あるきメデス

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奈良・山の辺の道を歩く ③櫟本から帯解まで

2013-05-02 22:51:01 | 奈良を歩く
 2013年4月18日(木)

 山の辺の道は、昨日の最後の石上神宮からさらに北上して奈良市に入り、弘仁寺(こう
にんじ)から正暦寺(しょうりゃくじ)、白毫寺(びゃくごうじ)などを経て、奈良公園
を抜けて近鉄奈良駅まで続くのだが、今日は帰宅の時間を考え、その中の弘仁寺と正暦寺
を中心に巡るコースを歩くことにした。

 奈良駅から前日と同じ電車に乗り、昨日のゴールの天理駅よりひとつ手前、無人で昭和
年代前半の雰囲気を残す櫟本(いちのもと)駅に8時44分に着いた。


 8時55分に出発して、東側の櫟本町の家並みへ。駅前通りの民家に、セイヨウサクラ
ソウがたくさん飾られていた。



 周囲を大和棟(やまとむね)の民家に囲まれた狭い境内の高良神社に行く。社殿もこぢ
んまりしている。


 天理櫟本郵便局前を南へ。高瀬川沿いの通りの角に「右なら 左たつたみち」の古い道
標が立っていた。

 左岸沿いの車道を東進して南北に走る国道169号を越え、和爾下(わにした)神社の
赤鳥居をくぐる。境内の車道際に、「神武天皇遙拝所」の石柱が立っていた。

 左折したカシなどの常緑広葉樹林下に和爾下神社古墳の説明板があり、「全長120m
の前方後円墳で四世紀末から五世紀初頭のものと推定され、周辺は古代大和政権の一翼を
担った和爾氏の本拠地と推定され、周辺の東大寺古墳群は、和爾氏の奥津城と考えられる」
と記されていた。


 その先を右折して石段を上がり、和爾下神社に参拝する。神社は、神護景雲3(769)
年に和爾下神社古墳の上に治道社として祭り、明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに
当たると考証され、和爾下神社と定めたという。

 桃山時代の様式を備えた切妻造り檜皮葺の本殿は、国の重要文化財に指定されている。

 参道を東に抜け、新しい住宅地を北東に上がり、公園として整備された国史跡の赤土山
(あかつちやま)古墳に行く。


 古墳時代前期後半に造られた前方後円墳。墳丘は上下二段構成で、後円部東側に「造り
出し」と呼ぶ儀式の場があり、家型埴輪(いえがたはにわ)が出土したという。

 その造り出し部には、家型埴輪などのレプリカが並んでいた。

 墳丘に上がると、東にシャープの総合開発センターの研究施設や社宅など幾つもの建物
が、南から西には大和平野の民家や工場などの展望が広がる。



 墳丘上を西側の入口まで戻る。計画では北西の和爾町を抜けて弘仁寺に行くつもりだっ
たが、シャープ総合開発センターの東にある白川溜池への道標があったので、それに従う
ことにした。

 経営再建中で相当人員削減をしたと見え、空室のままの社宅が続くシャープの構内の道
を南に抜けて、こちらもがら空きの駐車場の間を通り、高架の国道25号・名阪国道に沿
った側道に回る。

 名阪国道を越える高架の車道の先で、北への細道に入る。シャープ総合開発センターの
東側、釣り堀になっている池沿いに進んで東側台地に上がり、少し戻って白川溜池の南端
付近に回った。この先は山の辺の道である。

 眼前に広々とした水面の展望が広がり、対岸のやわらかな新緑の山並みが気持ちよい。

 白川溜池(白川ダム)は、農業用だったアースダムの堤体をかさ上げした治水ダムで、
農業用水の貯水容量や取水機能を損わずに洪水調節のための治水容量を確保し、高瀬川・
楢川流域の洪水調節を行うという。

 池の西側を中ほどまで進んで遊歩道に下り、取水塔近くまで進んでさらに下って小さい
流れを渡り、小規模な古墳公園に入った。

 かつて、この南には和爾小倉谷(わにおくらだに)古墳群と呼ぶ7基の古墳があったが、
1991年に白川ダム建設に伴い、この地に1号墳から3号墳までを移築復元したという。

 2号墳、3号墳には横穴式石室があった。


 ダムの北側、台地上の広い車道を東進する。八重桜の並木に沿って300m余り進むと、
北側の山すそに並ぶ虚空蔵町(こくぞうちょう)の家並みが見下ろせる。


 奈良市内に入り、突き当たりのT字路を左折し、大和青垣国定公園や東海自然歩道の標
柱の立つ次のT字路も左折して、折り返すように虚空蔵町の旧道へ。


 水の入る前の棚田に沿って進み、りっぱなツツジの咲く民家の前を北に上がる。


 次のT字路を左折すると弘仁寺である。志納金を山門にある箱に入れて境内に入った。


 山を背にした静かなたたずまい。境内に八重桜やツツジ、フジ、ムラサキモクレン、ア
セビなどが花を競い、たくさんのモミジなどの新緑がみずみずしい。


 弘仁寺の創建は、嵯峨天皇が夢枕に出た地を探して建立したという説と、弘法大師が虚
空蔵山に流星が落ちるのを見て開基したという二つの説があるようだ。現在の建物は、戦
国時代に兵火で焼失したのを、江戸時代の1629年に再興したのだという。


