ訳だが、私がいたころよりも見事に盛り上がっている。この仲間なの力というものこそ、次の時代の希望だと思う。

 若い人たちもたくさんいた。子供たちもたくさんいた。みんなの心の中にこうした活動が灯火を灯すことを願っている。大豆の会の皆さん、ありがとうございました。

 

 

 

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あしがら農の会味噌つくり募集中

2019-12-23 04:38:08 | 自給

収穫された大豆。小田原の家で乾燥をしている。

 あしがら農の会では味噌造りをもう20年以上している。大豆を作るようになってからでも随分長くなった。とても味が良い味噌ができる。味が良い理由は、小糸在来種という大豆にある。この大豆を有機農法で作っている。

 様々な有機大豆を、ゆでて味比べテストをしてみたが、あきらかに農の会の小糸在来種が美味しい。手前味噌と言うことはあるが、目隠しテストで全員の選択であった。それ以来他の大豆には関心が無い。

 農の会では味噌造りをすると言うことは大豆を作るところから始める。お米を作り、米麹を作る。作物に関わる所から始めて、自給の味噌造りをすると言うことだと考えてきた。大豆栽培を体験してみて始めて、味噌を作ると言うことがどういうことだか分かるのだと思う。

 今年は珍しく大豆の会参加者以外にまで募集できる沢山の大豆ができた。大豆は誠に不思議な作物で、これで作物の生理が把握できたという感じがまるで無い。まだ、今年は何故か上手くいったというぐらいである。

 上手くいったと言っても反収で300キロまでは行かない。有機農法で、在来種で作るとこのくらいが限界なのかもしれない。しかし、豆を見ていると、例年以上の味に違いないと思う。

 農の会の味噌造りはお祭りである。“自給祭”が表のお祭りであるとすれば、内々のお祭りとなる。みんなでMAGOの森という巨木の森に集まり、巨大なお釜でわいわいと楽しく味噌を仕込む。これがほんとうの人生の楽園の楽しさだと思う。

 私は暗いうちから三線を持って、参加をする。下手な唄を唄いながらたき火を囲む。そんなこんながたのしいので、寒いのに味噌造りには小田原に行きたくなってしまう。昼食は1品持ち寄りでみんなで食べます。これがすごい料理が例年集まり、驚きです。今から、味噌料理を考えています。ゴウヤの味噌漬けなどどうだろうか。石垣牛の味噌漬けの方が、喜ばれるか。

 今年は以下書いた要領でのこり数口を一般募集をします。滅多に無い機会だと思います。是非この機会を逃さず参加してみてください。味噌造りにはでれないが大豆は食べてみたいという人には、笹村が勝手にですが、メール連絡をいただいた方に大豆を味見用くらい送らせてもらいます。

 枝豆で食べても、とても美味しい品種です。この小糸在来種からできた農の会大豆に種として興味のある人には、種を送らせてもらいます。ただ、大豆は土を選ぶようです、場所が変わると味が変わるようです。

 笹村までメール sasamura.ailand@nifty.com で連絡ください。

 募集は最大40口まで(1口で味噌の仕上がりが約10キロ)

10キロは消費し切れず、興味がありながらも二の足を踏む方という方も多いので、今年も半口単位の申込を受け付けます。
しかし、セイロで米を蒸す際の組み合わせが複雑になるので、できるだけ1口単位でお申込みいただけると助かります。
(お知り合い同士で組んで1口申込み。。。という手もありますよ)


【1月19日(日)麹の仕込み】
1口あたり2升の米を蒸して麹菌を仕込みます。(作業時間2~3時間)
その後2日間ほど、自宅で温度管理して発酵の手助けをし、完成させます。

最初の12時間以降は付きっ切りでなくても、どうにか温度管理できますが、出かけっぱなしのご予定がある方は難しいと思います。ご注意ください。


【1月26日(日)味噌の仕込み】
大豆を大釜で煮て各自が仕上げた米麹と塩と混ぜて1口約10キロの味噌を仕込みます。
朝9時から午後3時頃まで終日作業の予定です。

1月18日と25日に、それぞれ翌日の【準備作業】があります。
人数が集まれば早く完了するので、是非皆さんご参加下さい。

【参加費】
大豆栽培作業に参加した方 1口2,000円
味噌づくりのみ参加の方  1口5,000円
(半口希望の方も受付可)

