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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

中野富士見町駅から善福寺川沿いを歩く(東京)

2016-12-12 21:11:04 | 江戸・東京を歩く
 2016年12月11日(土)

 カントリーウオークグループの第239回例会に参加した。快晴に恵まれたが、最高気
温は10℃前後までの予報で北風が冷たい。10時12分に東京メトロ丸ノ内線の支線、
中野富士見町駅をスタートした。


 == 杉並区郷土館を観覧して和田堀公園へ ==


 駅前から神田川右岸沿いを和田見橋まで進んで左岸に回る。コンクリート製の高い堤防
の柱の上に、セミやチョウ、ハトなど鉄製の飾りが続いている。
    

 間もなく神田川と善福寺川との合流点で、ほぼ同じくらいの流量のきれいな流れが合流
していた。そばに、善福寺川源流から11.3㎞地点の標識や「善福寺川流域案内板」が
ある。

 合流点の上流から見下ろす流れ。手前からの流れが善福寺川、右手からが神田川。

 案内板によれば、「善福寺川の水源は善福寺池で、杉並区の中央部を蛇行して流れ、中
野区との区界付近で神田川に合流する。この神田川水系は、都内の中小河川中でも最大規
模の流域を持つ都市河川」だという。

 この先は善福寺川左岸沿いの遡行(そこう)、間もなく右手はに変わった形態の大きな
建物沿いとなる。西側まで進んだら「普門館」の表示があり、ここが「吹奏楽の甲子園」
と呼ばれ「全国吹奏楽コンクール」の会場だった普門館かと知る。

 ただ、建物の耐震強度不足が分かり、コンクールは2012年からは別会場で開催され
ている。


 普門館構内を北に抜けると、北側にも巨大な変わった建物が目に入る。立正佼成会の大
聖堂で、普門館の西側には佼正学園中・高校や出版社などもあり、この辺り一帯は立正佼
成会の聖地のようだ。


 和田堀橋交差点で環七通りを横断し、再び善福寺川左岸沿いへ。


 その先は歩道幅が広がり、「神田川・環状七号線地下調整池」の説明板があった。そば
の建物が善福寺川取水施設で、洪水時にはここから取水した流れを、環状7号線地下の調
整池に貯留するという。

 二つ目の本村橋で右岸に回ると、杉並区の中学校駅伝大会のコースになっていて、交通
整理の警官や関係者がたくさん配置されている。注意しながら進み、紅葉の残る済美公園
で小休止する。


 その先済美橋までがコースで、選手の通過中は通行禁止となり、少しの時間待機させら
れた。




    
 この辺りから、両岸には木々が増えて公園が続く。ソメイヨシノはほぼ葉が落ちたが、
モミジやクヌギ、イチョウなど、まだよい彩りを残す木々があちこちに見られる。


     

 流れが大きく左にカーブして、その先しばらく続く和田堀公園のエリアとなり、遊歩道
は豊富な木々の間を通過する。




 左手に杉並区立郷土館の建物が見えたので、観覧することにした。


 南側道路際には、かやぶき屋根を銅板に変えた旧井口家長屋門が移築されていて、門の
西側の部屋には、機織り機や養蚕関係の古い用具などが展示されている。


 井口家は旧大宮前新田(現在の宮前や西荻南辺り)の名主で、建築年代は文化・文政年
間(1804~29)とされているという。


 館内に入り(入館料100円)、常設展示室で原始から古代の出土品、武家政権時代の
文書や板碑、江戸時代の景観やくらし、明治維新以後の発展の様子などを観覧する。




 奥の特別展示場は「昔のくらしと今のくらし」と呼ぶ収蔵資料展で、昭和の頃の懐かし
い家具や電気製品などが多数展示されていた。




 構内の長屋門横には民間信仰の庚申塔や富士信仰塔、石橋供養塔、五輪塔や道標など、
区内の石塔が10基余り並んでいる。


 川沿いの遊歩道に戻り、流れに泳ぐカルガモなどを眺めながらU字状に進むと、モミジ
の残る和田堀池があった。



 対岸のモミジの下の枯れ木に、カワセミがいるのを誰かが見つけた。しばらく動かなか
ったので皆で観察する。
    




 近くの武蔵野園と呼ぶ釣り堀の前に木製のベンチが幾つかあり、12時10分になった
ので、持ち寄ったアルコール類を開けたりしながら昼食にした。



 この辺りも木々が多く、クヌギやモミジ、メタセコイアなどの紅葉がかなり残っている。
    

 ミーティングと記念撮影をして、13時05分に出発した。


 == 大宮八幡宮から田端熊野神社まで ==
 
     
 公園内の御供米橋を渡り、クヌギなどの林間を少し上がる。東側眼下に工事中で流れを
覆った善福寺川を見下ろし、その向こうには新宿副都心のビル街が望まれる。


     

