2016年3月30日(水) 《続き》
食事を終えて春日通を少し南東に進み、徳運寺に寄る。

2階建て堂々たる本堂はコンクリート造り。ここも小石川七福神の弁財天の寺で、境内
に夢殿風六角屋根の小さな弁財天堂が祭られていた。

すぐ先の交差点から、東北東に緩やかに下る広い通りは播磨坂と呼ばれ、ソメイヨシノ
の並木の開花が進み「第45回文京さくらまつり」を開催中。

桜並木は、昭和35年(1960)に「全区を花でうずめる運動」で植えられたもので、
現在は127本あるという。

平成7年(1995)には「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、好天となっ
た今日はたくさんの区民で賑わっていた。

花見をしながら播磨坂を500mほど下り、都道436号・千川(せんかわ)通を横断
して新福寺前↓を過ぎる。

突き当たりが小石川植物園、右折して南東端の入口から入園する(大人400円)。
正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」で、もとは5代将軍綱吉の館林
城主時代の別邸(白山御殿)の地とか。
貞享元年(1684)に徳川幕府が当地に設けた「小石川薬園」が始まりで、日本最古
であるばかりか、世界でも有数の歴史を持つ植物園だという。
面積は16万1千㎡(4万8千坪)余りあり、台地、傾斜地、低地、泉水地など地形の
変化に富み、これを利用して多様な植物が配置され、国内から朝鮮、中国を含む東南アジ
アに分布する高等植物を中心に収集・栽培しているようだ。

入口近くに、精子発見のソテツがある。裸子植物に精子が存在することを、明治29年
(1896)に当時の東大農科大学の池野威一郎助教授が発見したという。

右に回り込み、坂を上がるとソメイヨシノの古木が見ごろ。本館の先はソメイヨシノ林
で、何れも見ごろに近く、観覧者も多い。



さらに進んで、ツツジ園のミカワツツジ↑や、大きなシナミズキ↓の花などを見る。

スズカケの古木やサルスベリの下を進むと、享保12年(1727)に中国から輸入さ
れたというサネブトナツメ(酸棗)という珍しい木もあった。

最奥部はスギ・ヒノキ林になっていて、都心とは思えぬたたずまい。左に回り込んだ高
台からは、眼下の日本庭園やその向こうのビル群などが望まれる。

日本庭園に向かって急坂を下り、池のそばに行く。植物園の敷地の西南端には、国重要
文化財の旧東京医学校本館が移築されているが、そばに行くことは出来ない。


日本庭園の池から続く、台地下の幾つかの池沿いに進むと、↓オオリキュウバイや大き
なハナズオウが開花していた。

最後の池の近くの斜面には、太郎稲荷と呼ぶ小さな稲荷神社が祭られ、近くにコブシが
花を見せる。1時間近くかけて一巡し、15時に植物園を出た。


南東に進んで白山二丁目に入り、念速寺(ねんそくじ)へ。ここも本堂はコンクリート
造り、本堂前に鮮やかなボケが満開で、名の知れぬ花も咲く。


本堂裏側の墓地には、特志解剖第1号という「美幾女(みきじよ)墓」がある。

美幾女は、江戸末期の駒込追分の彦四郎の娘といわれ、病重くなり死を予期し、死後の
屍体解剖の勧めに応じた。
明治2年(1869)8月の死後、直ちに解剖が行われ、当時の社会通念、道徳感など
からは難しい時代にこれに応じた特志解剖第1号として、わが国医学研究の進展に大きく
貢献した人という。
南側の小石川三丁目に進む。「家康の生母、於大の方(おだいのかた)ゆかりの真珠院」
の案内板に引かれて、真珠院境内に入る。
於大の方は三河国刈屋城主水野忠正の娘で、14歳で岡崎の松平広忠に嫁ぎ、翌年家康
が生まれたが、仲むつまじい結婚生活は3年で、政略により幼い家康を残して離婚させら
れたという。

本堂はコンクリート円筒形の独特な造り。背後の墓所に、於大の生家、水野家の墓所が
あるというので回ったが、水野家の名を忘れ標示も無く、確認できず。これが↓そうかも
しれない。
でも、第2代日本社会党委員長で、ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた鈴
木茂三郎(1893~1970)の墓を見つけた。


墓地にはシダレザクラと数本のソメイヨシノが咲き出し、小石川七福神の布袋様が立っ
ていた。


南側の法蔵院も独特の本堂、2つの寺の東側一帯は、徳川家ゆかりの女性が眠る伝通院
(でんづういん)である。

南側に回ると、新しく豪壮な山門が目に入る。山門を入った正面に大本堂が構え、その
前のソメイヨシノが花を見せ始めていた。

山門の右手、道路際のシダレザクラは見頃になっている。

伝通院は、慶長7年(1602)徳川家康が生母於大の方をこの地に葬り、その芳名
「伝通院殿」からされたとのこと。

墓地には、於大↑、千姫↓をはじめとして、徳川家ゆかりの女性の墓が多い。
やj
また、寺は「関東十八壇林」と呼ばれる仏教徒の学問所のひとつでもあり、関東十八壇
林中でも、代々の住職が紫の衣をまとえる紫衣壇林という特別に格式の高い壇林だったと
いう。