☆★☆★☆★今年は参加費の割引制度導入☆★☆★☆★

《割引その1》準備作業に出ると1回1口あたり250円引き!
→栽培作業に参加した人で準備作業両日出ると、1口1500円に

《割引その2》2口申し込みで、さらに2割引き!
→準備作業に出ない場合、2口4000円が3200円に
 2回準備作業に参加すると2400円で2口作れちゃう!

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

【お問合せ・申し込み】
藤崎智子
E-mail: tomokofujisaki@silk.ocn.ne.jp
なるべくメールでお願いします(*^_^*)

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タマネギ苗の植え付け

2019-12-12 04:36:09 | 自給

 タマネギ苗の植え付けを行った。舟原ため池の上にある2反の畑である。今年は16名の参加だそうだ。一人分が1,1m巾のベットで8mの長さである。私の植え方で、400本が植えつけられた。今年は渡部さん方式の高畝栽培である。

 理由は初めての畑で、数年前までは栗が植わっていた。もしかしたら、その前はみかん畑の時代もあるのかもしれない。いずれにしても耕土が浅く、一年目は畑としては、有機農法で行うのでかなり困難だと思われる。

 土壌診断の指導の際、畑の断面を見るように言われた。この時畝の下の方が、通路よりも深く柔らかく耕土があった。ベットの中で根が充分に活動できるという事が、玉ねぎにもいいのではないかと思った。この畑の断面を見ると、耕土は10センチ以下だと思われる。


小さなタマネギ苗、大丈夫だろうか。ともかく全部植えた。

 昨年のタマネギ栽培では、私の部分だけ植え付け後ひと月穴あきビニールを掛けた。これでタネバイを防ぐことができた。今年はどうなるかはわからないが、今年は全員分をビニールトンネルにする。これは舟原ため池の畑が寒い場所という事もある。植え付け1か月寒さや風にさらされると、弱ってしまう事がある。

 タマネギは寒さに弱いようだ。特に12月入っての植え付けでは活着するまでに弱ってしまう。これを防ぐためにも根付くまでは保温風よけは大切だと思う。タネバイに関してはまだ未知数である。12月になってしまったのは苗の成長が遅かったことがある。これは小田原周辺でタマネギ苗を作る人の多くがそうであった。天候が良くなかった。

 苗は自分たちで作ったものを16人で分けたのだが、一人250本である。根切り虫にやられて、だいぶ数が減った。加えて今年の久野の天候はタマネギには最悪の展開で、どこでも生育が遅れたらしい。いつも苗を分けてくれる方が、今年は無理そうだという。


 こんな感じでそれぞれに高いベットを作った。ベットを作る前にそばかすを撒いて、トラックターで耕してある。それでもそれほど深いものではないから、通路になる所を掘り下げて、ベットを作った。これで耕土が20センチくらいにはなっただろう。

 私は鶏糞を一袋撒いた。鶏糞は家の鶏小屋から持ち出した古いものである。これをベットを積み上げる際に良く土と混ぜた。玉ねぎはそれなりに肥料がいる。新しい畑では良く育たないと思われる。冬の作物は肥料が不足すると生育が悪くなる。肥料の吸収が冬は悪い。


 400本植え付けて、365個のタマネギが目標である。ただ苗が小さいので、どれだけ育つかは未知数である。苗を探したのだが、12月7日ではもう売っていない。売っているところをやっと見つけたのだが、枯れかかった湘南レッドの悪い苗だった。

 他にあるのかどうかも分からないので、ダメでもともとと思い、買う事にした。50本100円でいいという事だった。150本購入した。これで数だけは400本になった。半分育てばいいかなというところである。

 タマネギ部会はあしがら農の会の念願の活動だった。根守さんが苗作りを指導してくれた。250本づつ配布できたという事は一歩前進である。専業農家でもうまく行かなかった天候の中、かなりの成果である。根守さんは自分では1500本植えたそうだ。根守さんの技術の向上は目覚ましいものがある。