        
 赤門とも呼ばれる北神門から大宮八幡宮境内に入ると、明治・大正時代に奉納された14
個の力石が並ぶ。重さは27貫(101㎏)~50貫(187㎏)あり、昔の人は力持ち
だったと知れる。


 近くにはジュウガツザクラの若木があり、たくさんの花が見頃になっていた。
  

 大宮八幡宮は、康平6年(1063)に源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水
(いわしみず)八幡宮から勧請(かんじよう)したと伝わり、安産や子育て、厄除け開運
の神として信仰を集めているという。


 拝殿にて、今年1年の無事に感謝して参拝する。


 拝殿前に、七五三を形どったキクが飾られていた。拝殿の右手にはたくさんの絵馬が奉
納され、そのほとんどは安産祈願である。


    

 拝殿に相対する東側正面の神門の両側に、ご神木の男銀杏(いちょう)と女銀杏の老木
が高く枯れ枝を伸ばして立っていた。
     

 再び御供米橋を渡って左岸に戻り、さらに上流に向かう。両岸には豊富な広葉樹が残り、
気持ちよいウオーキングコースが続く。


     
 五日市街道の尾崎橋で左岸へ。右岸すぐ上流の大イチョウが鮮やかな黄葉を見せている。
枯れ枝となったソメイヨシノの古木の下を進み、天王橋で流れは逆V字状に折り返す。


     
 色づくメタセコイアの下を抜け、その先の道路で川を離れて左に上がり、成田西三丁目
の尾崎熊野神社に行く。豊富な木々に囲まれた拝殿はコンクリート造り。

 創建は大宮八幡宮と同年代といわれ、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、紀
州の熊野権現をこの地に勧請したのに基づくと伝えられ、旧成宗村尾崎の鎮守だったとか。

 拝殿前には、樹齢約400年というクロマツの大木が高く枝を広げ、区内でも有数の樹
木のひとつのようだ。
     

 ここが今日のゴールとし、14時20分に散会となる。3人が近くの東京メトロ丸ノ内
線南阿佐ヶ谷駅に向かい、残りはさらに善福寺川沿いを遡行してJR中央線荻窪駅に向か
った。

(参加 19人、天気 快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地
 中野区(少し)、杉並区、歩数 14,300) (荻窪駅までは通算10㎞、歩数 
 18,600)




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杉並・高円寺と梅里の寺町を巡る(東京)〈後半〉

2016-10-18 20:39:46 | 江戸・東京を歩く
 2016年10月15日(土)〈続き〉

 昼食を終え、そばの高円寺陸橋交差点を渡った青梅街道の南東側は、10月3日(月)
にも来た蚕糸の森公園。青梅街道の歩道には、これから行く妙法寺の参道入口として建て
られた青銅製の灯ろうが、参道を挟んで2基立っている。
     


 公園に入り、西側の園路を3日とは逆行して人工の滝の横から池の西側を回って南西端
に抜けた。


 妙法寺の旧参道だった細い道路を少しで、日蓮宗蓮光寺(れんこうじ)がある。江戸時
代は旗本寺として栄えたようで、台東区元浅草から、区画整理のため大正4年(1915)
に現在地に移転したとのこと。


 この寺で有名なのは「開運大黑天」で、日蓮上人が母妙蓮尼の病気平癒を祈願して彫っ
たと伝えられ、本堂右手前の大黒天堂↓に祭られている。本堂、大黒天堂ともコンクリー
ト造りで、近年塗り直したのか塗装は新しい。
        

 寺には、インド独立の志士チャンドラ・ボースの遺骨を安置しているようで、本堂前に
はボースの胸像があり、プラサット元大統領、インディラ・ガンジー元首相などの追悼文
も刻まれていた。
    

 南側の大学生協会館の建物前には、広島で原爆に被爆したアオギリの種から育ったとい
う、被爆アオギリ二世が葉を広げていた
     


 環状7号線に合して、南側の信号を渡った西側は、日蓮宗の宗延寺(そうえんじ)であ
る。

 大正8年(1919)に区画整理に伴い台東区東上野から移転してきたとか。本尊の祖
師像は通称「読経の祖師」と呼ばれ、江戸十祖師のひとつに数えられて江戸市民に親しま
れたとのこと。


