2016年3月30日(水)
東京の桜の開花もかなり進んだとようなので、早めの花見を兼ねて文京区南西部の寺社
や公園などを巡ることにした。
池袋駅から東京メトロ丸ノ内線に乗り、次の新大塚駅で下りて10時20分にスタート
する。
駅の南側から大塚四丁目の細道を南下して、まずは都営豊島岡墓地の東側崖(がけ)下
にある狭い境内の吹上稲荷神社へ。

元和8年(1622)、徳川秀忠が日光山から江戸城中吹上(ふきあげ)御殿に勧請
(かんじよう)したのが初めで、のち小石川四丁目や護国寺などを経て、明治45年
(1912)に現在地に遷座したという。
豊島岡墓地の崖下沿いに進み、護国寺へ惣門から入る。惣門は元禄年間(1688~
1704)のもので、江戸時代武家屋敷門の5万石以上の大名クラス相当の格式ある造り
という。

護国寺は、天和元年(1681)、5代将軍綱吉が生母桂昌院の願いで創建した祈願寺
だったが、後に将軍家の祈願寺となったとか。

正面の観音堂(本堂)は元禄10年(1697)の建立、元禄時代の建築工芸の粋を結
集したといわれ、1938年に近江から移築された桃山時代の書院造りの月光殿↓ととも
に、国の重要文化財である。


大師堂

広い境内には、大師堂や多宝塔、露座の大仏、鐘楼、一言(ひとこと)地蔵尊などのほ
か、「音羽富士」と呼ぶ富士信仰のミニ富士山もある(下は登山口)。

山ろくには、地元・音羽ゆりかご会の創始者、海沼実(かいぬまみのる)作詞作曲「か
らすの赤ちゃん」の歌碑や、民謡碑などが立っていた。


境内のシダレザクラがかなり開花し、多宝塔近くのソメイヨシノも3分咲きくらいか。
境内を一巡して、正面の正門から寺を出た。
門前の広い道路、都道437号・不忍通を西進して首都高速5号線の下を抜ける。目白
台三丁目の細道を南下して都道8号・目白通に出た。

南側の旧細川侯爵邸内の広い敷地↑にある、「和敬塾」と呼ぶ海外からの留学生を含め
た学生寮の西側、幽霊坂を下る。
下りきった神田川左岸沿いの一角は新江戸川公園。一帯は、和敬塾から続く肥後熊本藩
細川家の屋敷跡を、都立公園として開園後、文京区に移管されたもので、池泉式回遊庭園
となっている。

入口を入ると「松聲閣(しようせいかく)」↑と呼ぶ建物がある。細川家下屋敷の学問
所として使用されたもので、集会室や喫茶サービスなどに利用され、観覧もできるが入館
は省略して、池泉式回遊庭園を一巡する。



池の周辺に咲き出したソメイヨシノや、ボケ、シャガ、淡い新芽を見せるモミジなどを
眺めながら、池の北側斜面を東端まで進み、神田川寄りの南側を戻った。


神田川左岸沿いにはソメイヨシノの並木が続き、かなり見頃になっていて、団体や個人
などたくさんの花見客が巡っている。

新江戸川公園の東側斜面には、狭い境内に水神社が祭られている。水神社の創建年代は
不明のようだが、徳川家康の命で開いた神田上水の守護神として、上水の恩恵にあずかる
神田、日本橋の人達の参詣が多かったとか。

簡素な社殿の前に立つ、ご神木の2本の大イチョウが歴史を示している。


ソメイヨシノの並木が続く左岸沿いに進むと、関口芭蕉庵と椿山荘(ちんざんそう)が
続いている。

関口芭蕉庵は、俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から3年間神田川の改修工事に参
加した際に住んだ、「竜隠庵」と呼ばれた水番屋の場所とか。入園無料のようだが入らず
に通過した。

長く続く土塀の建物の中は、椿山荘(ちんざんそう)で知られるホテル椿山荘東京庭園
で、桜も約20種120本あるようだが、ここも入園は省く。

その先、桜並木の続く神田川沿いは江戸川公園で、東屋(あずまや)などもあり花見客
も更に増える。



この辺りは、「大洗堰(おおあらいぜき)」と呼ぶ神田上水の堰があったところ。その
由来碑があるが、文字は判読しがたい。
公園の東端の江戸川橋まで進み、北から合流した都道435号・音羽通りを横断して小
日向(こびなた)二丁目へ。300m余り東進し、北への服部坂を少しで、小日向神社が
あった。