 農の会には畑の会があり、その中で、小麦部会、タマネギ部会、ジャガイモ部会がある。保存できる作物をみんなで作ろうという事である。自給の為には共同でやる合理性を見つけて行こうという事である。

 一番は技術的な成果があったという事だろう。例えば、栽培に関してはそれぞれである。私の場合は養鶏をやっていて、今も鳥がいるので、発酵が進んだ養鶏場の床を入れる。米ぬかだけでやる人もいる。畝を高くしない人もいる。様々やってよくできた人のやり方が、次回の参考にされている。

 黒マルチを使う人もいるのだが、私も使ったことはあったのだが、どうも間から出てくる草が抜きずらくて、草を取ると玉ねぎ自体の根回りを壊してしまい、どうも球が太らない。それ以来使ったことがない。

 結局はタマネギは草が嫌いだ。今年、タマネギの間にライ麦を播いた人がいた。私の予想ではタマネギの生育を阻害するのではないかと思う。玉ねぎはタマネギ以外の植物が嫌いな気がする。大胆な試みである。



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大豆の収穫から小麦の播種まで

2019-12-03 04:08:14 | 自給
 
 大豆の収穫を12月1日に行った。大豆畑は3か所に分かれていて、全体では1反5畝ある。収量は320キロだった。品種は小糸在来種である。反収で215キロである。神奈川県では150キロが平均収量だから、今年はよく採ったという事だろう。完全乾燥ではないが。

 久野に移動してから、久しぶりの豊作であった。しかもとれた大豆はずいぶんきれいな良い大豆である。栽培法で苦労を重ねていたが、やっと久野の畑でも下大井時代に匹敵する収量になった。うれしいことだ。

 酒匂川のそばの田んぼ跡地でやる大豆栽培と、山の傾斜地でやる大豆栽培ではだいぶ違う。土壌が違うとこうも大豆の様子が変わるものかと思った。山の畑の方が難しい。大豆の会で繰り返した研究の成果がやっと実った。農の会らしい経過だ。

 3つに別れた畑の中で、一番とれたのが炭素循環農法の畑である。トレンチャーで深い溝を掘って、チップを大量に入れた。その溝の間に大豆を播いた。畝間を30㎝、株間は15センチ、狭く密に撒いた。株自体は比較的細い。

 しかし実の付き方がとても良かった。私は大豆は畝間が狭い方が取れると考えているのだが、広い方が取れるという人が多いもので、私の考え方はここだけで採用された。来年もう一度試させてもらえればと思う。栽培法の探求が好きだ。


 土壌分析では一番良い総生寺裏の畑の大豆が、一番収量が少なかった。株姿はずいぶんがっちりしていて、しかも根も抜けないほどしっかりしていた。畝間も株間もかなり広かった。ところが草型だけ見れば最高の状態の畑が、収量的にはあまり良くなかった。
 
 簡単に言えば、草ボケという奴ではないだろうか。大きなカブの中にパラパラとしか実が付いていないのだ。昔下大井で良くできたのは田んぼだった。田んぼ跡地で肥料分が少なかったという事なのかもしれない。今回一番窒素が足りない炭素循環農法の場所が良く大豆が出来た。

 大豆は不思議な作物である。欠ノ上田んぼの大豆はサヤは付いたのだが、残念ながら実が膨らまなかった。この理由もよく分からないでいる。カメムシだというせうもあるが、どうも私には納得は行かない。いくらかあった大豆は硬くて、美味しものでもなかった。こちらの品種は岩手ミドリである。



 総生寺裏の大豆の収穫は午前中に終わった。終わってすぐにそばかすを30袋を播いた。そのあとすぐ渡部さんが来て耕してくれた。そして、翌日の朝から、小麦の種をまいた。品種はパン小麦のハルユタカである。播種器は大豆の蒔くベルトを一個おきにした。

 それでも少し、多く播くことになった。1反で5キロぐらいは播いてしまったのではないか。畝間は30㎝の所と45㎝の所がある。30㎝で進めたら、足りなくなりそうだというので、45㎝に変えた。又余りそうだというので、30㎝に戻した。どうも種が多く落ち過ぎた。これは栽培にどういう影響があるのだろうか。