 本堂前のさい銭箱は、移転以前からのもののようで、年代の古さが感じられる。
    

 北側の道路を挟み、北西側一帯には緑豊富な真盛寺(しんせいじ)の広い境内が目に付
く。天台真盛宗の東京別院で、大正11年(1922)に墨田区横川から移転したとのこ
と。寺は、日本橋に越後屋を創業した三井家の菩提寺で、俗に三井寺とも称されるという。

 本堂は安永5年(1776)、元三大師堂は文政3年(1820)など区内で少ない江
戸時代の建物があるようだが、参詣者以外入場禁止の表示があり、山門で引き返すしかな
く残念だった。(山門からは木々だけで本堂などは見えない)


 環状7号線の西に平行する路地を南下すると、福相寺(ふくそうじ)の門前に出た。

 昭和12年(1937)に文京区白山から移転してきた寺で、「願満大黑天」と呼ばれ
る木造大黑天像は病気平癒や福を授けてくれるとして、江戸後期には由来記を配るほどの
信仰を集めたという



 墓地には、俳人長谷川零余子(れいよし)・かな女夫妻の墓があるとのこと。墓は見つ
からなかったが、本堂前に零余子の句碑が立っていた。
       

 さらに南進し、掘ノ内東公園の先で右折して西に回ると、広大な境内を持つ妙法寺(み
ょうほうじ)の山門前に出る


 妙法寺は日蓮宗の本山で、江戸時代から「厄除(やくよけ)大師」として庶民に親しま
れ、浮世絵や黄表紙、川柳などの題材や画材として多く描かれとのこと。近辺の村々は将
軍家の鷹場になっていたため、将軍家もたびたび訪れたという。


 境内には、天明7年(1787)建立で都重要文化財の山門、文化8年(1811)建
立で都重要文化財の祖師堂↑、文政2年(1819)建立の本堂↓、文政11年(1828)
建立の日朝堂、明治11年(1878)建立で国重要文化財の鉄門などが並び、それらの
周辺は豊富な緑に覆われている。



 豪壮な山門を入り、一番大きな祖師堂に参拝し、左手から背後に回る。読経の聞こえる
本堂横から日朝堂↑へ、さらに広葉樹に囲まれた五重塔や、作家・有吉佐和子の碑、三十
三夜堂、病気平癒や家内繁栄を呼ぶとされる清水の浄行さま、鉄門などの周囲を一巡した。
     

        

            浄行さま
            

 国重要文化財の鉄門は、わが国近代建築家養成の恩師といわれている英国人コンドルの
設計で明治11年(1878)に完成したもの。


 日朝堂の背後は広大な墓地で、北側の道路に抜けられるかと一巡したが、塀に囲まれて
いて出られず、鉄門横に戻る。境内と墓地とで30分余りを経過して山門を出て、南西側
から塀沿いに北に向かう。

 妙法寺墓地の道路北側中心部は近代建築の本佛寺だが、ほかの寺のような説明板は無い。


 西側の妙祝寺(みようしゆうじ)は民家風の建物で、大正3年(1914)に港区元麻
布から移転してきたとのこと。

 墓地には伊予(愛媛県)西条藩主一柳家の累代の墓があるという。


 T字路を隔てた南西は修行寺(しゅぎょうじ)。大正元年(1912)に新宿区富久町
から移転してきた寺で、庫裡(くり)の前の植え込みに、きれいな花が何種か咲き競って
いた。




 寺の南から、新しい住宅街の間を西に抜けて北西に回り、西方寺(さいほうじ)に北東
側の新しい山門から入る。


 寺の開基は徳川三代将軍の弟、駿河大納言忠長といわれ、大正9年(1920)に国鉄
中央線と道路拡張のため新宿駅北側付近から移転してきたという。

 山門を入って右手にある鳥塚は、明治38年(1905)の造立で、食鳥を供養するた
めに建てたものらしい。
       

 墓地の入口には、墓地所有者全部の名前を記した墓地地図があり、ほかでは見たことの
ない詳細なものだった。


 本堂はコンクリート造り、最近改築したのか色鮮やかだ。


 西方寺を含む西北側一帯は「梅里の寺町」と呼ばれ、大正期に都心部の区画整理などを
きっかけに移転してきた寺院により形成されているという。

 南西に進んでV字状に折り返すと、民家の庭先にたわわに実る柿の実が色づいていた。
     

 北側の清徳寺(せいとくじ)は、大正2年(1913)に港区六本木から移転したとの
こと。本堂は平屋根のコンクリと造りで、境内は狭い。寺には当初、朱塗りの山門があっ
たことから「赤門寺」とも呼ばれていたらしい。


