あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

鎌倉街道上道を歩く② =群馬藤岡から用土まで=(群馬・埼玉)

2023-09-04 21:15:40 | 鎌倉街道上道を歩く
 第2回 2002年3月30日(土) 〈群馬藤岡から用土まで〉

 前日の大雨が去り、好天となったJR八高線の群馬藤岡駅には、前回より多い13人集
まる。




 私が用意した地形図と、Kaさんが、読みやすいように8時間余りかけて文字の上下を入
れ替えたという「鎌倉街道夢紀行」掲載の地図を持って、9時50分に駅を出た。

 =神流川を越えて埼玉県へ=

 まず、八高線の西に平行する道と南に向かう。大きな鬼瓦のある寺があった。南側から
回ると大本堂が新しい成道寺。鬼瓦があるのは旧本堂らしい。

 鬼瓦は屋根の上下だけでなく中間にもある。庭には大きな布袋さんが座っていた。

     

 寛政9(1797)年銘の道祖神の横から踏切の東に出る。梨畑ではもう花が咲きだし
ていた。国道254号線に合する手前の寿楽寺にも、大きな鬼瓦が載っている。


 神流川(かんながわ)の藤武橋を渡る。北西の風が強くて帽子が飛ばされそう。男体山
や赤城山、浅間山などの展望が良い。河原の枯れ木立の間にはナノハナがたくさん咲く。


 橋の途中で埼玉県に入る。県境は神川町だが、200mほどでいったん上里町を通過し、
橋を渡り終えて堤防沿いに南へ、元肥土集落に入る。

    
 庚申塔や道祖神の並ぶ↑カーブの右手に見えた広野神社で最初の休憩。大きなケヤキが
2本あり、若桜が満開。

 小さい祠(ほこら)に、「肥土の石棒」と呼ばれる長さ156㎝の石棒が祀ってあった。
近くから出土したもので、縄文時代のものと考えられているようだ。

 中肥土の火の見の先で鎌倉街道に入り、神川町役場に寄る。


 八高線に乗り遅れた人がいないか、丹荘駅へ確認に行ったがいなかった。

 =桜が満開の雉岡城址=

 昨年6月の例会でも歩いたポピー畑の横を進んで線路の北に出る。


 八高線をまたぐ道路下にある女堀川の雀の宮橋↑を渡ると児玉町。

 ボーリング場の角から国道254号線に入り、町の中心街を進んで12時55分、雉岡
(きじおか)城跡である城山公園に着いた。
     
 雉岡城は八幡山城とも呼ばれ、中世、上杉顕定の居城として築城、その後、鉢形城主・
北条氏邦の持城となり、小田原北条氏の滅亡とともに落城、慶長6(1601)年に廃城
になった。
     

 園内を覆うようにソメイヨシノが満開。露店も出て家族連れなどで賑やか。昨年の例会
では葉が茂って薄暗い感じだったが、今日は花の下で明るい。



 持ち寄りのおかずや果物など、いろいろいただきながら昼食と花見を楽しんだ。




 =児玉町から小山川へ=

 13時45分に出発。消防署の横を入り、昨年の例会でも寄った実相寺へ。拝観は出来
ないが、本尊の阿弥陀三尊は寄せ木造・玉顔で鎌倉中期の作。

     
          本堂前のシダレザクラが満開である。
          

     
     国道のT字路を右折すると八幡神社。


 平安末期、源頼義・義家により創建と伝えられている古社。享保7(1722)年再建
という社殿の彫刻が緻密で見事。


 珍しい青銅造りの鳥居とともに、県の有形文化財である。広い境内には、筆塚や高札場、
講の参詣記念碑が幾つも並ぶ石塚などがあり、大きなケヤキも目についた。
     

 神社の裏手、東北にある玉連寺は、文永8(1271)年に日蓮聖人が佐渡流罪の折、
児玉六右衛門時国邸に1泊した地。時国は日蓮入没後に邸宅を寺院にして、東光山玉連寺
と名付けたという。