 天気は小春日和で種まきには最高の日和だった。9時に初めて、12時に丁度終わった。トラックターで耕した場所は楽だった。耕運機の場所は均しも大変だし、播種もてこずった。

 終わって家に帰ると、大豆の会の委員の人が、大豆の選別をやってくれていた。どこか疲れていた。大変だったらしい。豆腐の分と自給祭用の分だ。何か丁度良くいろいろの片付く日だった。

 来年は種まきゴンベイ機の小麦播種用のベルトを購入した方がいいのかもしれない。来年も小麦の会が続けばの話ではある。



 午後は2時から、大麦の播種をしに行った。こちらの畑でも渡部さんがタマネギの畑の準備をしてくれていた。お願いして一番下の田んぼ跡115㎡を耕してもらった。

 ここに大麦を播くことにした。大麦が取れるほど育つとも思えないのだが、緑肥にしてもいいので、播いて見ることにした。

 大麦をやるにしては、寒い場所だ。肥料分が足りない。足りないどころか今年の田んぼの様子を思い出すと、肥料がほとんどない感じだった。その上に、もう播種時期も遅れている。できるとも思えないのだが、大麦の種もあるから、一応播いてみた。追肥追肥で行ってみたい。

 土寄せもしたいが、発芽するころにはもう石垣島だから、かなり無理な栽培である。そうだ今の内に、二見堆肥を撒くことにする。二見堆肥は匂いが強いから、イノシシが来る。入れない様に柵をしっかりする。

 二見堆肥を撒き終わったところで雨が来た。雨は一気に強くなった。これで堆肥が飛ばされることは亡くなったのだが、土の上から播いた堆肥で効果があるのかどうか。

 この後藁を被せることにした。防寒の為である。効果があるのかどうかは分からないが、こういう試すのが好きだ。



 大麦の畑を渡部さんが耕してくれているところ。狭い畑で苦労しただろう。


 大麦を播種の終わった田んぼ跡の大麦畑。この上に二見堆肥を撒いた。この上に今日藁を播いて置こうかと考えている。藁を播いた方が、少しでも寒さを防げるかもしれない。

 麦の会はなかなか難しい。参加者が安定しない。辞めるのは簡単なことだが、それでも続けたいと思っている。それは麦の栽培が消えかかっているからだ。イネ作り以上に危機的な状況だ。パン屋うどん屋みんな好きなのに、小麦栽培が消えては困る。

 
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土壌と腐植の関係を知りたい。

2019-11-28 04:02:08 | 自給


 農業を始めて「土壌とはどんなものなか。」考え始めた。土が良いから作物が出来る。土が悪くて作物に病気が出る。農家であれば、誰もが言う事である。しかし、土壌のことは分かるようでわからないことばかりだった。

 土壌分析で良いとされた土壌が、良く作物が出来る土壌ともいえない気がしてきた。良い土壌が分析でわかるのかどうかさえ怪しいと思っている。土壌分析は一般の農業向きのもので、化学肥料で何を補うえば良いか分析している。

 土壌が持っている限界は化学肥料と農薬でかなり乗り越えたのだろう。しかし、長くこのやり方で続けると、土壌が疲弊してしまうような感じである。そうした畑をお借りしたことがあるが、様々な困難が起きた。
 腐植の問題ではないかと土の様子を見て考えた。腐植量を知りたいと考えて土壌検査をしていた。ところが、土壌検査の腐植量とは炭素の量を調べて、係数をかけたものなのだそうだ。一気に土壌検査に興味を失った。今まで何を見ていたのかと思う。

 ご先祖様から代々大切に土地を受け継いでゆく日本の農業では、土壌が未来永劫使えるものとして、自分の代で少しでも良いものにして、子孫に残したいという思いが続いてきた。こうした土地と離れがたい関係が日本の百姓の運命のようなものであった。

 近代農業は化学肥料と農薬で、様々な困難を乗り越えたつもりでいたら、農業を続けている間にできた畑の土壌が植えこみ素材に過ぎなくなった。土を止めて、工場農業の様な水耕栽培でも変わらないという農業である。農の身土不二の考え方から言えば、かけ離れた世界である。

