2015年3月8日(日)
真冬並みの寒さであいにくの小雨模様となったが、カントリーウオークグループの第
221回例会に参加する。今回の集合はJR常磐線の佐貫(さぬき)駅。3組に分かれて
10時5分に東口を出た。
== 若柴宿を抜けて蛇沼公園へ ==
区画整理された佐貫三丁目から佐貫四丁目の住宅地を進むと、江川の流れに近い通りに
日本相撲協会の式秀(しきひで)部屋があった。
もと小結の大潮が、年寄・式守秀五郎を取得して1992年に時津風部屋から分家して
創設したという。まだ関取は十両が1人で、幕内力士はいないようだ。
少し戻って細い流れの江川の協和橋を渡る。
幅500m前後の田園地帯を横断して延命寺坂を上がり、若柴町の静かな集落に入る。
周辺の住宅は、広い屋敷に塀を巡らした古くからのりっぱな家が並ぶ。
そばの八坂神社のところに「若柴宿(わかしばしゆく)案内図」があり、この通りが水
戸街道の宿場だったとわかる。
江戸の千住宿から七つ目の宿場で、両端が屈曲したクランクの中の直線部約500mの
範囲、屈曲部の両端に八坂神社と金龍寺があり、隣接する藤代宿、牛久宿が各々約4㎞と
近いことから、本陣は置かれてなかったという。
小さめの社殿の八坂神社に参拝して、その横の三差路から南西へ向かう。集落内には花
が見頃の梅の木が多く、古木も目に付く。
すぐ先には、珍しい名の「鬮(くじ)神社」への標識があった。
コンクリート造りのトイレの上に乗用車の置かれた、スズキのサービス店横を過ぎる。
少しの平地林を抜けて戸別住宅の並ぶ龍ヶ崎ニュータウンに入り、松葉五丁目で県道
243号を歩道橋で越えて若葉公園へ。小さい東屋(あずまや)で雨を避け小休止した。
長山中の東側から、蛇沼(へびぬま)へ下れそうな未舗装の道があったので進んだが、
沼の西側堤防下で行き止まり。戻って長山三丁目から四丁目の南側車道を進む。
路傍にフキノトウが花を見せ、アセビもピンクの花をいっぱいつけていた。
蛇沼の北側台地上にある蛇沼公園に11時50分に入る。ほかのグループもほぼ同時に
着き、東屋にシートを広げて昼食にした。
== 女化神社から馳馬町の古寺へ ==
公園内は豊富な落葉広葉樹に覆われ、雨で濡れた梢の間から静かなたたずまいの蛇沼が
見下ろせる。12時40分に公園を後にした。
木々の切れ目から北に突き出た蛇沼を見下ろし、長山八丁目の住宅地の東端を回り、ニ
ュータウンを離れる。
真っ直ぐに伸びる車道を東進し、県道48号を越えてすぐ先、牛久市内の龍ケ崎市飛地
にある開放的な境内の女化(おなばけ)神社に入る。
装飾の多いりっぱな拝殿で、背後の本殿は2階建ての覆家(おおいや)の中。
拝殿には4枚の大きな絵馬が奉納され、狛犬は子連れのキツネである。
社務所でもらった縁起によれば、建久(1190~9)の頃、源頼朝が富士の裾野に狩
りにいった際、夢の中に霊狐が現れて命乞いして消え、翌朝白狐が頼朝の前に現れたので、
常陸国高見が原の稲荷の祠(ほこら)に住むようにと言ったとか。
時移り永正6年(1509)、猟師に撃たれそうな狐を助けた忠五郎の家に、老僕と若
い女が宿を求めてきたので宿を貸したが、老僕がいなくなり、女は耕作など手伝い心も顔
立ちも美しいので忠五郎と結婚し、3人の子を設けた。
中秋のある日、末子に乳を飲ませていた時、遊びから帰った長子が姿を見て、自分の母
親が狐だっのに驚き泣き叫び、母親は子に自分の正体を知られたのを恥じて、歌を1首残
して居なくなった。
忠五郎に恩義を感じた若い女性が女性に化けて恩に報いたこの神秘を、語り伝えて人呼
んで「女化原」といい、「女化稲荷」と称するようになったという。
明るくなっても止まなかった雨がようやく止んだので、梅の咲く鳥居の前で記念撮影を
した。
桜の多い境内から、南南東へ真っ直ぐ500m余り進む。右折して細いあぜ道を抜け、
車の途切れを待って交通量の多い県道48号を横断する。
県道際に、交通安全の守り神なのか?こんな石像が立っていた。
さらに先へ、緑に覆われた牧草用らしい麦畑などの間を進む。左折しておびただしい竹
に侵食された杉の平地林を抜け、大羽谷津の谷地田を横切り、中根台の住宅地へ。
県道243号の南側にあった、北竜台公園で小休止した。
中根台の住宅地と大正堀川沿いの田んぼの間、静かな車道を中根台中下まで進む。