創建は天慶3年(940)という古社で、明治2年(1869)に当地に遷座されたと
いう。境内には、周辺幾つもの町内の御輿蔵(みこしぐら)らしい建物があった。

さらに上がると、3階建集合住宅の敷地に「新渡戸稲造(にとべいなぞう)旧居跡」の
説明板が立つ。

新渡戸稲造は、南部藩士の子として文久2年(1862)盛岡に生まれ、札幌農学校で
内村鑑三らと学び、東京帝大卒業後、アメリカやドイツに留学し、農業経済学や農学統計
などを学んだ。
若い時から「太平洋の橋」になりたいと考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそ
れをわが国に紹介することに努め、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長になり、
「連盟の良心」といわれたという。
この地は、明治37年(1904)から、亡くなる昭和8年(1933)まで住んだと
か。傍らのクスノキの古木は、新渡戸も眺めたのではなかろうか。

さらに進んで、小日向四丁目のY字路際から深光寺(じんこうじ)に上がる。本堂はコ
ンクリート造り。小石川七福神の恵比寿神の寺で、本堂前に石造の恵比寿様が座る。

本堂左手前の木の下には、江戸後期の戯作者で「南総里見八犬伝」や「椿説弓張月」な
どの作品を残した滝沢馬琴(たきざわばきん)の墓があった。

茗荷谷(みょうがだに)駅から地上に出たばかりの東京メトロ丸ノ内線のガード下を北
に抜けて釈迦坂を上がる。

駅のそばの跨線橋を渡ってすぐ先の林泉寺に行くが、本堂は改修中で建物は無い。

願かけにお地蔵様に縄をかけ、願いが叶ったら縄をほどくという「しばられ地蔵」を、
見ることはできなかった。
13時を過ぎたので、茗荷谷駅に近い国道254号・春日通の食堂で昼食を済ます。
(続く)
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東京の桜の開花もかなり進んだとようなので、早めの花見を兼ねて文京区南西部の寺社
や公園などを巡ることにした。
池袋駅から東京メトロ丸ノ内線に乗り、次の新大塚駅で下りて10時20分にスタート
する。
駅の南側から大塚四丁目の細道を南下して、まずは都営豊島岡墓地の東側崖(がけ)下
にある狭い境内の吹上稲荷神社へ。

元和8年(1622)、徳川秀忠が日光山から江戸城中吹上(ふきあげ)御殿に勧請
(かんじよう)したのが初めで、のち小石川四丁目や護国寺などを経て、明治45年
(1912)に現在地に遷座したという。
豊島岡墓地の崖下沿いに進み、護国寺へ惣門から入る。惣門は元禄年間(1688~
1704)のもので、江戸時代武家屋敷門の5万石以上の大名クラス相当の格式ある造り
という。

護国寺は、天和元年(1681)、5代将軍綱吉が生母桂昌院の願いで創建した祈願寺
だったが、後に将軍家の祈願寺となったとか。

正面の観音堂(本堂)は元禄10年(1697)の建立、元禄時代の建築工芸の粋を結
集したといわれ、1938年に近江から移築された桃山時代の書院造りの月光殿↓ととも
に、国の重要文化財である。


大師堂

広い境内には、大師堂や多宝塔、露座の大仏、鐘楼、一言(ひとこと)地蔵尊などのほ
か、「音羽富士」と呼ぶ富士信仰のミニ富士山もある(下は登山口)。

山ろくには、地元・音羽ゆりかご会の創始者、海沼実(かいぬまみのる)作詞作曲「か
らすの赤ちゃん」の歌碑や、民謡碑などが立っていた。


境内のシダレザクラがかなり開花し、多宝塔近くのソメイヨシノも3分咲きくらいか。
境内を一巡して、正面の正門から寺を出た。
門前の広い道路、都道437号・不忍通を西進して首都高速5号線の下を抜ける。目白
台三丁目の細道を南下して都道8号・目白通に出た。

