2016年1月27日(水)
1週間余り続いた寒波が緩んだので、カントリーウオークグループの新しいメンバー水
野さんの、「旅のスケッチ展」の観覧に出かけた。
JR川越線の日進駅北口を、10時52分にスタートする。
地形図上に記された、駅前通りと鴨川沿いの番場公園近くにあるはずの寺を探しながら
行くが、両方とも無かった。
番場公園の横を北進して国道16号大宮バイパスを歩道橋で越え、西に延びるバス道路
へ。鴨川の共栄橋を渡り、内野本郷交差点を右折して北への住宅地を進む。
旅のスケッチ展会場の「クラフト&ギャラリー風画(ふうが)」は、介護老人保護施設
「ケア大宮花の丘」の東側、すぐ近くにあった。
ギャラリーには水野さんも居られ、水野さんが描いた各地のスケッチ画が30点余り展
示されていた。
私がかなり以前に訪ねた乳頭温泉などの絵もあり、懐かしく拝見する。私の郷里が県内
・小川町ということを話すと、展示してない作品の中から小川町の造り酒屋と裏通りの風
景を描いた絵も見せていただく。特に、普通の人が見落としがちな裏通りに目をつけて描
かれた水野さんの画才に感心する。
ギャラリーのオーナー井出さんは、現代美術作家とか。遺跡発掘調査をきっかけに縄文
式土器の魅力にひかれ、現在は復元土器の作家としても知られているようで、飲食コーナ
ーには井出さんの作品がたくさん展示されていた。
作品の観覧と水野さんや井出さんとの歓談、コーヒーをいただき、ほぼ1時間を経過し
た12時30分に会場を後にした。
すぐ北側には、「大宮花の丘農林公苑」がある。南北に長い約11haのエリアに、春は
チューリップ、夏はサルビア、秋にはコスモスなど、四季折々の花が咲き競うというが、
厳冬期の現在は花に乏しく、わずかに南側の小さいエリアにパンジーが花を見せていた。
北側を横切る道路を横断して、「花の食品館」↑と呼ぶ地元農産物や季節の花の直売を
する建物の横を通過する。そばのシダレウメはまだつぼみのまま。
その先、広い苑内を囲む広葉樹も枯れ枝で色彩に乏しい。池の横の低い丘陵に上がって
周辺を一望して引き返す。
苑内には、植木鉢を重ねて人形のようにした飾り物が幾つも置かれていた。
公園の西側に見える梅林の北側には、10日前の残雪が残る。道路の南側に戻り、パン
ジーの花畑を眺めながら東屋(あずまや)で昼食にした。
風も無く暖かい日射しなので、午後は以前にカントリーウオークの例会などで歩いたこ
とのある、西側の寺社を幾つか巡ることにする。
ケア大宮花の丘北側の道路を西へ、南行、北行が分離した幅広い国道17号・上尾道路
を西新井(南)交差点で横断する。
次の十字路を南西に折れ、県道165号沿いの清河寺(せいがんじ)郵便局を挟んで北
東と南西にある地形図上の神社マークの場所を探したが、ここも両方の神社はない。
郵便局前のV字路を北進し、この辺りの地名にもなっている清河寺の前に出た。まずは、
東側の小さい森に祭られた神明社のご神木になっている大ケヤキを見る。
「清河寺の大ケヤキ」と呼び、樹高は32m、幹回り8.5m、根回り14.3mあり、
推定樹齢は約650年という巨木だ。
4月から5月上旬には雌雄異花の淡い黄緑色の小花をつけるとか。県の天然記念物に指
定されていて、上部は枯れたのか途中で切られているが、根元の太さに圧倒される。
東側の民家の前の畑では、紅梅がかなり花を見せていた。
清河寺の参道には古木の梅が並ぶが、まだつぼみが堅い。山門を入った左手の紅梅だけ
が開花を始めていた。
清河寺は、14世紀中頃に開かれた鎌倉円覚寺の末寺。古くは七堂伽藍を連ねた大きな
寺だったと伝えられているという。
山門の正面に近年再建したらしい大本堂が堂々と立ち、山門の右手の鐘楼もりっぱな構
え。西側のお堂の前には、イチョウの高木が枯れ枝を不規則に広げていた。
門前を西進して県道216号を横断し、高木集落へ。県道横の工場西側にある横道から