 道路の西は智光院(ちこういん)で、区画整理のため台東区西浅草から、大正元年
(1912)に移転してきたという。

 本堂は中野区の福蔵院の本堂を移築したものという。境内に樹木は少なく、閑静なたた
ずまい。本堂前に木の根のオブジェが飾られていた。
       

 道路を挟んで東側、聖徳寺の北側は慶安寺(けいあんじ)である。台東区池之端に開山
し、江戸初期の老中、阿部豊後守忠秋以降、阿部家の信仰が明治維新まで続いたと伝わり、
大正2年(1913)に当地に移転したという。


 裏手の墓地には、杉田玄白らとともに「解体新書」の翻訳にあたった江戸中期の蘭学者、
前野良澤(まえのりようたく)の墓があるという。ご住職の了解を得て墓地に入り、墓前
で手を合わせた。
       


 境内は狭いが木々が多く、小さな池や瀟洒(しょうしや)な東屋(あずまや)も設けら
れていて、東屋の近くには古い地蔵などの石像が並んでいた。
       

 北に接する心月院(しんげついん)は、区画整理に伴い台東区元浅草から大正2年
(1913)に移転したとのこと。

 白亜の本堂は独特の造り。本堂前のウメモドキの実が色づき、道路際には新しい動物供
養塔があった。
    

         

 青梅街道から分岐してきたばかりの五日市街道との三差路際には大法寺(だいほうじ)
がある。
     
 新宿区牛込榎町から明治42年(1909)に移転してきた寺で、近代的なコンクリー
ト造りの本堂は道路際に立ち、全体を撮ることはできない。

 五日市街道を南西に少しで、南側の華徳院(けとくいん)に入る。台東区浅草橋にあっ
た頃には運慶作といわれた閻魔(えんま)像が祭られ「蔵前の焔魔堂」と呼ばれ、「江戸
三閻魔」のひとつにも数えられたという。


 大正2年(1913)に区画整理のためにこの地に移転したが、大正12年の関東大震
災で閻魔像などは焼失し、現在は別の閻魔王像が安置されているようだ。道路側の墓地に
は、豊富な木々が植え込まれていた。


 梅里の寺町を巡り終え、次の信号を渡って北側の青梅街道に出て、西に少しで清見寺
(せいけんじ)へ。
     
 この寺は移転してきたのではなく、寛永前期(1624~35)に当地で開創したとの
こと。青梅街道沿いには地蔵堂がある。
         

 新しい塗色のコンクリート造り本堂は近年の改築らしい。


 明治8年(1875)から17年まで、現在の区立一小の前身、桃園小の第一番分校が
置かれ、杉並区近代教育発祥地のひとつという。墓地際には、近年造立と思われる3体の
立像が並んでいた。
     

 清見寺で今日の予定の寺巡りを終え、青梅街道を東に少し戻り、16時31分に東京メ
トロ丸ノ内線の新高円寺駅に着いた。
          

 今日巡ったほとんどの寺の門前には、杉並区教育委員会の説明板があり、移転前の詳細
な寺の歴史が記されていて、江戸時代の幕府や諸大名などとの関わりが分かり、墓地にも
ゆかりの人の墓が多いようだったが、長くなるのでそれらの説明は省いた。

(天気 快晴、距離 7㎞、地図 「杉並区史跡散歩地図」(1/2.5万地形図は東京
 西部)、歩行地 杉並区、歩数 16,700)




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杉並・高円寺と梅里の寺町を巡る(東京)〈前半〉

2016-10-18 15:55:51 | 江戸・東京を歩く
 2016年10月15日(土)

 この秋初めての快晴となったので、JR中央線高円寺(こうえんじ)駅の南側、高円寺
と梅里(うめざと)の寺町巡りに出かけた。中央線下り電車で高円寺駅に着き、11時
05分に南口をスタートする。


 南東にすぐ、商店街の近くに高円寺氷川神社があった。

 駅に近いが境内はケヤキなど高木が多く、境内西側には全国で唯一という気象神社が祭
られている。

         
 気象神社は、昭和19年(1944)高円寺北四丁目の陸軍気象部構内に造営のものを
昭和23年に遷座し、平成15年(2003)に社殿を再建したもの。
    
 気象予報士受験者の合格祈願や快晴祈願などの参拝者が多いようで、下駄形の絵馬にも
それら祈願の言葉が記されていた。

 さらに緩やかに下ったT字路の東側にあるのが、この辺りの地名のもととなる高円寺。

 高円寺は、弘治元年(1555)の開山、かつて周辺に桃の木が多かったので桃園と称
され、寺は桃堂と呼ばれ、三代将軍徳川家光の知遇を得て、家光遊猟の折にはこの寺で休
息したという。