広い墓地にはほかに、明治、大正時代の教育者、評論家の杉浦重剛↑、幕末の勤王の志
士・清川八郎、大正、昭和期の詩人で小説家の佐藤春夫、アララギ派の歌人・古泉千堅、日
本画家・橋本明治、小説家・柴田錬三郎なども眠っている。

清川八郎墓

佐藤春夫墓
東に延びる善光寺坂を下る。中ほどに、文京区天然記念物のムクノキの古木が立ってい
た。樹高約13m、目通り幹囲約5m、推定樹齢約100年とか。昭和20年(1945)
5月の空襲で上部が焼けて欠損したが、「善光寺坂のムクノキ」として親しまれているよ
うだ。

そばの沢蔵司(さわぞうす)稲荷神社は社殿の修理中。沢蔵司とは、伝通院で修行して
いた学僧で、わずか3年で浄土宗の奥義を極めた人とか。

隣接する善光寺には、由緒などは記されてなかった。

都道436号・千川通に出て少し南に、「こんにゃくえんま」で知られる源覚寺がある。

閻魔(えんま)堂↑に安置された閻魔像は、右目が黄色く濁っているが、宝暦の頃
(1751~64)、閻魔王が目を患った老婆に己の右目を与え、老婆は感謝してこんや
くを供え続けたという言い伝えがある。
このことから、眼病治癒の「こんにゃくえんま」として庶民の信仰を集めたとか。正面
の焔魔堂には、たくさんのコンニャクが供えられていた。

焔魔堂の右手には、塩地蔵尊を祭った地蔵堂がある。開創の寛永元年(1624)以前
からこの地にあり、地蔵尊の身体に清めの塩を盛ってお参りし、参詣者の身体健康を祈願
する信仰を集めているという。

さらに右手には、「汎太平洋の鐘」と呼ぶ、サイパン島や米国テキサス州などを巡って
戻ってきたらしい数奇な巡り会いを経た、元禄3年(1690)鋳造の鐘が鐘楼に吊され
ていた。

正面にそびえる文京シビックセンターに向かって進み、16時36分に東京メトロ丸ノ
内線・南北線の後楽園駅に着いた。

(天気 晴、距離 10㎞、地図 「文の京観光ガイド 文京」地図(約1万800分の
1・文京区観光協会発行)、歩行地 文京区、歩数 24,700)
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食事を終えて春日通を少し南東に進み、徳運寺に寄る。

2階建て堂々たる本堂はコンクリート造り。ここも小石川七福神の弁財天の寺で、境内
に夢殿風六角屋根の小さな弁財天堂が祭られていた。

すぐ先の交差点から、東北東に緩やかに下る広い通りは播磨坂と呼ばれ、ソメイヨシノ
の並木の開花が進み「第45回文京さくらまつり」を開催中。

桜並木は、昭和35年(1960)に「全区を花でうずめる運動」で植えられたもので、
現在は127本あるという。

平成7年(1995)には「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、好天となっ
た今日はたくさんの区民で賑わっていた。

花見をしながら播磨坂を500mほど下り、都道436号・千川(せんかわ)通を横断
して新福寺前↓を過ぎる。

突き当たりが小石川植物園、右折して南東端の入口から入園する(大人400円)。
正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」で、もとは5代将軍綱吉の館林
城主時代の別邸(白山御殿)の地とか。
貞享元年(1684)に徳川幕府が当地に設けた「小石川薬園」が始まりで、日本最古
であるばかりか、世界でも有数の歴史を持つ植物園だという。
面積は16万1千㎡(4万8千坪)余りあり、台地、傾斜地、低地、泉水地など地形の
変化に富み、これを利用して多様な植物が配置され、国内から朝鮮、中国を含む東南アジ
アに分布する高等植物を中心に収集・栽培しているようだ。