田んぼの中を横断して馳馬(なれうま)町の古くからの集落に上がると、常光院があっ
た。
堂々たる本堂で、庫裡(くり)も趣ある造り。松や芝生など庭の植栽もよく手入れされ
ていて気持ちよい。
本堂左手のお堂の前に、合掌する可愛いお地蔵さんが立っていた。
集落内の細道を抜けて、南側の来迎院(らいごういん)へ。永正14年(1518)の
開山で、本山は比叡山延暦寺。寛政3年(1791)には、上野の寛永寺から200両を
下賜され、本堂と庫裡を再建したという。
山門を入って右手にある多宝塔は、推定500年前の建立とされ、関東地方に唯一残る
最古の多宝塔で、国指定重要文化財である。
豪壮な本殿には、阿弥陀如来三尊が祭られていた。
境内にはほかに、願かけ地蔵や寝釈迦撫仏(ねしゃかなでぼとけ)、六地蔵、稲荷大明
神、弁財天、水子地蔵などがある。
台地下の旧道を抜けて県道4号の交差点に出て、すぐ北の県道西側にある龍ケ崎市立民
俗博物館に行き、20分ほど観覧する。
屋外には、佐貫~龍ヶ崎間を昭和46年(1971)まで走ったSL4号機や、農具な
どを展示する「まで屋」と呼ぶ農家の納屋、商家を模した建物、水車小屋などが移築され
ている。
館内の展示室には、原始・古代から近代までの龍ヶ崎ゆかりの道具や資料、パネルや写真
など、貴重な資料や龍ヶ崎独特のものもあり、なかなか充実した展示だった。
県道の下を東に出て、文化会館↓や市立中央図書館の横を抜ける。
愛宕中の前から田園地帯を南下して県道5号を横断する。左手には龍ヶ崎市役所などが
望まれる。
龍ヶ崎市役所
関東鉄道竜ヶ崎線を陸橋で越えて南に回り、同線の終点の竜ヶ崎駅に16時3分に着い
た。
16時20分発1両のディーゼル車で佐貫駅に戻り、上野行き上り電車に乗る。
(参加 12人、天気 雨後曇、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 牛久、龍ケ崎、
歩行地 龍ケ崎市、牛久市、歩数 24,200)
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真冬並みの寒さであいにくの小雨模様となったが、カントリーウオークグループの第
221回例会に参加する。今回の集合はJR常磐線の佐貫(さぬき)駅。3組に分かれて
10時5分に東口を出た。
== 若柴宿を抜けて蛇沼公園へ ==
区画整理された佐貫三丁目から佐貫四丁目の住宅地を進むと、江川の流れに近い通りに
日本相撲協会の式秀(しきひで)部屋があった。
もと小結の大潮が、年寄・式守秀五郎を取得して1992年に時津風部屋から分家して
創設したという。まだ関取は十両が1人で、幕内力士はいないようだ。
少し戻って細い流れの江川の協和橋を渡る。
幅500m前後の田園地帯を横断して延命寺坂を上がり、若柴町の静かな集落に入る。
周辺の住宅は、広い屋敷に塀を巡らした古くからのりっぱな家が並ぶ。
そばの八坂神社のところに「若柴宿(わかしばしゆく)案内図」があり、この通りが水
戸街道の宿場だったとわかる。
江戸の千住宿から七つ目の宿場で、両端が屈曲したクランクの中の直線部約500mの
範囲、屈曲部の両端に八坂神社と金龍寺があり、隣接する藤代宿、牛久宿が各々約4㎞と
近いことから、本陣は置かれてなかったという。
小さめの社殿の八坂神社に参拝して、その横の三差路から南西へ向かう。集落内には花
が見頃の梅の木が多く、古木も目に付く。
すぐ先には、珍しい名の「鬮(くじ)神社」への標識があった。
コンクリート造りのトイレの上に乗用車の置かれた、スズキのサービス店横を過ぎる。
少しの平地林を抜けて戸別住宅の並ぶ龍ヶ崎ニュータウンに入り、松葉五丁目で県道
243号を歩道橋で越えて若葉公園へ。小さい東屋(あずまや)で雨を避け小休止した。
長山中の東側から、蛇沼(へびぬま)へ下れそうな未舗装の道があったので進んだが、
沼の西側堤防下で行き止まり。戻って長山三丁目から四丁目の南側車道を進む。
路傍にフキノトウが花を見せ、アセビもピンクの花をいっぱいつけていた。
蛇沼の北側台地上にある蛇沼公園に11時50分に入る。ほかのグループもほぼ同時に
着き、東屋にシートを広げて昼食にした。
== 女化神社から馳馬町の古寺へ ==