     
 本堂前にはよく茂ったイチョウの古木が立ち、境内は豊富な緑に包まれている。木々に
覆われた参道を抜けて南側の山門から出た。


     
 南進して、桃園川の流れを暗渠化した桃園川緑道を横断、緑道にはカッパの彫刻がある。
        

 その先、高円寺南二丁目には、明治末期から大正期にかけて移転してきた寺院が並び、
「高円寺の寺町」と呼ばれ、曹洞宗の寺院が多いのが特長とか。


 最初の鳳林寺(ほうりんじ)は、大正3年(1914)に新宿区弁天町から移転した寺。
 

 境内の地蔵堂には、厄よけ子育ての延命地蔵尊が祭られている。
    


 次は門前に2本の松の立つ長禅寺(ちょうぜんじ)で、国鉄線路の拡張で荒川区東日暮
里から大正15年(1926)に移転を余儀なくされたとか。


 ここは日蓮宗の寺で、本堂屋根上の龍などの飾り瓦が目に付く。


 境内にある三十番神堂は、「新編武藏風土記稿」に「谷中本村の鎮守」と記され、天保
4年(1833)の建物で、堂内には法華経を守護する三十体の番神が祭られた珍しいも
のという。
     

 本堂前には、七福神やお地蔵さん、お釈迦様のシンボルというライオン像などの石像が
並んでいた。


 西側の福寿院(ふくじゅいん)は、明治40年(1907)に区画整理で新宿区四谷二
丁目から移転したとのこと。


 本堂の裏手には、都指定史跡で美人画や木曽街道六十九次などの風景画を描いた江戸後
期の浮世絵師、池田英泉(いけだえいせん)の墓(左側)がある。
    


 南側のT字路を西にすぐ先には西照寺(さいしょうじ)がある。寺の再興に力を尽くし
たのが旗本の岡田豊前守善政で、以後代々の岡田家の菩提所になっているとか。


 明治中期に再建された堂舎には、明治女学校の講師だった島崎藤村が寄宿していたとい
われ、明治44年(1911)に当地に移転したという。


 境内はよく手入れされた樹木が多く、マツ、サクラなどは杉並区保護樹林に選定され、
モミジもきれいな彩り。
    

 江戸期建築の格式を持つという道了堂も、それら緑に包まれていた。
   

 東に接した松応寺(しようおうじ)は、大正7年(1918)、狭小となった北区西ヶ
丘から移転してきたとのこと。


 山門に掲げられた「萬壽山」の山号は、江戸時代の高名な書家、高玄融の筆になるもの
という。
    


 本堂背後の墓地には、幕末の農政学者で「農政本論」「開国要論」などの著者、佐藤信
淵(さとうのぶひろ)(1850没)の墓がある。
       

 境内はそう広くはないが、ここも豊富な緑にあふれていた。



 東に並ぶのは宗泰院(そうたいいん)。江戸時代、新宿区市谷左内町にあった頃には16
棟の伽藍(がらん)を有する旗本寺として隆盛を誇ったようだが、明治42年(1909)
に陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、移転してきたという。

 本堂は宝暦7年(1757)、開山堂↓は寛延3年(1750)建立のものを移築して
おり、ともに区内有数の古い建造物らしい。
     

 さらに東に並ぶ長龍寺(ちょうりゅうじ)は、やはり明治42年(1909)に陸軍士
官学校の拡張に伴い、新宿区市谷左内町から移転してきたとのこと。

 元文2年(1737)建立の山門、宝暦6年(1756)建造の本堂は、その時移築し
たものとか。



 よく手入れされた植栽の並ぶ境内には地蔵堂もあり、地蔵が小僧に化けて豆腐を購入し
ようとしたという伝説の「豆腐地蔵尊」が安置されていた。




        

 「高円寺の寺町」を巡り終え、東進して環状7号線の高円寺陸橋下を走る青梅街道を東
に渡る。陸橋の東側を折り返してすぐのT字路際に、古い石塔を集めた一角があり、「民
間信仰石塔」の説明板があった。
     

 それによれば、ここには正徳3年(1713)と元禄7年(1694)銘の庚申塔、寛
文10年(1670)、享保6年(1721)銘の阿弥陀塔、享保13年(1728)銘
の供養塔の計5基があるという。

 これら石塔は、この辺りが武州多摩郡高円寺村といわれた頃、地域の人々が悪病退散や
村民安全などを祈願して建立したようで、毎年11月23日の例祭日には、お札やお供え
物を配るという。


 13時近いので、そばの青梅街道に面したそば店「松月庵」に入り、とろろそば(ご飯
サービス付)で昼食にした。(続く)

    