南に回り、樹木が少なく開放的な境内の阿弥陀寺に行く。
寺は天正7年(1579)の開山、本堂内には大きな阿弥陀如来像が祭られ、江戸時代
は周辺を阿弥陀寺村と称していたほど大きな寺だったらしい。
江戸中期の享保期(1716~36)には寺子屋教育が始まり、近隣の子らに住職が読
み書き、そろばんを教えていたと伝えられているという。
境内のほこらに3体の石仏が並び、真ん中のお地蔵さんには元禄3年(1690)と刻
まれていた。
北西に300m㍍ほどで法光寺がある。法光寺は江戸時代初期にこの地、指扇(さしお
うぎ)を治めた山内氏初代一唯(かずただ)の家臣、高村権之丞が創建したと伝えられて
いるとか。
門前から境内の常緑高木が目に付き、山門を入った右手にスダジイが大きく枝を広げて
いる。
さいたま市指定天然記念物で、指定時の高さ15m、目通り4.53m、根回り7.4
m、枝張りは東西、南北ともに20mを超え、豊富な枝振りを見せていた。
さらに300mほど西進した中釘(なかくぎ)集落に、大きな樹木に囲まれた一角が望
まれる。
永昌寺の境内林で、右手の屋根付きの鳥居を入ると秋葉三尺坊と呼ぶ社殿が祭られてい
た。
永昌寺は、この後訪ねる予定の秋葉神社の別当をつとめており、秋葉神社と一体であっ
た秋葉三尺坊は、明治初年(1868)の神仏分離令によりここに移されたのだという。
秋葉三尺坊の左手、土塀に囲まれた一帯が永昌寺の境内で、山門を入った正面に本堂を
構え、山門近くには2組の六地蔵を祭った地蔵堂が並んでいた。
永昌寺前から南西に進むと、次の交差点際が「秋葉の森総合公園」の南東端で、公園は
北に向かって南北に長く延びている。
管理棟であるセンターハウスに向かう導入路の、モクレンらしい街路樹の芽は固いつぼ
みのまま。陽の差し込まぬ道路際には残雪がかなり残っていた。
センターハウス↑と天然芝サッカー場↓の間を西南方に回り込む。
南側斜面や日影の園路は、やはり残雪に覆われている。
公園の南西端から雑木林の間の土の道を抜けて東に回り込み、妙玖寺(みょうきゆうじ)
の前に出た。
妙玖寺には、山内一豊(やまのうちかずとよ)の甥(おい)で指扇領主だった山内一唯
一族の墓があるのだが、以前来た時には関係者以外は入山禁止だった。
恐る恐る山門前に進んだら、犬猫はお断りの標示だけだったので境内に入り、本堂に参
拝後、左手にある山内一唯一門の墓所にも一礼した。
ここ指扇の地が旗本山内氏と関係をもつのは、元和9年(1623)に山内一唯が2代
将軍徳川秀忠から、指扇領18か村3,000石を拝領したことに始まるとのこと。
以後、4代豊房が土佐山内氏の養子となるまで67年間、中釘に陣屋を構えて当地を治
め、初代一唯は、荒川の洪水を防ぐために堤防を築き、新田を開くなど多くの治績を今に
伝えているという。
一門の墓の一部は、新しい墓石に取り替えられていた。
門前から真っ直ぐ南に進み、中釘集落の中心にある秋葉神社に入る。社殿の西側には、
ミカンがたわわに実をつけていた。
秋葉神社はもと駿州(静岡県東部)で飽波神社といわれ、遠州(静岡県西部)に移され
た後にここに遷座されたと伝えられ、天平年間(729~49)に創建という古社。
その後徳川の世に山内一唯に守護神として篤く崇敬され、紀州徳川家の祈願所にもなり、
火災・盗難防護、延命長寿、家内安全の神として崇敬され、春秋の例大祭には関東各地か
ら多くの参拝客が訪れるという。
この後は駅に向かうことにして、西側の車道を南南西に向かう。平方領々家集落を経て
西大宮バイパスの高架下を抜け、近代的駅舎になったJR川越線の指扇駅に15時45分
に着いた。
(天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 上尾、歩行地 さいたま市西区、
歩数 19,900)