南側の旧細川侯爵邸内の広い敷地↑にある、「和敬塾」と呼ぶ海外からの留学生を含め
た学生寮の西側、幽霊坂を下る。
下りきった神田川左岸沿いの一角は新江戸川公園。一帯は、和敬塾から続く肥後熊本藩
細川家の屋敷跡を、都立公園として開園後、文京区に移管されたもので、池泉式回遊庭園
となっている。

入口を入ると「松聲閣(しようせいかく)」↑と呼ぶ建物がある。細川家下屋敷の学問
所として使用されたもので、集会室や喫茶サービスなどに利用され、観覧もできるが入館
は省略して、池泉式回遊庭園を一巡する。



池の周辺に咲き出したソメイヨシノや、ボケ、シャガ、淡い新芽を見せるモミジなどを
眺めながら、池の北側斜面を東端まで進み、神田川寄りの南側を戻った。


神田川左岸沿いにはソメイヨシノの並木が続き、かなり見頃になっていて、団体や個人
などたくさんの花見客が巡っている。

新江戸川公園の東側斜面には、狭い境内に水神社が祭られている。水神社の創建年代は
不明のようだが、徳川家康の命で開いた神田上水の守護神として、上水の恩恵にあずかる
神田、日本橋の人達の参詣が多かったとか。

簡素な社殿の前に立つ、ご神木の2本の大イチョウが歴史を示している。


ソメイヨシノの並木が続く左岸沿いに進むと、関口芭蕉庵と椿山荘(ちんざんそう)が
続いている。

関口芭蕉庵は、俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から3年間神田川の改修工事に参
加した際に住んだ、「竜隠庵」と呼ばれた水番屋の場所とか。入園無料のようだが入らず
に通過した。

長く続く土塀の建物の中は、椿山荘(ちんざんそう)で知られるホテル椿山荘東京庭園
で、桜も約20種120本あるようだが、ここも入園は省く。

その先、桜並木の続く神田川沿いは江戸川公園で、東屋(あずまや)などもあり花見客
も更に増える。



この辺りは、「大洗堰(おおあらいぜき)」と呼ぶ神田上水の堰があったところ。その
由来碑があるが、文字は判読しがたい。
公園の東端の江戸川橋まで進み、北から合流した都道435号・音羽通りを横断して小
日向(こびなた)二丁目へ。300m余り東進し、北への服部坂を少しで、小日向神社が
あった。

創建は天慶3年(940)という古社で、明治2年(1869)に当地に遷座されたと
いう。境内には、周辺幾つもの町内の御輿蔵(みこしぐら)らしい建物があった。

さらに上がると、3階建集合住宅の敷地に「新渡戸稲造(にとべいなぞう)旧居跡」の
説明板が立つ。

新渡戸稲造は、南部藩士の子として文久2年(1862)盛岡に生まれ、札幌農学校で
内村鑑三らと学び、東京帝大卒業後、アメリカやドイツに留学し、農業経済学や農学統計
などを学んだ。
若い時から「太平洋の橋」になりたいと考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそ
れをわが国に紹介することに努め、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長になり、
「連盟の良心」といわれたという。
この地は、明治37年(1904)から、亡くなる昭和8年(1933)まで住んだと
か。傍らのクスノキの古木は、新渡戸も眺めたのではなかろうか。

さらに進んで、小日向四丁目のY字路際から深光寺(じんこうじ)に上がる。本堂はコ
ンクリート造り。小石川七福神の恵比寿神の寺で、本堂前に石造の恵比寿様が座る。

本堂左手前の木の下には、江戸後期の戯作者で「南総里見八犬伝」や「椿説弓張月」な
どの作品を残した滝沢馬琴(たきざわばきん)の墓があった。

茗荷谷(みょうがだに)駅から地上に出たばかりの東京メトロ丸ノ内線のガード下を北
に抜けて釈迦坂を上がる。

駅のそばの跨線橋を渡ってすぐ先の林泉寺に行くが、本堂は改修中で建物は無い。

願かけにお地蔵様に縄をかけ、願いが叶ったら縄をほどくという「しばられ地蔵」を、
見ることはできなかった。
13時を過ぎたので、茗荷谷駅に近い国道254号・春日通の食堂で昼食を済ます。
(続く)


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