 住職が、本堂を開けて見せて下さった。ソメイヨシノが咲く墓地には、高さ2.4mで
梵字が深く刻まれた鎌倉後期の板碑があった。
     

 寺の東側に出て鎌倉街道に戻る。法養寺の先で国道を越え、小山川の右岸を進む。川の
両岸は、樹齢10数年と思われる若いソメイヨシノの並木が続き、花が見ごろ。左岸は深
谷市内まで9㎞余りのサイクリング道路になっている。

 堤防を500m余りで「陣街道」と記された道に出て、一里塚榎の碑のところで国道254
号線に入る。一里塚には、樹齢300年を超す一本榎があったが10年ほど前に枯れ、い
まは切り株だけが残っていた。

 =摩訶池から猪俣党の里へ=

 15時を過ぎて疲れが出てきた。十字路にあり、昨年6月例会でも眺めた「鎌倉街道
(上道)のみちすじ」という大きな案内板をもう一度見て、来た道とこれからの道筋を確
認する。


 東側の摩訶(まか)池のそばにある東屋で休憩。昨年は気付かなかったが、池に接する
ゴルフ練習場の西側に、ふた子塚古墳と呼ぶ前方後円墳があった。

 木が1本立ち、枯れ草に覆われた古墳に上がってみた。
     

 昨年の例会でTaさんから読み方のクイズが出た、南側の瓺𦼆(みか)神社に参拝。延
喜式神明帳にも記された古社で、現在の社殿は宝暦13(1763)年の再建。
     
 「みか」とは、酒造りに使う大きなかめのこと。神社には土師器の「みか」が4個保存
されているという。社殿の龍の彫刻が見事。境内のサクラも満開である。

 鎌倉街道は、国道の西側をつかず離れずに進み、広木、白石の集落を抜ける。広木には、
万葉集にも歌われた布を洗い晒す井戸、曝井(さらしい)遺跡というのがあるが、いまは
水が無くて荒れ放題のようなので、寄らずに進む。

 白石の大仏集落の十字路に、延享2(1745)年銘の六道能化地蔵尊があった。この
辺りの家並みには、当時の雰囲気が感じられる。集落の東には大きな馬頭尊と庚申塔が立
っていた。東側には、やわらかな新緑の広がる遺跡の森公園の林が見える。


 天神川の手前で、鎌倉街道は国道254号線に合する。橋のそばに地酒、奈良漬けの天
仁という酒造店があった。川の東側の猪俣集落は、武蔵七党の一つ猪俣党の本拠地。平家
物語にも登場する猪俣小平六の館跡や墓もあるが、1㎞余り回り道となるので通過する。

 野中集落の十字路で国道は右折、鎌倉街道は直進なのでそのまま進み、すぐ先の普門寺
で最後の休憩。境内の20本近いソメイヨシノが満開。本堂西側には、古い石仏が50体
近く並んでいた。


 さらに1㎞余り進んで17時30分、無人のJR八高線用土駅に着いた。少し待ってく
れたが全員揃わず、タッチの差で上り八高線は出た。


 15分ほど離れた酒屋まで7人で行き、買ってきてくれた缶ビールなどで乾杯。18時
26分発の高麗川行きに乗る。

(参加 13人、天気 晴、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 藤岡、本庄、寄居、
 歩行地 藤岡市、神川町、上里町、児玉町、美里町、寄居町)




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鎌倉街道上道を歩く① =高崎から群馬藤岡へ=(群馬)

2023-09-01 20:24:48 | 鎌倉街道上道を歩く
 残暑が治まらず、新しいレポートづくりのための歩きが出来ないので、21年前の
2002年2月から11月にかけて歩いた、鎌倉街道上道(かみつみち)のレポートを
9回に分けて報告します。