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1週間余り続いた寒波が緩んだので、カントリーウオークグループの新しいメンバー水
野さんの、「旅のスケッチ展」の観覧に出かけた。
JR川越線の日進駅北口を、10時52分にスタートする。
地形図上に記された、駅前通りと鴨川沿いの番場公園近くにあるはずの寺を探しながら
行くが、両方とも無かった。
番場公園の横を北進して国道16号大宮バイパスを歩道橋で越え、西に延びるバス道路
へ。鴨川の共栄橋を渡り、内野本郷交差点を右折して北への住宅地を進む。
旅のスケッチ展会場の「クラフト&ギャラリー風画(ふうが)」は、介護老人保護施設
「ケア大宮花の丘」の東側、すぐ近くにあった。
ギャラリーには水野さんも居られ、水野さんが描いた各地のスケッチ画が30点余り展
示されていた。
私がかなり以前に訪ねた乳頭温泉などの絵もあり、懐かしく拝見する。私の郷里が県内
・小川町ということを話すと、展示してない作品の中から小川町の造り酒屋と裏通りの風
景を描いた絵も見せていただく。特に、普通の人が見落としがちな裏通りに目をつけて描
かれた水野さんの画才に感心する。
ギャラリーのオーナー井出さんは、現代美術作家とか。遺跡発掘調査をきっかけに縄文
式土器の魅力にひかれ、現在は復元土器の作家としても知られているようで、飲食コーナ
ーには井出さんの作品がたくさん展示されていた。
作品の観覧と水野さんや井出さんとの歓談、コーヒーをいただき、ほぼ1時間を経過し
た12時30分に会場を後にした。
すぐ北側には、「大宮花の丘農林公苑」がある。南北に長い約11haのエリアに、春は
チューリップ、夏はサルビア、秋にはコスモスなど、四季折々の花が咲き競うというが、
厳冬期の現在は花に乏しく、わずかに南側の小さいエリアにパンジーが花を見せていた。
北側を横切る道路を横断して、「花の食品館」↑と呼ぶ地元農産物や季節の花の直売を
する建物の横を通過する。そばのシダレウメはまだつぼみのまま。
その先、広い苑内を囲む広葉樹も枯れ枝で色彩に乏しい。池の横の低い丘陵に上がって
周辺を一望して引き返す。
苑内には、植木鉢を重ねて人形のようにした飾り物が幾つも置かれていた。
公園の西側に見える梅林の北側には、10日前の残雪が残る。道路の南側に戻り、パン
ジーの花畑を眺めながら東屋(あずまや)で昼食にした。
風も無く暖かい日射しなので、午後は以前にカントリーウオークの例会などで歩いたこ
とのある、西側の寺社を幾つか巡ることにする。
ケア大宮花の丘北側の道路を西へ、南行、北行が分離した幅広い国道17号・上尾道路
を西新井(南)交差点で横断する。
次の十字路を南西に折れ、県道165号沿いの清河寺(せいがんじ)郵便局を挟んで北
東と南西にある地形図上の神社マークの場所を探したが、ここも両方の神社はない。
郵便局前のV字路を北進し、この辺りの地名にもなっている清河寺の前に出た。まずは、
東側の小さい森に祭られた神明社のご神木になっている大ケヤキを見る。
「清河寺の大ケヤキ」と呼び、樹高は32m、幹回り8.5m、根回り14.3mあり、
推定樹齢は約650年という巨木だ。
4月から5月上旬には雌雄異花の淡い黄緑色の小花をつけるとか。県の天然記念物に指
定されていて、上部は枯れたのか途中で切られているが、根元の太さに圧倒される。
東側の民家の前の畑では、紅梅がかなり花を見せていた。
清河寺の参道には古木の梅が並ぶが、まだつぼみが堅い。山門を入った左手の紅梅だけ
が開花を始めていた。
清河寺は、14世紀中頃に開かれた鎌倉円覚寺の末寺。古くは七堂伽藍を連ねた大きな
寺だったと伝えられているという。
山門の正面に近年再建したらしい大本堂が堂々と立ち、山門の右手の鐘楼もりっぱな構
え。西側のお堂の前には、イチョウの高木が枯れ枝を不規則に広げていた。
門前を西進して県道216号を横断し、高木集落へ。県道横の工場西側にある横道から
南に回り、樹木が少なく開放的な境内の阿弥陀寺に行く。