入口近くに、精子発見のソテツがある。裸子植物に精子が存在することを、明治29年
(1896)に当時の東大農科大学の池野威一郎助教授が発見したという。

右に回り込み、坂を上がるとソメイヨシノの古木が見ごろ。本館の先はソメイヨシノ林
で、何れも見ごろに近く、観覧者も多い。



さらに進んで、ツツジ園のミカワツツジ↑や、大きなシナミズキ↓の花などを見る。

スズカケの古木やサルスベリの下を進むと、享保12年(1727)に中国から輸入さ
れたというサネブトナツメ(酸棗)という珍しい木もあった。

最奥部はスギ・ヒノキ林になっていて、都心とは思えぬたたずまい。左に回り込んだ高
台からは、眼下の日本庭園やその向こうのビル群などが望まれる。

日本庭園に向かって急坂を下り、池のそばに行く。植物園の敷地の西南端には、国重要
文化財の旧東京医学校本館が移築されているが、そばに行くことは出来ない。


日本庭園の池から続く、台地下の幾つかの池沿いに進むと、↓オオリキュウバイや大き
なハナズオウが開花していた。


最後の池の近くの斜面には、太郎稲荷と呼ぶ小さな稲荷神社が祭られ、近くにコブシが
花を見せる。1時間近くかけて一巡し、15時に植物園を出た。


南東に進んで白山二丁目に入り、念速寺(ねんそくじ)へ。ここも本堂はコンクリート
造り、本堂前に鮮やかなボケが満開で、名の知れぬ花も咲く。


本堂裏側の墓地には、特志解剖第1号という「美幾女(みきじよ)墓」がある。

美幾女は、江戸末期の駒込追分の彦四郎の娘といわれ、病重くなり死を予期し、死後の
屍体解剖の勧めに応じた。
明治2年(1869)8月の死後、直ちに解剖が行われ、当時の社会通念、道徳感など
からは難しい時代にこれに応じた特志解剖第1号として、わが国医学研究の進展に大きく
貢献した人という。
南側の小石川三丁目に進む。「家康の生母、於大の方(おだいのかた)ゆかりの真珠院」
の案内板に引かれて、真珠院境内に入る。
於大の方は三河国刈屋城主水野忠正の娘で、14歳で岡崎の松平広忠に嫁ぎ、翌年家康
が生まれたが、仲むつまじい結婚生活は3年で、政略により幼い家康を残して離婚させら
れたという。

本堂はコンクリート円筒形の独特な造り。背後の墓所に、於大の生家、水野家の墓所が
あるというので回ったが、水野家の名を忘れ標示も無く、確認できず。これが↓そうかも
しれない。

でも、第2代日本社会党委員長で、ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた鈴
木茂三郎(1893~1970)の墓を見つけた。


墓地にはシダレザクラと数本のソメイヨシノが咲き出し、小石川七福神の布袋様が立っ
ていた。


南側の法蔵院も独特の本堂、2つの寺の東側一帯は、徳川家ゆかりの女性が眠る伝通院
(でんづういん)である。

南側に回ると、新しく豪壮な山門が目に入る。山門を入った正面に大本堂が構え、その
前のソメイヨシノが花を見せ始めていた。

山門の右手、道路際のシダレザクラは見頃になっている。

伝通院は、慶長7年(1602)徳川家康が生母於大の方をこの地に葬り、その芳名
「伝通院殿」からされたとのこと。

墓地には、於大↑、千姫↓をはじめとして、徳川家ゆかりの女性の墓が多い。

また、寺は「関東十八壇林」と呼ばれる仏教徒の学問所のひとつでもあり、関東十八壇
林中でも、代々の住職が紫の衣をまとえる紫衣壇林という特別に格式の高い壇林だったと
いう。

広い墓地にはほかに、明治、大正時代の教育者、評論家の杉浦重剛↑、幕末の勤王の志
士・清川八郎、大正、昭和期の詩人で小説家の佐藤春夫、アララギ派の歌人・古泉千堅、日
本画家・橋本明治、小説家・柴田錬三郎なども眠っている。

清川八郎墓

佐藤春夫墓
東に延びる善光寺坂を下る。中ほどに、文京区天然記念物のムクノキの古木が立ってい
た。樹高約13m、目通り幹囲約5m、推定樹齢約100年とか。昭和20年(1945)
5月の空襲で上部が焼けて欠損したが、「善光寺坂のムクノキ」として親しまれているよ
うだ。

そばの沢蔵司(さわぞうす)稲荷神社は社殿の修理中。沢蔵司とは、伝通院で修行して
いた学僧で、わずか3年で浄土宗の奥義を極めた人とか。

隣接する善光寺には、由緒などは記されてなかった。

都道436号・千川通に出て少し南に、「こんにゃくえんま」で知られる源覚寺がある。

閻魔(えんま)堂↑に安置された閻魔像は、右目が黄色く濁っているが、宝暦の頃
(1751~64)、閻魔王が目を患った老婆に己の右目を与え、老婆は感謝してこんや
くを供え続けたという言い伝えがある。
このことから、眼病治癒の「こんにゃくえんま」として庶民の信仰を集めたとか。正面
の焔魔堂には、たくさんのコンニャクが供えられていた。

焔魔堂の右手には、塩地蔵尊を祭った地蔵堂がある。開創の寛永元年(1624)以前
からこの地にあり、地蔵尊の身体に清めの塩を盛ってお参りし、参詣者の身体健康を祈願
する信仰を集めているという。

さらに右手には、「汎太平洋の鐘」と呼ぶ、サイパン島や米国テキサス州などを巡って
戻ってきたらしい数奇な巡り会いを経た、元禄3年(1690)鋳造の鐘が鐘楼に吊され
ていた。

正面にそびえる文京シビックセンターに向かって進み、16時36分に東京メトロ丸ノ
内線・南北線の後楽園駅に着いた。

(天気 晴、距離 10㎞、地図 「文の京観光ガイド 文京」地図(約1万800分の
1・文京区観光協会発行)、歩行地 文京区、歩数 24,700)


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