 当時、私はまだデジカメでなくてフィルムカメラで撮り、プリントがやや色あせていま
すがご了承下さい。

========================================

 第1回 2002年2月16日(土) 〈高崎から群馬藤岡まで〉

 カントリーウオークグループの2月例会にて、「この指止まれ」で「鎌倉街道上道(か
みつみち)を高崎から鎌倉の鶴岡八幡宮まで歩きませんか」と呼びかけ、第1回をさっそ
くその週末の今日実施することにした。

 ちなみに鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網のことで、鎌
倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿のもとに馳せ参じた道。

 特によく知られるのが、上道(かみつみち、かみのみち)・中道(なかつみち、なかの
みち)・下道(しもつみち、しものみち)と呼ばれる関東地方を中心に広がる主要な幹線
道3本。さらに支線も加わり、いまも「鎌倉街道」の名を残すところも多い。

 このうち、鎌倉街道上道として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至
る古道で、鎌倉から化粧坂、瀬谷、本町田、小野路、府中、所沢、入間、笛吹峠、奈良梨
(小川町)、山名を経て高崎までのルートのよう。今回は、このコースを北から南へ、高
崎から鎌倉まで群馬、埼玉、東京、神奈川の1都3県をはせ参じようという企画である。

 なお、参考にしたのは、「鎌倉街道夢紀行 上道コース」(テレビ埼玉編、さきたま出
版会発行)である。
     

   本書に記載の鎌倉街道の全体図
   
      この図の左上、高崎から中央部下(南へ)鎌倉へのルートが上道

 =高崎駅から市内の旧跡へ=

 3人くらいは参加するかなと八高線経由で高崎駅へ行ったら、11人も集まった。

 駅西口をバックに記念撮影し、10時15分「いざ鎌倉!」へと出立した。


 穏やかな快晴でウオーク日和。まず西に向かい、鎌倉時代初期に和田正信が築いたとい
う和田城、のち井伊氏が大きく改修した高崎城跡へ。

 現在残るのは三の丸外囲の土居と堀、そして乾櫓(いぬいやぐら)と東門で、一帯は公
園になっている。


 公園と高層建築の市役所との間を南へ、噴水のある公園を抜けて光明寺横に出る。


 古墳上に護摩堂があったので、ここで旅の安全を祈願する。


 聖石橋に通じる車道を横切り小万坂を下る。国道17号線を横断、城南大橋下から烏川
左岸に出る。西側の展望が開け、真っ白な浅間山が見えてきた。

 少し先で左折、上信電鉄の踏切を越えると琴平神社。等身大の古い烏天狗が二つ立つ。
     
 本殿は小山の上。大ケヤキや大きなムクノキがある。北側の荘厳寺との間の細道が鎌倉
街道だと、Kuさんが寺の人に聞いてきた。

 細い路地を上越新幹線の東へ。和田多中町の三差路に双代道祖神があるのを、Kaさん
が見つけた。男女神が体を触れていないのは珍しく、県下で唯一のようだ。
     

 佐野窪町の三差路近くに、佐野の船橋歌碑があった。

 「かみつけの 佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」と万葉集
東歌の一首が刻まれている。碑文は文政10(1827)年の記。

 『橋には烏川を挟んだ二つの村の男女の伝説があり、謡曲「船橋」の素材になった。歌
碑は二人の怨霊を慰めるために建てられた』と記されていた。

 その先で案内に従い右折、新幹線線路際の常世(つねよ)神社に寄る。


     
 室町時代の謡曲「鉢の木」の舞台になったと言われるところ。小さな社の前に、佐野源
左衛門常世が鉢の木を切っている絵がある。

 一昨年秋の特別例会にて、今日参加されたIeさんの生家近くの佐野市内で、源左衛門
の館跡に寄っており、不思議な縁を感じた。

 200m余り先、新幹線西側の杉林の森に定家神社があった。創建は江戸時代中期で、
祭神は鎌倉時代の和歌の名人・藤原定家。本殿内には定家の
               「来ぬ人の 待つほの潮の夕なぎの…」の掲額がある。