公園内は豊富な落葉広葉樹に覆われ、雨で濡れた梢の間から静かなたたずまいの蛇沼が
見下ろせる。12時40分に公園を後にした。
木々の切れ目から北に突き出た蛇沼を見下ろし、長山八丁目の住宅地の東端を回り、ニ
ュータウンを離れる。
真っ直ぐに伸びる車道を東進し、県道48号を越えてすぐ先、牛久市内の龍ケ崎市飛地
にある開放的な境内の女化(おなばけ)神社に入る。
装飾の多いりっぱな拝殿で、背後の本殿は2階建ての覆家(おおいや)の中。
拝殿には4枚の大きな絵馬が奉納され、狛犬は子連れのキツネである。
社務所でもらった縁起によれば、建久(1190~9)の頃、源頼朝が富士の裾野に狩
りにいった際、夢の中に霊狐が現れて命乞いして消え、翌朝白狐が頼朝の前に現れたので、
常陸国高見が原の稲荷の祠(ほこら)に住むようにと言ったとか。
時移り永正6年(1509)、猟師に撃たれそうな狐を助けた忠五郎の家に、老僕と若
い女が宿を求めてきたので宿を貸したが、老僕がいなくなり、女は耕作など手伝い心も顔
立ちも美しいので忠五郎と結婚し、3人の子を設けた。
中秋のある日、末子に乳を飲ませていた時、遊びから帰った長子が姿を見て、自分の母
親が狐だっのに驚き泣き叫び、母親は子に自分の正体を知られたのを恥じて、歌を1首残
して居なくなった。
忠五郎に恩義を感じた若い女性が女性に化けて恩に報いたこの神秘を、語り伝えて人呼
んで「女化原」といい、「女化稲荷」と称するようになったという。
明るくなっても止まなかった雨がようやく止んだので、梅の咲く鳥居の前で記念撮影を
した。
桜の多い境内から、南南東へ真っ直ぐ500m余り進む。右折して細いあぜ道を抜け、
車の途切れを待って交通量の多い県道48号を横断する。
県道際に、交通安全の守り神なのか?こんな石像が立っていた。
さらに先へ、緑に覆われた牧草用らしい麦畑などの間を進む。左折しておびただしい竹
に侵食された杉の平地林を抜け、大羽谷津の谷地田を横切り、中根台の住宅地へ。
県道243号の南側にあった、北竜台公園で小休止した。
中根台の住宅地と大正堀川沿いの田んぼの間、静かな車道を中根台中下まで進む。
田んぼの中を横断して馳馬(なれうま)町の古くからの集落に上がると、常光院があっ
た。
堂々たる本堂で、庫裡(くり)も趣ある造り。松や芝生など庭の植栽もよく手入れされ
ていて気持ちよい。
本堂左手のお堂の前に、合掌する可愛いお地蔵さんが立っていた。
集落内の細道を抜けて、南側の来迎院(らいごういん)へ。永正14年(1518)の
開山で、本山は比叡山延暦寺。寛政3年(1791)には、上野の寛永寺から200両を
下賜され、本堂と庫裡を再建したという。
山門を入って右手にある多宝塔は、推定500年前の建立とされ、関東地方に唯一残る
最古の多宝塔で、国指定重要文化財である。
豪壮な本殿には、阿弥陀如来三尊が祭られていた。
境内にはほかに、願かけ地蔵や寝釈迦撫仏(ねしゃかなでぼとけ)、六地蔵、稲荷大明
神、弁財天、水子地蔵などがある。
台地下の旧道を抜けて県道4号の交差点に出て、すぐ北の県道西側にある龍ケ崎市立民
俗博物館に行き、20分ほど観覧する。
屋外には、佐貫~龍ヶ崎間を昭和46年(1971)まで走ったSL4号機や、農具な
どを展示する「まで屋」と呼ぶ農家の納屋、商家を模した建物、水車小屋などが移築され
ている。
館内の展示室には、原始・古代から近代までの龍ヶ崎ゆかりの道具や資料、パネルや写真
など、貴重な資料や龍ヶ崎独特のものもあり、なかなか充実した展示だった。
県道の下を東に出て、文化会館↓や市立中央図書館の横を抜ける。
愛宕中の前から田園地帯を南下して県道5号を横断する。左手には龍ヶ崎市役所などが
望まれる。
龍ヶ崎市役所
関東鉄道竜ヶ崎線を陸橋で越えて南に回り、同線の終点の竜ヶ崎駅に16時3分に着い
た。
16時20分発1両のディーゼル車で佐貫駅に戻り、上野行き上り電車に乗る。
(参加 12人、天気 雨後曇、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 牛久、龍ケ崎、
歩行地 龍ケ崎市、牛久市、歩数 24,200)
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