 土壌は上手く農業を続けて、作り上げれば、肥料などなくても作物が育つようなものになる。腐植を増やし、微生物が沢山住めるような土壌になれば、そこで太陽の光と大気からの吸収で生まれる肥料分で作物が出来るような土壌になる。と自然農業では言われている。

 このことを確かめたくて農業をしてきたような気がする。収穫する作物よりも、気がかりなことをはっきりさせたくて、もう一度、もう一度で続けてきてしまった。

 土壌を完成させることを目標にしているのが自然農業なのだと思う。そんな土壌はあるとしても極めて特殊な事例だろう。あくまで目標であり方向に過ぎないと思っている。百姓は未来に理想を置き、それに向い努力することを大切にしてきた。と考えた方がいい。
 
 そんな土壌がどうすればできるのかで、自然農業にも様々な農法が存在する。例えば叢生栽培であるとか、不耕起栽培であるとか、炭素循環農法。緑肥栽培。輪作もある。いずれの方法であっても良い土壌を作ることが目標になる。農業に良い土壌とはどんな土のことか。

 先日、MOAの大仁農場の方が、農の会の諏訪の原の圃場の土壌調査に来てくれた。その時に穴を掘って土壌をよく観察することが大切ですよと言う指摘だった。案外農家の人は自分の畑に穴を空けて見ていないものですよ。そんな馬鹿なと思って穴を掘ってみて驚いた。基本に対して、自分の不明を恥じることになった。

 10メートル離れるとまるで土壌の中の様子が違うのだ。10㎝掘るとと固くなるところもあれば、30㎝でも柔らかいところもある。同じ畑でもわずかな場所の違いにによって大きく違うのだ。これには驚いた。確かに畑を細かく掘ったことはなかった。

 以前見学に行った大仁農場の土壌は簡単に1メートルも棒が刺さってしまう。石綿さんの畑もそうだと言われていた。これはそう簡単なことではない。深く耕したからそうなったのではなく、何らかの作用で深くまで柔らかくなったのだ。

 私の土壌の感覚では、深くまで柔らかいから、いい土壌とまでは言えないと感じている。1メートルも作土層のある土壌だから、作物が収量面で多いという訳ではない。大抵の作物が必要とする作土層は30センチ程度のものだ。

 作土層の下にある土壌の浸透性が問題になるのだろう。普通には田んぼであれば、浸透性はない方が良い。畑であれば水は抜けてくれなければだめだと考えられている。

 自然農法ではあまり収量を問題にしない。収量がそれなりにあり、しかも土壌を良くしてゆきたい。そうなるとまたいろいろ違う問題が出てくる。欲張るのは良くないと言われるが、収量は最も説得力がある。収量の低い農法では、普通の農家が取り組まないのは当たり前のことだろう。

 どれほど生命力のある作物だと言われても、収量が少ない農法ではやろうという人は出てこない。本当の意味で良い土壌であれば収量も多くなければならない。収量が多い土壌が良い土壌である。農業であれば、当たり前のことと思っている。

 良い土壌とは腐食が多い土壌だと考えている。どうやって腐植を増やすかである。大量に堆肥を入れればよい土壌になるという訳でもない。土壌にとっては良いものであれ、突然の大量の堆肥は異物だ。なじむためには時間が必要になる。耕作をしながら、腐植が増えるような農法を目指したい。

 この本当の腐植の量がわかる土壌検査が欲しい。耕作の方法で、腐植が増えたり、減少したりする実態を把握したい。腐植量の変化が分かれば、今の農法が正しい方向かどうかがわかる気がする。

 腐植は植物が落ち葉や倒木により、腐って土に戻ってゆく過程だと考える。腐るとは微生物が分解をしている姿だ。微生物の生活しやすい状態を土壌の中に作り出す。腐植は微生物が分解し減少してゆく。畑では常に腐植を加えてゆくことが必要になる。

