2014年10月19日(日)午後
「続カタツムリ歩行」の例会の散会後、帰りは周辺の社寺を回ってJR武蔵野線の西浦
和駅に向かうことにして、13時30分に別所沼公園を後にした。
公園の西北端にある別所沼会館の横から公園を出て、公園の北側を真っ直ぐに伸びる裏
門通りを西進して鴻沼川を渡る。
JR武蔵野線と東北・上越新幹線の高架下を抜けて西堀八丁目に入り、松やクス、カシ、
スギなどの豊富な樹林に囲まれ、鳥の声が賑やかな西堀氷川神社に入る。
鎌倉時代、畠山重忠がこの地を領したときに真鳥山(まとりやま)城を築き、家臣の真
鳥日向守を代官としてこの居館に居住させたとのこと。神社は当地西堀の鎮守として、応
永年間(1394~1428)に武蔵一宮の氷川神社を勧請したとされるという。
慶安元年(1648)には社領10石の朱印を附され、現在の本殿は江戸中期から後期
に建造され、市指定文化財に選定されている。
拝殿前の天水桶には、精巧な龍が浮き彫りされていた。
すぐ西側、台地下の寺院を目指して北側から一つ隣の道路に回り、背後の墓地から万福
寺へ。
墓地は広いが境内は狭くて樹木もわずか。門の両側、別々の棟に2体の仁王像が立って
いた。
氷川神社の南側、西堀二丁目の医王寺はどっしりしたコンクリート造り。鐘楼には、さ
いたま市文化財で江戸中期の宝暦14年(1764)に造立の銅鐘が下がる。
市内の梵鐘(ぼんしょう)では、太平洋戦争時の供出を免れたただ一つのものだという。
東側石段上の収蔵庫には、県指定文化財で平安時代末期の制作と推定される木像大日如
来座像が収蔵されているが、見ることはできない。
収蔵庫の周囲には、移設したらしい古い石仏がたくさん並んでいた。
医王寺の南には、墓地に囲まれてコンクリート造りで足立第三番札所という上宮薬師堂
がある。
近くの民家の塀際に、見慣れぬ花が咲いていた。
別所沼の南からJR埼京線中浦和駅の北を抜けてきた通りを横断し、鴻沼川を渡って関
一丁目の東福寺へ。
墓地の北西側高みに本堂があるが、ご住職の住まいと一体化しているのか建物周辺は生
活感あふれたものが並び、屋根を見ないと寺らしさが感じられない。
堂内には、市指定文化財で市内でも数少ない平安時代後期の地方仏師の制作とみられる、
木造如来形座像(ぎょうざぞう)が祭られているという。
墓地には、やはり市文化財で正和4年(1315)銘のの阿弥陀三尊種子板石塔婆(あ
みださんぞんしゅじいたいしとうば)の説明板が立っている。
そばに似たような板石塔婆↑があったが、よく見ると説明板の写真とは少し違っていた。
すぐ西側には、鴻沼川を背にして神明神社が祭られている。背後の桜などの樹木に覆わ
れた盛土は、直径33m、高さ4.5mの規模の「神明神社古墳」と呼ぶ円墳だという。
さらに、直前に訪ねた東福寺は、明治4年(1871)に廃寺になって荒廃した本堂跡
に、後年現在地にあった民家を移築してお堂とし、昭和46年(1971)に檀家の人達
により再建されたものと記され、神明神社も以前は東福寺の守護神として祭られたことが
推測されるとも記されていた。
神社の背後にある小さな遊園地の方に回ると、円墳であることがより良く確認できた。
鴻沼川左岸沿いの遊歩道を進んで田島四丁目の公園に入る。
ソメイヨシノの多い園内には児童遊具があり、南側は「うんどう遊園」と名付けられ
ていて、体力維持・改善を図るための施設が幾つか設けられていた。
公園の西側一帯は、カシ、スギ、ケヤキ、松などの豊富な樹木に囲まれた氷川神社で、
ここも鳥の声が賑やか。
創立年代は不詳のようだが、徳川家光から7石の朱印を賜り、以後歴代将軍から引き続
き朱印を受けており、近隣7か村の鎮守として「新編武藏風土記稿(しんぺんむさしふど
きこう)」にも記載されているという。
長い参道を南に抜けて県道40号に出る。そばの交差点際に火の見やぐらが残り、交差
点の名も「田島火の見下」になっていた。
県道の少し先にあった覚了坊は、7月の続カタツムリ歩行で立ち寄ったところ。広い墓
地の東側にコンクリート造りのお堂だけのシンプルな境内である。
県道の次のT字路を南に入り、JR武蔵野線の線路際まで進み、近くの薬王院へ。
ここも7月例会で最初に訪ねたところ。
薬師堂↑に市文化財の鰐口が下がり、本堂前に新しい十三仏の石像が並んでいる。
寺から西浦和駅はすぐ近い。15時24分に着き、1分後に来た府中本町行き電車で帰
途につく。
午後歩いたところも、この半世紀くらいの間に開けた住宅地と思われるが、社寺を巡っ
てみると古くからの歴史の残っていることが知れる。
(天気 晴、距離 4㎞。地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市南区、中央区、
桜区、歩数 9.100)