 境内の中心に重厚な本堂↑があり、奥には運慶作といわれる大日如来像や、役行者(え
んのぎょうじや)像、不動明王像などを祭る明星堂↓があり、本堂の南下には庫裡(くり)
と思われる長い建物が並ぶ。本堂に上がり、本尊の虚空蔵菩薩を拝観した。


 境内を巡るうちに正午になったので、西側入口付近のモミジの下の石に腰を下ろして昼
食にした。

 山門を出て石段を下る。弘法大師が自ら刻んで奥の院の本尊としたという、不動明王の
石仏を祭る小さい不動堂が祭られ、傍らに「阿伽水の井戸」と呼ぶ湧水の水源があるが、
現在の湧水はわずかのようだった。


 さらに下って小さい流れを渡り、高樋町の集落を北西に進む。JAの先、時計塔のある
三差路を右折して、菩提仙川(ぼだいせんがわ)を挟んだ南面の新緑などを眺めながら東
北に向かって緩やかに上がって行く。


 700mほどのところに「ハナキレ地蔵」と呼ぶ、鎌倉時代の作で等身大の地蔵や、
「南無阿弥陀仏」と刻まれた慶長12(1607)銘の六字名号碑などを祭る地蔵堂があ
った。気温が上がって午後の日差しが暑く感じる。


 さらに同じくらい進むと「大本山正暦寺」の石碑が立ち、そばに「泣き笑い地蔵」と呼
ぶ2体のお地蔵さんが並んでいた。


 その先は正曆寺境内、しばらくはりっぱなカエデの木々が続き、その数は千本を超える
とか。秋には「錦の里」とも呼ばれる紅葉の名所のようで、その彩りがしのばれる。


 帰路となる円照寺方面への山道の上がり口に周辺の案内図があり、近くには「日本清酒
発祥之地」碑が立っていた。


 境内を流れる菩提仙川の清流を使って醸造された「菩提仙酒」は、至極上酒だったこと
が、室町中期、京都・相国寺(しょうこくじ)鹿苑(ろくおん)院内の蔭涼軒主(おんり
ようけんしゅ)の記した公用日記、「蔭涼軒日録」に記されているという。

 正暦寺は正暦3(992)年、一条天皇の勅命で創建、創建当初は坊舎86を数え、勅
願寺としての壮麗さを誇っていたようだが、現在は本堂、福寿院などわずかな伽藍を残す
のみとなっている。

 今日から、秘仏薬師如来椅像(いぞう)と客殿・福寿院に続く瑠璃殿の公開が始まって
いた。福寿院に上がり、周囲の木々を借景にした見事な庭園を眺める。




 さらに瑠璃殿と薬師如来椅像も拝観した。


 川を挟んで少し奥の高台にある本堂前の広場では、薬師会式の最後の火渡りが行われて
いるという。回ってみたらすでに火は燃え尽きていて、ほぼ火の消えた炭火の上を、寺の
僧や参拝の方々が裸足で次々に渡っていた。


 1時間前後滞在し、案内図のところから西方への山道へ。少し上がって小さい峠を越え、
10分足らずで土道から細い車道となる。


 しばらくは杉などの針葉樹林下を進み、やがて南面が開けて谷地田沿いに出た。

 「五つ塚古墳群」の説明板があり、山すそに5つの古墳が並んでいると記されていたが、
どこが古墳かは地形を見ても認識できない。


 その先に潅漑用のため池があり、池の南面に赤鳥居の立つ中の島が見える。池畔の道路
沿いには、山の辺の道の案内図と木製の万葉歌碑が立っていた。

 道路北側の赤鳥居が円照寺への道。木の段を上がって竹林などの林間を進むと、ひっそ
りとした大師堂が現れた。


 そばのT字路を右折してすぐ先に円照寺の山門がある。


 円照寺は、京都・修学院から移された門跡寺院とか。拝観は出来ないので門から正面の
建物などをのぞくだけだが、建物への参道はきれいに掃き清められていた。


 西への参道を少しで、東海自然歩道の標識に従い北側の山道へ。ヒノキなどの林間を西
へ回り込んで行くと地蔵堂があり、回りにもたくさんの石仏が並ぶ。


 竹林を抜けると「山の辺の道」の標柱が立ち、北に向きを変える。


 溜池の向こうに八島町の集落が広がり、池の横を進んで北側の崇道天皇八嶋陵に行く。
どこの天皇陵にも説明はないが、ここも宮内庁の注意書3条だけである。


 山の辺の道に分かれ、西側の車道に出て円照寺参道の入口まで進む。田んぼの中を西へ
真っ直ぐに伸びる農道に入り、北に若草山などの山並みなどを眺め、国道169号を横断
する。


 小学校の南側を回り、帯解(おびとけ)駅近くの住宅街に入る。16時6分の奈良駅行
き電車を目指して急いだが、2、3分ほど足りず、間に合いそうにない。

 文徳天皇妃がここの地蔵尊に祈願されて清和天皇をご安産して寺号を賜ったとされ、安
産・子育ての霊験あらたかな寺として信仰を集める帯解寺に寄り、参拝する。


 駅周辺の大和棟の並ぶ通りを回ったり、駅近くの店でアイスを食べたりして少しの時間
を費やし、16時半にJR帯解駅に着いた。


 16時52分発奈良行きに乗って奈良で奈良線に乗り継ぎ、京都駅発18時29分のひ
かり532号で東京駅に向かった。

(天気 快晴、距離 14㎞、地図(1/2.5万) 大和郡山、歩行地 天理市、奈良市、
 歩数 26,300、累積標高差 上り・下り各380m) 




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