寺は天正7年(1579)の開山、本堂内には大きな阿弥陀如来像が祭られ、江戸時代
は周辺を阿弥陀寺村と称していたほど大きな寺だったらしい。
江戸中期の享保期(1716~36)には寺子屋教育が始まり、近隣の子らに住職が読
み書き、そろばんを教えていたと伝えられているという。
境内のほこらに3体の石仏が並び、真ん中のお地蔵さんには元禄3年(1690)と刻
まれていた。
北西に300m㍍ほどで法光寺がある。法光寺は江戸時代初期にこの地、指扇(さしお
うぎ)を治めた山内氏初代一唯(かずただ)の家臣、高村権之丞が創建したと伝えられて
いるとか。
門前から境内の常緑高木が目に付き、山門を入った右手にスダジイが大きく枝を広げて
いる。
さいたま市指定天然記念物で、指定時の高さ15m、目通り4.53m、根回り7.4
m、枝張りは東西、南北ともに20mを超え、豊富な枝振りを見せていた。
さらに300mほど西進した中釘(なかくぎ)集落に、大きな樹木に囲まれた一角が望
まれる。
永昌寺の境内林で、右手の屋根付きの鳥居を入ると秋葉三尺坊と呼ぶ社殿が祭られてい
た。
永昌寺は、この後訪ねる予定の秋葉神社の別当をつとめており、秋葉神社と一体であっ
た秋葉三尺坊は、明治初年(1868)の神仏分離令によりここに移されたのだという。
秋葉三尺坊の左手、土塀に囲まれた一帯が永昌寺の境内で、山門を入った正面に本堂を
構え、山門近くには2組の六地蔵を祭った地蔵堂が並んでいた。
永昌寺前から南西に進むと、次の交差点際が「秋葉の森総合公園」の南東端で、公園は
北に向かって南北に長く延びている。
管理棟であるセンターハウスに向かう導入路の、モクレンらしい街路樹の芽は固いつぼ
みのまま。陽の差し込まぬ道路際には残雪がかなり残っていた。
センターハウス↑と天然芝サッカー場↓の間を西南方に回り込む。
南側斜面や日影の園路は、やはり残雪に覆われている。
公園の南西端から雑木林の間の土の道を抜けて東に回り込み、妙玖寺(みょうきゆうじ)
の前に出た。
妙玖寺には、山内一豊(やまのうちかずとよ)の甥(おい)で指扇領主だった山内一唯
一族の墓があるのだが、以前来た時には関係者以外は入山禁止だった。
恐る恐る山門前に進んだら、犬猫はお断りの標示だけだったので境内に入り、本堂に参
拝後、左手にある山内一唯一門の墓所にも一礼した。
ここ指扇の地が旗本山内氏と関係をもつのは、元和9年(1623)に山内一唯が2代
将軍徳川秀忠から、指扇領18か村3,000石を拝領したことに始まるとのこと。
以後、4代豊房が土佐山内氏の養子となるまで67年間、中釘に陣屋を構えて当地を治
め、初代一唯は、荒川の洪水を防ぐために堤防を築き、新田を開くなど多くの治績を今に
伝えているという。
一門の墓の一部は、新しい墓石に取り替えられていた。
門前から真っ直ぐ南に進み、中釘集落の中心にある秋葉神社に入る。社殿の西側には、
ミカンがたわわに実をつけていた。
秋葉神社はもと駿州(静岡県東部)で飽波神社といわれ、遠州(静岡県西部)に移され
た後にここに遷座されたと伝えられ、天平年間(729~49)に創建という古社。
その後徳川の世に山内一唯に守護神として篤く崇敬され、紀州徳川家の祈願所にもなり、
火災・盗難防護、延命長寿、家内安全の神として崇敬され、春秋の例大祭には関東各地か
ら多くの参拝客が訪れるという。
この後は駅に向かうことにして、西側の車道を南南西に向かう。平方領々家集落を経て
西大宮バイパスの高架下を抜け、近代的駅舎になったJR川越線の指扇駅に15時45分
に着いた。
(天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 上尾、歩行地 さいたま市西区、
歩数 19,900)
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