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谷中まつりで賑わう谷中から上野公園へ(東京)

2016-10-10 09:08:21 | 江戸・東京を歩く
 2016年10月8日(土)

 前月の例会と同様に雨の予報だが、カントリーウオークグループの第237回例会に参
加した。集合はJR山手線の西日暮里(にしにっぽり)駅。

 今回はタウンウオークなのでグループ分けはせず、全員一緒に10時14分に出発した。

 == 谷中祭りの会場を縫って ==

 線路の西側を南に少し上がって西日暮里公園に入る。公園はもとは花見寺のひとつ青雲
寺や旧加賀藩前田家墓地だったとか。


 小雨模様なので雨具を用意し、細道の諏訪台通りを南進して諏方(すわ)神社へ。信州
上諏訪社の分社で建久2年(1205)の創建、日暮里・谷中(やなか)の総鎮守とか。


 この辺りは道灌山(どうかんやま)と呼ばれ、豊富な木々の境内で、ひときわ大きなイ
チョウの古木が目に付いた。
   

 すぐ近く、西に下る急坂は富士見坂で「関東の富士見100景」のひとつ。現在も富士山
を望むことが出来るようだが、今日は雨で望むべくもない。
       

 その先東側の養福寺は、江戸時代の多くの文人の碑が残るというが、寄らずに過ぎる。


 JR日暮里駅から延びる通りに出て、そばの経王寺(きょうおうじ)に入る。

 明暦元年(1655)の建立で、大黒堂↓には日蓮上人作と伝わる大黑天が祭られてい
るという。


 慶応4年(1868)の上野戦争の時に敗走した彰義隊戦士をかくまったため、新政府
軍の砲撃を受けた銃弾の跡が山門に残っていた。

    
 西に下る七面坂の通りには、暮らしの道具を販売する店などがあり、すぐ近くで階段を
下って谷中銀座の商店街に入る。
      

     
 狭い通りには観光客が多く、両側には飴(あめ)の店、竹工芸店、きれいなランプを吊
す店、下駄や草履の店、手づくりのおかずや弁当の店など、小さいがレトロな雰囲気の店
が約70店ほど並んでいる。


    


 西端に抜けて「よみせ通り」を南に向かうと、市内局番が3桁や2桁のままの古い電話
番号を掲示した店が幾つか目に付き、ここも昭和のたたずまいが感じられる。


 折り返すように細い路地を左折し、突き当たりの岡倉天心記念公園に入る。岡倉天心は
東京美術学校(東京藝術大学の前身)の設立に関わり、のち日本美術院を創設した。この
公園は岡倉天心旧宅跡で、日本美術院発祥の地である。
      
 今日明日は「谷中まつり」の一環で六角堂が開扉され、平櫛田中(ひらぐしでんちゆう)
作の天心座像が公開されていた。
        
 ちなみに岡倉天心は、2日前の夜のNHKBS3「英雄たちの選択」に取り上げられ、
明治期における廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の防止に腐心したことや、日本美術に対す
る業績を認識したばかりだった。

 さらに東進して谷中防災コミュニティセンターへ。谷中まつりのメインイベント会場で、
南側の「初音(はつね)の森」と呼ぶ防災広場にはステージが設けられ、休憩用テントや
露店が並び、たくさんの地元区民などで賑わう。


 さらに石段を上がり谷中五丁目の台地に出た。左側に観音寺の長い築地塀(ついじべい)
が続く。江戸時代の築造のようで、当時にタイムスリップしたような一角だ。塀は国の登
録有形文化財である。


 すぐ先十字路際の「香隣舎」と呼ぶ古民家には花飾りが並び、近隣の小美術館やカフェ
などでの催し案内のはがきが用意されていた。
     

 東に進んで谷中霊園の交差点際へ。交番の北側、「子供の広場」でも谷中まつりのステ
ージが設けられ、演奏やダンスなどが進行中で、天王寺町会のテントでは、名物やきそば
の販売をしていた。


     
 霊園内の大イチョウなどを見ながらさくら通りを北進、突き当たりは谷中七福神の毘沙
門天を祭る天王寺である。

 室町期の応永年代(1394~1427)の創建といわれ、江戸時代には富くじの興業
が開催され、目黒不動、湯島天神とともに江戸の三富として賑わったとか。境内にあった
五重塔は古田露伴の小説「五重塔」で知られたが、昭和32年(1957)に焼失してい
て現在は見られない。境内はいまも緑豊富で、落ち着いたたたずまい。

