あるきメデス

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中山道 芦田宿から佐久平駅まで歩く①(芦田宿~望月宿)(長野)

2016-10-31 22:23:36 | 中山道を歩く
 カントリーウオークのグループの春秋恒例の一泊のウオーキング、今回は東信州の中山
道を芦田宿(あしだしゅく)からJR佐久平(さくだいら)駅まで歩いた。


 第1日 2916年10月29日(土)
 == 中山道芦田宿から望月宿へ ==

 東京、大宮、高崎などからJR北陸新幹線はくたか555号に乗り、佐久平駅で9時
58分に下りた。先着のKさんや長野から参加のYさんと全員が合流する。


 私は大宮から乗ったが、最後尾の自由席入口には20人以上が並び、到着の車両はすで
にデッキまで満員でいくら押しても乗れない。2両先まで急ぎ移動して何とか乗車したが、
久しぶりの通勤ラッシュ気分で高崎までがまんする。

 駅からの浅間山


     
 佐久平駅前広場の周辺は、紅葉、黄葉がよい彩り。10時21分発の立科町(たてしな
まち)役場行きバスで終点まで乗り、10時59分に着いた。上空は厚い雲に覆われてい
てうす寒い。


 11時11分に出発して、北側の芦田中央交差点で中山道に入る。この辺りは江戸から
26番目の宿場、中山道芦田宿である。
    

 すぐ東側にあるのが金丸土屋旅館。文化元年(1804)頃からの旅籠屋(はたごや)
で、2階の部分が表に少し出ている出梁造り(だしばりづくり)や、煙出しを持つ屋根な
どの特長が見られる。



 交差点の南西側には、県宝になっている旧芦田宿本陣 土屋家住宅があった。土屋家は、
慶長初期(1596~)から明治に至るまで芦田宿の本陣を務めたとのこと。


 門を入ると、正面によく手入れされた庭園が目に付く。県宝の客殿(きゃくでん)は寛
政12年(1800)の改築で、明治維新まで大名や公家などの宿泊や休憩に使われたと
いう。


     立科町のマンホール
    


 隣接する町区公会所前には、鉢植えのキクがきれいな彩り。その隣は「ふるさと交流館
芦田宿」だが、寄らずに先に向かう。


 道路の北側には「蛇石様(じゃいしさま)」の案内札立っていた。江戸末期頃から蛇石
神社として石を覆う社があったとされ、現在は周囲2m以上の大石のみが残され、石の真
ん中には蛇の通った跡と思われる筋が残っているという。


 芦田宿の西端辺りで北方の展望が開け、山頂付近に雲を被ってはいるが色づく浅間山が
望まれ、右カーブした次の交差点際には、道祖神石が立っていた。


 稲架(はさ)掛けの田んぼや、色づいた柿の付近などからも浅間山を眺め、家並みの途
切れた道を東に向かう。

 中居交差点の先、畑の一角のこんもりしたところに「三界無縁供養塔(さんがいむえん
くようとう)」が立っていた。
         

 標高727.3m水準点の先、道路がX常に交差したところで、左の茂田井間の宿(も
たいあいのしゆく)への旧道に入ると、落ち葉掃きしていた奥さんが居られ、ナツメの実
をもらう。


 近くの茂田井一里塚跡で小休止して味わい、さらにYさん持参のリンゴもたくさんいた
だいた。

 一里塚は織田信長の時代に設けられ、徳川家康、秀忠が受け継いで慶長9年(1604)
に完成したとか。天保年間(1830~44)の記録ではこの両側に土塚があり、こちら
にはケヤキが、北側にはエノキが植えられていたという。南側の跡地は、小さい盛土やベ
ンチ、トイレのある休憩所になっている。

 土蔵の横にまきを積んだ家や、軒先につるし柿の家などを過ぎ、石割坂の急坂を下ると
間の宿の茂田井に入る。


    

 間の宿とは、宿場間が長い場合や、峠越えなどの難路の場合に宿場の間に設けられた休
息場所。茂田井の宿は芦田宿と望月宿との中間にあり、きつい峠越えの休息場所として設
けられたようだ。