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「続カタツムリ歩行」の例会の散会後、帰りは周辺の社寺を回ってJR武蔵野線の西浦
和駅に向かうことにして、13時30分に別所沼公園を後にした。
公園の西北端にある別所沼会館の横から公園を出て、公園の北側を真っ直ぐに伸びる裏
門通りを西進して鴻沼川を渡る。
JR武蔵野線と東北・上越新幹線の高架下を抜けて西堀八丁目に入り、松やクス、カシ、
スギなどの豊富な樹林に囲まれ、鳥の声が賑やかな西堀氷川神社に入る。
鎌倉時代、畠山重忠がこの地を領したときに真鳥山(まとりやま)城を築き、家臣の真
鳥日向守を代官としてこの居館に居住させたとのこと。神社は当地西堀の鎮守として、応
永年間(1394~1428)に武蔵一宮の氷川神社を勧請したとされるという。
慶安元年(1648)には社領10石の朱印を附され、現在の本殿は江戸中期から後期
に建造され、市指定文化財に選定されている。
拝殿前の天水桶には、精巧な龍が浮き彫りされていた。
すぐ西側、台地下の寺院を目指して北側から一つ隣の道路に回り、背後の墓地から万福
寺へ。
墓地は広いが境内は狭くて樹木もわずか。門の両側、別々の棟に2体の仁王像が立って
いた。
氷川神社の南側、西堀二丁目の医王寺はどっしりしたコンクリート造り。鐘楼には、さ
いたま市文化財で江戸中期の宝暦14年(1764)に造立の銅鐘が下がる。
市内の梵鐘(ぼんしょう)では、太平洋戦争時の供出を免れたただ一つのものだという。
東側石段上の収蔵庫には、県指定文化財で平安時代末期の制作と推定される木像大日如
来座像が収蔵されているが、見ることはできない。
収蔵庫の周囲には、移設したらしい古い石仏がたくさん並んでいた。
医王寺の南には、墓地に囲まれてコンクリート造りで足立第三番札所という上宮薬師堂
がある。
近くの民家の塀際に、見慣れぬ花が咲いていた。
別所沼の南からJR埼京線中浦和駅の北を抜けてきた通りを横断し、鴻沼川を渡って関
一丁目の東福寺へ。
墓地の北西側高みに本堂があるが、ご住職の住まいと一体化しているのか建物周辺は生
活感あふれたものが並び、屋根を見ないと寺らしさが感じられない。
堂内には、市指定文化財で市内でも数少ない平安時代後期の地方仏師の制作とみられる、
木造如来形座像(ぎょうざぞう)が祭られているという。
墓地には、やはり市文化財で正和4年(1315)銘のの阿弥陀三尊種子板石塔婆(あ
みださんぞんしゅじいたいしとうば)の説明板が立っている。
そばに似たような板石塔婆↑があったが、よく見ると説明板の写真とは少し違っていた。
すぐ西側には、鴻沼川を背にして神明神社が祭られている。背後の桜などの樹木に覆わ
れた盛土は、直径33m、高さ4.5mの規模の「神明神社古墳」と呼ぶ円墳だという。
さらに、直前に訪ねた東福寺は、明治4年(1871)に廃寺になって荒廃した本堂跡
に、後年現在地にあった民家を移築してお堂とし、昭和46年(1971)に檀家の人達
により再建されたものと記され、神明神社も以前は東福寺の守護神として祭られたことが
推測されるとも記されていた。
神社の背後にある小さな遊園地の方に回ると、円墳であることがより良く確認できた。
鴻沼川左岸沿いの遊歩道を進んで田島四丁目の公園に入る。
ソメイヨシノの多い園内には児童遊具があり、南側は「うんどう遊園」と名付けられ
ていて、体力維持・改善を図るための施設が幾つか設けられていた。
公園の西側一帯は、カシ、スギ、ケヤキ、松などの豊富な樹木に囲まれた氷川神社で、
ここも鳥の声が賑やか。
創立年代は不詳のようだが、徳川家光から7石の朱印を賜り、以後歴代将軍から引き続
き朱印を受けており、近隣7か村の鎮守として「新編武藏風土記稿(しんぺんむさしふど
きこう)」にも記載されているという。
長い参道を南に抜けて県道40号に出る。そばの交差点際に火の見やぐらが残り、交差
点の名も「田島火の見下」になっていた。
県道の少し先にあった覚了坊は、7月の続カタツムリ歩行で立ち寄ったところ。広い墓
地の東側にコンクリート造りのお堂だけのシンプルな境内である。
県道の次のT字路を南に入り、JR武蔵野線の線路際まで進み、近くの薬王院へ。
ここも7月例会で最初に訪ねたところ。
薬師堂↑に市文化財の鰐口が下がり、本堂前に新しい十三仏の石像が並んでいる。
寺から西浦和駅はすぐ近い。15時24分に着き、1分後に来た府中本町行き電車で帰
途につく。
午後歩いたところも、この半世紀くらいの間に開けた住宅地と思われるが、社寺を巡っ
てみると古くからの歴史の残っていることが知れる。
(天気 晴、距離 4㎞。地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市南区、中央区、
桜区、歩数 9.100)
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