       
 東側の新しい建物では、「古代文字アーティスト集団 天遊組(てんゆうぐみ)」と呼ぶ
グループが、ユニークな書アートの発表会を開催していた。


 山門近くには、若柳観音菩薩と呼ぶ穏やかな姿の観音立像が目に入る。
     

          
 昼食のため、防災コミュニケーションセンターに戻ることに。子供の広場のステージで
は腹話術の実演中。そばの十字路の北西側に長谷川一夫夫妻の墓地があり、墓石は予想外
に小さなものだった。           (後ろ側中央↓の墓が長谷川一夫夫妻)


 雨がひときわ強まり、急ぎコミュニケーションセンターに戻るが、建物内は食事禁止。
防災広場のテントに空きスペースを探して座り、雨漏りを避けながら昼食に。


 食事を終える頃には空が明るくなり、やがて雨も上がった。ステージではフラダンスの
グループが、何組か踊りを披露していた。

 建物前でミーティングをして、13時15分に午後のコースに向かう。
 
 == へび道や寛永寺を経て上野公園へ ==

 
 南側の三崎(さんさき)坂に出て、右折してすぐの大圓寺(だいえんじ)境内に入る。
ここも谷中まつり会場のひとつ、狭い境内では「谷中菊まつり」を開催中で、露店も並ん
でいる。


 横長の建物には二つの拝殿があり、右手の瘡守(かさもり)稲荷神社は江戸中期から祭
られ、疱瘡(ほうそう)や皮膚病を治すといわれて信仰が篤かったとか。


 左側の大圓寺本堂前はブルーテントで覆われ、催しに使われたらしい椅子が並んでいた。


 境内には、江戸三美人の一人という笠森お仙と、お仙を描いた錦絵開祖の鈴木春信の碑
がある。

 三崎坂を西へ、次の信号まで進んで南に延びる「へび道」へ。旧藍染(あいぞめ)川の
河道跡で、その名の通り右に左に小カーブが続く。
     
 左手が谷中二丁目、右は千駄木二丁目で、台東区と文京区との区境である。

     
 谷中二丁目の終わりに近い三差路近くに、開店祝のコチョウランが並ぶ小さい店があっ
た。女優川上麻衣子さんの「SWEDEN GRACE」と呼ぶ店で、明日が開店のよう。
川上さんご本人もチラと姿を見せた。
         

             

 へび道が終わり、少し左カーブしてその先に延びる通りに入り、次の十字路を左折して
三浦坂を上る。坂の名は、美作(みまさか)(岡山県北部)勝山藩主三浦氏の下屋敷前の
坂道だったの付けられとか。南側一帯は臨江寺の長い塀が続く。


 坂の中腹辺りに、「ねんねこ家」と呼ぶネコの飾り物の並ぶ店があった。その先の民家
には、見たことの無いピンクの花が咲く。
     

 上がりきったY字路の北西側、緑豊富な敷地には大名時計博物館があるが、入館は略す。
Y字路の突端部に大きなヒマラヤスギが立ち、木の下に「みかどパン店」と記された小さ
なパン屋があった。
    

          
 この辺りは江戸時代には「三方地店(さんぼうちだな)」と呼ばれた地区で、ヒマラヤ
スギを目印に古くからの店や工房、アトリエなどが並び、明治の頃から画家や彫刻家、作
家の川端康成などが近隣に住み、芸術文化を育む場所でもあったとか。

 「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定された谷中のシンボルであるヒマラヤスギ
は、切り取られて一帯が更地になる可能性があるようで、守ろうという活動が進められて
いる。


 谷中六丁目まで進んで言問通りに回り、三崎坂からの交差点際にある下町風俗資料館付
設展示場に行く。江戸商家の建築様式を残す旧吉田屋酒店の建物を移築したもの。ここも
谷中まつりの会場の一つとして、建物前でステージプログラムが続き、ギターの演奏中。


 甘酒のサービスもしていたので頂きながら演奏を少し聴き、開放された建物に入って酒
樽や徳利、ポスターなどの展示を見た。


 交差点の西側、古民家を活用したカヤバ珈琲店のネムノキに、色鮮やかな花が咲く。
       

 ひとつ南の通りを東へ、東京藝術大音楽楽部の北側を進む。北側の円珠院境内はよく手
入れされた植栽が、気持ちよい緑を見せる。



 次の交差点を渡って寛永寺に入り、旧本堂(根本中堂)の前で小休止後に記念撮影をし
た。建物は、明治9年(1876)から12年にかけて川越市の喜多院の本地堂を移築し
たもので、寛永15年(1638)の建造らしい。


       
 境内には、琳派の創始者として知られる画家・尾形光琳の弟、尾形乾山(けnざん)の
顕彰碑である乾山深省蹟(しんせいせき)や、江戸時代前期の黄檗(おうばく)宗の僧で、
難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)を設置した了翁禅師塔碑などがあった。
              

