あるきメデス

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西武ハイキングで紅葉の吾野・東郷公園を訪ねる(埼玉・飯能)

2021-12-21 22:28:13 | ウオーキング
 2021年11月26日(金)

 今日は快晴で風も無さそうなので、西武鉄道の「ウオーキング&ハイキング」の「紅葉
の吾野・東郷公園を訪ねる!」に参加することにした。

 8時19分頃、西武池袋線清瀬駅で人身事故があり、西武池袋線は1時間余り運転を休
止しており、西所沢駅に着いたらまだ運転を再開したばかり。

 池袋方面への上りホームには、たくさんの人が電車の到着を待っていた。

 下り電車の再開後2本目の電車に9時34分頃乗車した。下り電車も混んでいて、乗り
換えの飯能(はんのう)駅まで座ることはできなかった。

 飯能発10時03分の西武秩父行も同様で途中まで座れず、5分遅れた10時31分に
吾野(あがの)駅に着いた。


 同じ電車で来たウオーキング参加者が多く、駅前の受付テントへは長い列が延びる。


 受付を済ませて地図をもらい、10時42分に出発した。


 線路の北側沿いに西へ、駅を出てすぐのところの若木のモミジ並木がよい彩り。


 近くの国道299号線への分岐の近く、高台の上の大きなモミジ。



 その先は、石灰石を採掘している吾野鉱山の工場下を緩やかに上がりながら進み、西武
秩父線の線路を越えて高みから線路を見下ろす。
     

 周辺の山は針葉樹が多いが、広葉樹は少しずつ色づき始めている。


 陽の当たらぬ北向きの斜面に沿った遊歩道は下りとなり、わずかの民家の横を通過する。
     

 下りきった辺りにあった諏訪神社。



 その先、高麗川(こまがわ)右岸にある数本のモミジが見ごろに。
     



     

 国道299号線に接する芳延橋際に出た。左手の鳥居が目的地・秩父御嶽(ちちぶおん
たけ)神社の入口で、一帯は東郷公園になっている。


 一の鳥居を入ると公園の案内パネルがある。それによれば、「ここは御嶽山東郷公園、
秩父御嶽神社と称し、明治28(1895)年11月、当地の御嶽行者・鴨下清八の開山
で、信濃(長野県)の木曽御嶽山(おんたけさん)の分霊を奉斎している」という。

     
     
 すぐ先右手は里宮遙拝殿で、再建したのか社殿は新しい。まずは遙拝して先に向かう。



      次の鳥居をくぐるとモミジが増えて来た。
     

 斜面の入口付近には「おこころざし石」がある。紅葉が見頃な11月15日~30日の
入山者は、100円以上の入山料を納めるようになっていたので投入した。この先が参道
になるらしい。


 そばの斜面の石碑に囲まれた立像は、「清貫一誠霊神銅像」と呼ぶもので、開山者・鴨
下清八の像のよう。


 その横から比較的緩やかな石段があり、左手にはさらに緩やかな迂回路が。



 石段を途中まで上がって右に回り込むと、よい彩りのモミジが。近くには乃木大将銅像
がある。
     
 乃木大将は萩(山口県)出身の陸軍軍人。日露戦争時に、難攻不落といわれた満州・旅
順(りょじゅん)の203高地を攻略した。質素倹約を旨とし農将としても名高く、明治
天皇の大喪の日に殉死したことで知られている。
     

 当山開祖の鴨下清八氏は、将軍に師事するがごとく農業や養蚕業にも力を尽くし、人々
の模範となるよう、昭和4(1923)年11月、この地にこの銅像を建立したという。

     
      銅像の横から背後周辺のモミジ
     

        遊歩道を反時計回りに上がって行くと、独特の社殿の八海山神社前に出た。
          

     
      神社周辺のモミジもよい彩り。


     

 参道の中央部に戻ると休憩舎があり、左手背後に東郷元帥銅像が見えたが、帰路で回る
ことにして中央広場へ。

 ちょうど参道の中間辺りで、ベンチや周辺で休憩する参加者も多い。

 その先は、最上部の秩父御嶽神社に向かって長くて急な368段の石段が延びている。
左右に遊歩道もあるが、石段を上がることにした。
     
 途中、左右に4か所ほど迂回のための遊歩道があり、長い石段の踊り場にもなっている
ので、そこまで上がるたびに休憩した。
          
 でも、高齢化に伴う体力・脚力の低下に加えて久しぶりの急段なので息が切れ、横の手
すりにつかまったり、中ほどで何度も小休止したりしながらゆっくりと上がる。

      正午近く、ようやく最上段にある秩父御嶽神社前に着いた。
          
 秩父御嶽神社は、開祖の鴨下清八氏が明治26(1893)年に信州木曽御嶽山の分霊
を勧請し、この地にお祭りしたことにより始まったとか。

 拝殿は、ここでの祈りが本山の神々にこだまするようにと、木曽御嶽山を遙拝する向き
に造営されたという。現在の本殿は、開山100周年記念事業として平成10(1898)
年に再建されたようだ。