 間違っていたというのは土壌検査に出して戻ってくる腐植量というのは、炭素量に係数をかけたものだというのだ。これは本当の腐植ではない。土壌にはそもそも含有されている炭素量がある。

 私の耕作している場所の大半が、富士山の火山灰が中心の土壌だ。その土固有の炭素量がある。この炭素はもともとは腐植由来であるかもしれないが、いわゆる堆肥のような腐植とは全く性格が違う。

 私のように燻炭が好きで、燻炭を何かと畑に使った。その燻炭のかけらが土壌検査の採種する土に偶然混ざれば、炭素量はかなり高いものになるだろう。測定に使う土壌は2グラム程度だそうだ。実際どの程度正確なものだろうか。

 腐植を増やす努力をするのは大切だが、これが土壌検査の結果に反映することはないと考えるた方が良いようだ。そんな感じだとはこれまでの経験的には感じていた。

 だとすると、今の所、自分の目で土壌を見分けるという事になる。穴を掘り土の断面をよく観察する。これが重要な土壌の見方である。

 穴を掘り、日の当たる側をきれいに断面化する。そして横から観察すると、土が深さによって変化することがわかる。20センチで変わるか30センチで変わるか。これは物理的な変化である。耕運したことない地層、あるいは植物に根が入り込んだことにない土壌は作土層ではない。

 断面の堅さをはかる。これは重要なことだと思う。硬度計というもので測定をしてみた。15ミリくらいまでなら作土層として使えるらしい。柔らかいなと感じるような土壌だと10ミリ以下になる。20ミリになると硬い土だなという状態だった。

 断面の違いは、腐植の量の違いがなんとなく見える。いかにも腐食がある土壌と、これは全くないというような土壌は見た目で分かる。上の方の層は様々なものが混ざっていて、空隙がある。断面をたくさん見ている内にそんな違いがだんだん見えてきた。

 大抵の場合、50㎝掘れば堅い層が穴の底の土壌になる。観察するとここが濡れているような土壌であると、浸透性のない土壌という事になる。この硬い層の水の浸透性が重要になる。硬くても水が沁み込む土はある。

 少しくぼみを作り、水を入れてみた。沁み込めばいいが、長く水が溜まるような土壌であれば、水が通らない土壌の場合、何らかの方法で、水が抜けるような層にしなければならない。硬い土壌を突き破る緑肥作物を作る。

 作土層は20センチあれば十分である。ここの腐植の量が重要である。それでよく分かったのは、渡部さんがやる「高畝農法」は植物の利用の中心になる土壌はかなりコントロールできるという利点がある。研究する価値がある。

 
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自給自足生活と晴耕雨読

2019-11-27 04:36:21 | 自給


 自給自足生活はやり尽くした気持ちがある。これだけは一応やったことだなという気がしている。一日1時間100坪の土地の自給。これは達成できた。そういう時間が持てたという事が思い出しても嬉しいことである。

 この暮らしは晴耕雨読というようなのんびりしたものではなかった。晴れれば草刈り、嵐の最中での片付け。いつもすべてに神経を張りつめていなければ自給はできないものだった。やはり相当に厳しい暮らしである。一時間の労働であるとしても、24時間集中していて、一時間働くというような具合である。

 晴耕雨読という時の、晴れて耕すのは庭の草花くらいなのだろう。これは自給自足とは関係のない趣味的な言葉なのだと思われる。そんなことはあり得ない暮らしを晴耕雨読というように言うらしい。

 これは誤解を生むと言葉だと思う。言葉は怖いもので、やってみたことにない人は、自給自足の暮らしをこの言葉で想像しがちである。何度そう言われたことか。雨の中の田植えや、台風に備えての稲刈り、これが普通の自給自足生活である。

 と言ってもつらいのではなく、大変だからこそ面白くて仕方がない暮らしだった。この面白さは、生きているという充実感がある。辛くて良かったという事ではないかと思う。

 晴れた日だけ農業をやるようなことは、実践的にはあり得ないのだ。だからこれは農家的な言葉ではない。仙人のような人が、気分転換に畑を耕すというようなことなのだろう。生産とは程遠い話である。