 定家は、家督を子の為家に譲った後、この佐野の松原に庵を結んだという。境内には古
墳も2基あった。


 ここで正午になったが、昼食はおあずけ。東に浅間山古墳を見ながら佐野町を抜け、新
幹線の西に出て交通量の多い一本松橋を渡る。 橋からの浅間山や妙義山方面


 橋の西側が高崎商科短大。トイレ借用の了解を得て、烏川右岸土手にザックを下ろす。

 静かな川面の向こうに浅間、妙義、榛名などの山並みを眺めながら昼食にした。


 =山名八幡宮から古墳群へ=

 40分の昼食を終えて13時15分に出発する。車道を700mほど進み上信電鉄山名
(やまな)駅の横に入り、線路下をくぐって西側の山名八幡宮へ。

 太いケヤキが2本。石段上の本殿は、平成3(1991)年に塗り直したという極彩色
の「神を守る動物」の彫刻で彩られている。

 明和6(1769)年に上州田沢村の関口文治郎の刻。本殿は裏側からも参拝で来る珍
しい造り。本殿裏の丘陵に続く道が鎌倉街道だったからだという。


 山すそを南東に進み、展望のよい田園地帯に出る。上信電鉄の南側に高さ数mの古墳が
5つ並ぶ。そばの田んぼでは、放射状に発掘した遺跡を2人で調査していた。


 回り道して鏑川(かぶらがわ)橋を渡り、藤岡市に入る。上落合集落の南に、空堀に囲
まれた国史跡の七興山古墳があった。

 地形を生かした三段構成の前方後円墳。全長148m、後円部径87m、前方部幅106m
高さ16mという立派なもの。
     
 東側から、桜の古木に覆われた墳丘に上がって休憩。高崎の町並や、浅間、赤城から日
光連山にかけての展望が良い。



 花の咲く頃もう一度来てみたいところだ。南東からの↓七興山古墳


 北原集落の東には皇子塚古墳が見え、集落の南、未舗装の細い鎌倉街道のすぐ東側には、
大きな石碑の立つ稲荷山古墳↓があった。この一帯、古墳の多いところだ。


 =吉良氏陣屋跡から神流川へ=

 15時を過ぎたが、予定の道のりは長い。ひと休みしようと下郷の龍泉寺に寄る。

 説明板を読むと、「吉良上野介の父、義冬(よしふゆ)(1606~68)が創建した
と伝えられる寺。近くに吉良氏の陣屋が置かれていて、忠臣蔵では悪名高いが、ここでは
領民から慕われた名君だった」という。

 立派なシダレザクラがあ、花時は見事であろうと思われた。

 下郷橋を渡り、鮎川の左岸を1㎞余り進む。陽が傾き西側の山並みが逆光に映える。鮎
川集落を抜け、鎌倉街道は田んぼの中を南東へ。南町の十字路には、「右鬼石道、左藤岡」
と彫られた古い道標が立つ。

 庚申山の南側を緩い上り坂が続き、庚申塔や道祖神、二十二夜塔が並ぶ辺りから下り道
に。鎌倉街道は藤岡モータースクールの先から神流川に向かってさらに真っ直ぐ伸びてい
たようだが、橋がないので車道を別所集落へ下る。


 17時近くなり冷えてきた。集落東の田の畦(あぜ)で最後の休憩。打合せをして、地
形図上、八高線の鉄橋北にある「せき」マークまで行き、渡れないようなら群馬藤岡をゴ
ールとする。

 下郷集落の東に出た。土師神社の北に本郷埴輪窯跡があるようだが寄らず、手前から八
高線を越え、線路沿いに回って神流川の左岸堤防へ。

 河原に下る道を入り、せきの見えるところに出た。残念ながらせきは大水で流され、一
部しか残っていなかった。

 川の横断は諦め、うす暗くなった根岸集落から八高線の西に出て、並行する車道を藤岡
の町並みに入る。すっかり暗くなった18時03分、群馬藤岡駅に着いた。

(参加 12人、天気 快晴後晴、距離 21㎞、地図(1/2.5万) 高崎、藤岡、
 歩行地 高崎市、藤岡市)




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