 大きな馬頭観世音塔や高札場跡を過ぎると、車の交差が出来ない細道の両側に古い建物
が残り、間の宿らしさがかなり感じられ、その沿道に二つの造り酒屋がある。

    
 手前の大澤酒造は元禄2年(1689)の創業で、酒造りや街道文化の資料を展示した
民俗資料館や書道館、美術館などがあるようだが、寄らずに過ぎる。門には大きな杉玉が
下がっていた。




    
 その先の武重本家酒造の門にも新しい杉玉が下がり、江戸後期建築の住宅や明治初期の
酒蔵などは国の有形文化財とか。今日は休業日のようで、銘酒御園竹(みそのたけ)を求
めることは出来なかった。


 門を入った正面右手の建物内には昔の酒造道具が展示され、玄関横の梁には古い駕籠
(かご)が掛けられていた。
    


 門前の細い流れを挟んで若山牧水の歌碑があり、酒を詠(よ)んだ三つの歌が刻まれて
いる。ちなみに牧水は酒好きで、次の望月宿には牧水の足跡が幾つか残るという。
        

 歌碑の横から南側を走る新道に回り、稲架掛けの並ぶ田んぼの横を通過して昼食地と考
えた古峰神社下に行くが、急斜面の上でスペースも無さそうなので止める。
     

 さらに坂を上がり、左手にあった潅漑(かんがい)用水用ため池の西側の路傍に12時
44分に着き、陽が陰ってうす寒いが昼食とする。


 池の対岸で、1羽のサギがしばらくの間動かずにジッと止まっていた。

                            サギ↑

 13時30に出発し、次の望月宿(もちづきしゆく)に向かう。池の横辺りがピークで、
右カーブして下って行くと望月の家並みが現れた。国道142号の下を細道で抜けて下り、
小学校跡らしい広場の横を通過する。
     
 バス道に合して望月宿の西端辺りにあった大伴(おおとも)神社に寄る。

 景行天皇40年(古墳時代)の鎮座と伝えられ、延長5年(927)にまとめられた延
喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちよう)にも記されているという古社。現在の本殿は
延宝5年(1677)の建築という。

 社殿は急石段を60数段上がった上にあり、境内はケヤキの古木など豊富な木々に囲ま
れていた。


 次のT字路を左折して鹿曲川(かくまがわ)の橋を渡り、東側山上にあった望月城の山
ろくの城光院(じようこういん)に行く。

 門前の「望月山城光院」と刻まれた大きな石碑には、梵字のような変わった文字が記さ
れている。
         

 城光院は、望月城主望月遠江守光恒の開基で望月氏代々の菩提寺とのこと。ちなみに、
真田十勇士の一人、望月六郎は望月氏の子孫という。本堂は江戸後期の享和年間(1801
~4)の建築らしい。


 山門を入ると、本堂前の庭に色づいたドウダンツツジが並び、右手には「城光院の石造
十王像」と呼ぶ小さい石仏が並んでいる。



 モミジも色づき始め、マツなど植栽もよく手入れされていて趣ある庭。山門を入った左
手には、「城光院の石造庚申塔」と呼ぶ大小10数基の庚申塔が並んでいた。


 ツツジの間で記念撮影をして、城光院を後にした。



 寺の前を走る旧道を東南に向かう。寺の土塀に絡んだツタも鮮やかな彩り。南西側間近
に、佐久市役所望月支所の大きな建物が目に入る。



 色づいた柿がたわわに実る木があちこちにあり、山上の望月城址まで上がる遊歩道入口
を過ぎると、その先の民家の屋根下に大きなスズメバチの巣が下がっていた。


 間もなく次の寺、金峰山信永院(きんぷさんしんよういん)である。天文元年(1532)
に望月左衛門尉信永の開基で、荘厳和尚の開山と伝えられているとか。

 本堂は江戸末期の建築とのこと。本堂前には、根元から10数本の幹を生じた珍しいカ
ヤの巨木が立っていた。樹齢は約500年という。
     
 木の下でカヤの実を拾っていたら、ご住職だろうか作務衣を着た方が来られ、カヤの実
の食べ方を書いた紙をいただき、実の割り方も実演して下さった。

 少し戻って鹿曲川を渡り、中山道望月宿の東端近くの通りに入る。望月支所に上がるT
字路際の消防分団の建物は、宿場らしい建築に建て替えられていた。
     

 望月は清和天皇の頃(876)から「駒の里」と呼ばれ、「望月」の名は8月の満月の
日に朝廷へ名馬を治めたことが由来といわれ、紀貫之など多くの歌人に詠まれ親しまれて
いるという。
    