 時代は階級社会に進んでいる。機会均等というような社会には進んでいない。それは資本主義が国家資本主義と呼ぶような、競争の激化によって階級が生まれている。70年を分水嶺として、この50年間は階級が生まれてくる過程だった。

 今出来上がりつつある階級とは、経済的な既得権による階級である。加えて能力による階級である。この能力による階級は経済的に優位なものが、その有利さによって能力をさらに高められるという形になり始めている。

 そのことは時代の方向であり、あがなっても無駄だと最近は考えるようになった。革命とか、戦争の敗北とかで、既得権がひっくり返らない限り、世の中の方向は変えられないと思うようになった。

 だからこそ、自給自足に意味があると思うようになった。人間が生まれてきて死ぬという事は、自分の生命をどこまでやり尽くすかという事だ。自分というものの奥底まで行けるかという事である。名を遺すとか、勲章をもらうというようなこととは全く関係がない。

 自分という命に突き当たるためには、ずいぶんよい時代になったともいえる。農業資材もずいぶんよくなった。農地は借りやすくなった。地方によってはいくらでも空き家がある。生きてゆく場は広がっている。

 階級社会とは言え、都会で暮らそうと思えば、誰にでも下層民としての暮らしはある。若い人が働いていて、生きて行けないという事はない。たぶんそれはこの先も同じだと思う。都会で人間らしく生きることが出来るかと言えば、それは上級国民にだけ許されたものである。

 そういう事にはかかわらない方が良いというのが、実感である。身の丈に応じないでかかわろうとすれば、心を病む事になる。無理がたたるのである。無理をして成りあがった人のみすぼらしい心が目立つ。人間を追求していきたいと思うなら、そんな競争に初めから乗らない方がいい。

 いじめの学校に通わなくてもよいのと同じである。いじめのない学校にするような努力は、いじめられている人が出来るものではない。違う道があるという事でいい。自給生活の道はそういう道である。人間は身体を動かせば、何とか自給自足で生きて行ける。

 山北で挑戦したときは、機械力を使わないことを条件にした。その頃はまだ、世田谷学園に週3日勤めていた。自給自足生活が出来るようになれば、辞めようと思いながら、東京まで通う生活だった。できるかどうかも未知数だったので、学校が止められなかったのだ。

 まだ30代であったが、3年間学校勤めと自給自足の模索が重なっていた。条件は相当に悪い場所であった。山の下から、水を担いで、45分は歩く場所だった。家と言っても、物置を配達してもらい、組み立てたものである。

 その狭い物置に寝て、開墾をやったのだから、ひどいもののようだが素晴らしい経験だった。苦労などと少しも思わない。標高300メートルの北斜面のスギ林である。土壌は富士山の宝永の噴火で飛んできた、火山礫が60㎝は積もった場所だった。それでも3年で自給自足が達成できた。

 楽しんでやれた。暮らしを楽しめる人ならできる自給生活である。少しも恐れることはない。若い人には良い時代が来たともいえるだろう。今の私ならば、石垣島に入ったと思う。あの石垣の大変な土壌をなんとか耕作できる土壌にしてやろうと思う。その方法を見つけて残したいと思うだろう。

 
 
 
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次の時代の生き方に必ず役立つ自給の為の2冊の本

2019-09-24 04:13:47 | 自給

大豆畑の一つ、大豆畑はあと2つある。

 先日10年後の世界のことを書いてみた。日がたつにつれて、外れていないような気が強まっている。気候変動などほとんど対策が取られないまま、10年が経過するだろう。一国主義経済は解決できないだろう。世界の人口増加は止まらないし、日本の人口減少も止まらない。

 日本はいかにも安倍総理大臣なのだと思うようになった。私が安倍氏を嫌いなのは、安倍氏が自分の中の否定しなければならない、醜い部分を体現しているからなのだと思う。それは格好つけであり、口先だけであり、拝金主義である。

 安倍氏のことも日本のことも諦めるほかないと思うが、次の世代の人たちが、この悪くなる世界の中でどう生きるかは、厳しいものになるだろうと思う。そんなことを言っているだけでは、こんな時代にしてしまった一人として、申し訳ない限りである。