 拝殿に参拝して、新型コロナウィルスの感染防止や早期終息、健康などを祈願した。

 拝殿前には「幸(しあわせ)の鐘」があり、参拝者が自由に撞(つ)いて幸せを祈れる
ようになっている。
     

      下山に石段を下るのは止めて、両側の遊歩道を利用することにした。
     

 拝殿の前から右手の遊歩道を回り込み、石段を横切って左手へ回ると、小さな社殿の大
黒天社があった。


     さらに石段を途中横断した反対側には、三笠山神社が祭られている。
     

 その先は短いが急坂の石段、正面の石段を横断したりして幾つかのの社殿前を通過する。
     



     
      

 再びモミジが増えた先には、小さい社殿の乃木神社が祭られていた。


     

          


 乃木神社の下をジグザクに下り、清瀧不動堂荷の先で長い石段下に戻る。
     

 すぐ下の中央広場では、多くのウオーカーが昼食中だが、私は弁当を用意してこなかっ
たので通過して東郷神社に向かう。


 東郷神社は、中央広場の西側斜面を少し戻るように上がった場所にある。狭い斜面に建
つので正面から社殿を撮ることはできない。
     

 すぐ右手には「至誠館」と呼ぶ3階建ての建物があり、1階にはロシア製3インチ野砲
(1901年製)が展示されていた。
     

 明治38(1905)年の満州での日露戦争で、日本陸軍はこのロシア軍の新鋭の野砲
で苦戦したとか。日本陸軍の野砲に比べ操作や命中率などすべての面で優秀だったようだ。


 至誠館は、東郷元帥が来山の歳に休憩されたという。

      この辺りでも、モミジが彩りを競う。
     

 すぐ下に、珍しい展示物が目につく。

 日露戦争の勝利を決定づけたのは、明治38(1905)年5月28日の日本海海戦だ
った。このとき、東郷司令長官の乗った連合艦隊の旗艦三笠はロシア軍の集中砲火を浴び
て、甲板には蜂の巣状の弾痕を残したとのこと。

 この展示は、その旗艦三笠の甲板の一部だという。連合艦隊は大勝したと聞いていたの
で被害はほとんど無かった思っていたが、そうではなかったという貴重な証拠だった。

 そばに、「東郷元帥お手植えの松」の枯れ落ちた実生による、継承の松の若木がある。

     
      そして、すぐ近くの中央部には東郷元帥像が立っていた。
     

     
      傍らにある由緒と写真のパネルから
      

      その下、石段の両側には大きな球形の水雷と砲弾がある。

     
 水雷は敷設水雷といい、日露戦争の旅順港口にロシア軍により多数敷設され、日本海軍
の入港を阻止したよう。戦後に日本海軍が掃海して引き上げたものを、海軍省から下賜さ
れたという。

          
 砲弾は、日本海海戦の際、ロシア軍バルチック艦隊から発射された主砲の巨弾で、日本
海軍はこのため苦戦を強いられたようだ。



     
 周辺のに残るモミジなどを眺めながら、少しずつ中央部の短い石段や遊歩道を下り、上
り始めた遙拝殿の横の社務所前まで戻った。


 往路では気づかなかったが、鳥居を出た横に大きな高下駄が展示されていた。



 国道際の橋際からも往路を逆行して戻り、もう一度逆光のモミジの彩りを見る。




     

      その先も、往路と同じ遊歩道を周囲の風景を眺めながら戻る。
     

 13時55分に吾野駅に着いた。次の上り電車を待つ人のほとんどはウオーキング参加
者で、この時間の普段の乗客よりはるかに多そう。


 14時09分発飯能行き上り電車に乗る。

 (天気 快晴、距離 4㎞、地図 参加者へ配布の「東郷公園 秩父御嶽神社境内図」、
  歩行地 飯能市、歩数 12,400、累積標高差 上り下りとも約300m)

 



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コメント (3)
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