       
 町内のあちこちに、来週の文化の日に開催される駒の里ゆかりの草競馬大会のポスター
が貼ってある。
 

 望月宿入口交差点を右折して緩やかに上がり、鹿曲川の支流の八丁地川を渡る。養魚池
のすぐ先を入って、宿泊する青木荘には15時11分に着いた。


(参加 15人、天気 曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 丸子、歩行地 立科町、
 佐久市 歩数 14,000、累積標高差 上り約140m、下り約170m)


 夕食の18時半までには3時間以上ある。望月宿本陣跡にある望月歴史民俗資料館を観
覧することにして、一人で宿を出た。

 望月宿入口交差点から北西へ望月宿の家並みが続き、あちこちの建物の前には、駒の里
望月ゆかりの木馬形植木鉢が目に入る。
    

 望月宿の中心部に、佐久市立望月歴史民俗博物館があった。この場所は本陣の跡地だと
いう。

 門を入った中庭には形の良い自然石が配され、建物前には大きな双体道祖神や、蓼科山
からの用水に用いられたという「水割場石(みずわりばいし)」と「木樋(きどい)」、
馬や牛などを止めるための駒つなぎ石などがある。
    

 博物館に入り(入館料300円)、今日は中山道を芦田宿から歩いたことを話したら、
「東信州 中山道を歩く」という小冊子を頂いた。

 展示室は1階と2階にあり、1階の第1展示室は「郷土の歴史と文化」で、縄文式土器
や石器、平安時代から室町時代まで献上された「望月牧(もちづきまき)」と呼ぶ貢馬
(みつぎうま)の様子などが展示されている。

 2階には、宿場町望月に関わる古文書や絵図などを展示する「中山道望月宿」と、望月
の近代の生活道具や仕事、祭り、養蚕から製糸までの流れなどを紹介する「人々のくらし
と伝統」の二つの展示室がある(館内の写真はネット紹介禁止とのこと)。

 観覧を終えて入口そばに戻ったら、係の男性が小室節(こむろぶし)の尺八演奏を聴か
せてくれるという。演奏の後、この小室節はモンゴルの民謡に似ていること、各地に伝わ
り江差追分など〇〇追分となって全国に広まったことなど、さらに明日歩く行程を話した
ら、八幡宿の八幡神社と塩名田宿の駒形神社の二つの国重要文化財の社殿をぜひ見るよう
勧めてくれた。

 50分近く経過して、15時半過ぎに民俗資料館を出た。

 館前の建物は、望月町商工会館の看板が掛かり「望月まちの駅」の表示もあるが閉館し
ていた。


 往路を戻る望月宿の家並みには、旅館山城屋↑、脇本陣鷹野↓、大和屋、犬神家一族の映
画で那須ホテルとして使われたという井出野屋旅館など、古い建物が残っている。




 井出野屋旅館


 気温がいっそう下がり、肌冷えが感じられて寒い道を急ぎ、17時前に青木荘に戻った。
(往復約1.6㎞)





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2 コメント

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懐かしい地名 (junjun)
2016-11-01 21:45:10
学生時代に寮に入っていたのですが、たった20人ほどの寮生の中に立科町出身の方が2人いて、そのうちの一人が茂田井の出身でした。(実家はお寺さん)
よく手紙を書いていましたので、行ったことはないのですが、地名だけは頭に入っていました。
ブログを拝見して、こんなに素晴らしいところで育ったのかと初めて知りました。
紅葉も始まって素晴らしい旅だったことと思います。続きを楽しみにしています。
返信する
間の宿 茂田井 (saikoroat)
2016-11-02 10:30:14
そうでしたか、茂田井という名は珍しい地名なので、忘れないかもしれませんね。
今回のメンバーでカタツムリ歩行にも参加するIさんも、近くの知り合いに
茂田井ゆかりの人がいるとか聞きました。
晴天にはなりませんでしたが、久しぶりに静かな街道歩きを楽しみました。
返信する

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