 次の社会で自分らしく生きるには自給自足的生き方ではないかと思っている。資本主義末期の社会に巻き込まれず、それぞれの生き方をするためには、自給自足的生き方だ。

 食糧の自給自足は一日2時間の労働で可能だ。極端に言えば、勤めながらでも作り出せる時間である。勤めていたとしても、自分の自由になる時間の大半を食糧自給に充てれば可能なことなのだ。

 私は30代後半に自給自足に入ったのだが、それからかなりデーターを取りながら、やってきた。機械力を使わない自給自足である。化石燃料を使わない自給自足である。今後機械力に頼る自給自足は不可能になる可能性があると考えていた。自分という体力だけでの自給自足を試みた。

 それは3年で可能になった。体力のある30代だからできたのだと思う。チェーンソウもなく。耕運機もなく、かりばらい機すらない自給自足である。70になって何故できたのだろうかと思うが、確かにできたのだ。

 その頃は、世田谷学園に週3日間勤めていた。自給自足と自然養鶏が出来るようになったらば、勤めは止めようと考えていた。その自給自足生活を人に伝えようというのが、あしがら農の会であった。

 一人の自給よりも、みんなの自給である。30年前に自給自足を始めたころ、私が死んでしまうころの日本は行き詰まると考えていた。そんな時代でも、自分らしく生きるためには自給自足しかないと考えていた。

 自給自足をやってみて、一番の課題は技術の伝承だと思った。機械を使わない農業には伝承されるべき技術が失われていた。その為に技術を自分で見つけて、残さなければならないと考えた。それが「発酵利用の自然養鶏」「小さな田んぼのイネ作り」の2冊の本に残したものである。

 自給自足をする人にはこの2冊の本は必ず役に立つ。この本に書き残した技術は直接役立たないかもしれない。農業は地域が違い、土地が違えば技術もかなり違う。今後気候が変われば、さらに違う事になるだろう。しかし、この2冊の本に書き残した考え方は参考になるはずである。

 考え方としては自給自足はみんなでやるものだという事だ。自給自足が自己満足に終わってはならないと思う。自給自足の生き方を次の人にバトンタッチすることが大切だと思う。技術は伝承されなければならない。

 一人の自給自足の半分の時間でみんなの自給は可能になる。この点、私たちの世代よりも可能性は生まれていると思う。私たちの世代は、つまらない自己主張世代で、上手く力を合わせるという事が苦手だ。しかし、若い人たちと接していると、とても調和できる才能がある。

 技術を獲得すれば、半分の時間の自給自足になる。一人の自給がみんなの自給になれば、また半分の時間の自給になる。つまり、4時間かかる自給が、1時間の自給になる。これは私の実体験である。何十年も一日の自給の為の労働時間を記録してきた結果分かったことだ。

 完成された形では一時間で自給自足が出来た。確かに、自給を完成させた人にしてみれば、みんなでやることは負担になるのかもしれない。しかし、長い目で見ることが出来れば、みんながいるからできるのだ。一人で続けている人の結果をみてみると、それはよくわかる。

 人間は人と助け合う事で、人間を深めてゆく。一人でいれば、独善になり、奇妙な歪みを持つことになる。自給が人間として豊かに生きるためのものであるにもかかわらず、自分の人格をやせ細ったものにして行く。それくらいならば、勤め人として生きた方がマシではなかろうか。と言ってもそれはやったことがないからわからないことだが。

 自給の為の本を2冊書いた。自然養鶏と田んぼだ。自給自足にこの2つの組み合わせは大切になる。実はあともう一つ、自給の為の野菜作りを書こうと考えていた。残念ながら、これは出来なかった。大豆、小麦、タマネギ、トマト、これは自分なりには挑戦したのだが、難しくて完成できなかった。

 農の会では引き続き挑戦を続けている。かなり技術が整理されてきている。様々な野菜を含めて、根守さん渡部さんを中心とした、有機農業塾。そして、大豆の会の太田さんの技術。お茶の会の技術も価値がある。

 農の会の力で、これがまとめられれば、完成という事になる。あと5年小田原に通い。何とかこの本がまとめられるまでかかわることが出来ればと考えている。


 
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