 根本中堂の北東側には、徳川綱吉霊廟勅額門(れいびょうちょくがくもん)がある。5
代将軍綱吉は「生類憐み(しようるいあわれみ)の令」などを施行した将軍として知られ、
勅額門は国の重要文化財。

 その綱吉公霊廟内には、13代将軍家定(いえさだ)の正室、天璋院篤姫の墓所がある
ようだが、非公開で拝観は出来ない。


 上野中学校前の通りを南東に進み、国際子ども図書館↑の前を通過する。京成電鉄の博
物館動物園駅跡の建物横を左折して、国重要文化財の「黒門」と呼ぶ旧因州池田屋敷表門
前を過ぎる。


 東京国立博物館正門前↑から上野公園に入り、噴水池や開催中の大陶器市のテントが並
ぶ横を通過して、交番近くの広場付近でゴールとし、15時24分に散会した。


 多くのメンバーはさらに西郷隆盛像やアメヤ横町を経て二次会に向かい、私など3人が
JR上野駅の公園口から帰途についた。


(参加 15人、天気 雨後曇、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地 
 荒川区、台東区、文京区、歩数 13,200)




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新井薬師から哲学堂公園へ 旧野方村の史跡めぐり(東京・中野)(後半)

2016-07-31 16:18:05 | 江戸・東京を歩く
 2016年7月27日(水)(続き)

 歴史民俗資料館の西側の通りを北へ、突き当たりを右折してすぐ先、変則交差点際の小
さい空き地に「お経塚(おきょうづか)」の説明板があり、そばに2体の石仏が並んでいた。

 ここには大正時代まで人の背丈ほどの塚があり、塚の盛土を整理したところ人骨と経筒
(きょうづつ)らしいものが出土したとか。言い伝えでは(この後訪ねる)東福寺が火災
で焼失したときの経文や過去帳などの灰を埋めて塚を造ったといわれているという。
     
 左の馬頭観音は安永5年(1778)、右の地蔵菩薩には元文3年(1733)と刻ま
れていた。

 その通りを北進すると、うっそうとした樹木に覆われた江古田氷川神社境内に入る。

 旧江古田村の鎮守で創建は寛正元年(1460)といわれ、10月の例大祭には、中野
区無形文化財の獅子舞が奉納されるという。


 右手にある寄棟(よせむね)造りの神楽殿は、弘化4年(1847)の建立で昭和7年
(1932)まで本殿だったとか。区内では数少ない江戸時代の建造物で、天井には花鳥
画が描かれているという。



 手水舎も豪華な造り。境内にはご神木のスダジイ↓やケヤキなど豊富な木々が伸び伸び
と茂り、ミンミンゼミの競演が賑やか。
     

 西側の鳥居を出て、大規模な再開発工事中のエリアを抜けと、区立江古田(えごた)の
森公園である。

 旧国立療養所中野病院跡の植林を生かした広い公園で、江戸時代には将軍の鷹狩り場で、
明治には茶や桑の生産地だったが大正時代に結核療養所に選ばれたという。

 よく茂った広葉樹の間に幾つかの遊歩道を巡らしている。その中心部の遊歩道をU字状
に回って東側に抜けた。

     
 途中にはたくさんヤブミョウガの咲く一角や、ガマの茂る小さな池もある。
       

 公園の外周を囲むように流れる、江古田川の江古田憩い橋から流れを見下ろしたが、水
は中心部の細い溝にしか見えなかった。
     

 川沿いを南下し、江古田三丁目の東福寺に東側から入る。

 弘安3年(1280)に江古田村の旧家深野氏が堂舎を建てたのが最初とか。本尊は弘
法大師作と伝えられる不動明王という。
     

 享保13年(1728)春に徳川8代将軍吉宗が鷹狩りの際、御膳所(休憩所)となり、
境内には「徳川将軍御膳所跡」碑がある。
     

 本堂や鐘楼はコンクリート造り。山門横には大イチョウが目をひく。
     

 南側の通りを東進して江古田川の橋まで行く。この辺りは氷河期末期の江古田植物化石
層発見の場所らしいが、それらしい標識や説明板は見つからなかった。


 流れの西側の通りを南下して新青梅街道↑まで進み、左折して東に少しで江古田大橋の
たもとへ。橋の南側で江古田川が妙正寺川に流入している。

        江古田川

 橋の手前、木々に囲まれて分かりにくい一角に「整地碑」が立っていた。
     
 関東大震災後の膨張する大東京市への対策として、区画整理組合が河川改修、道路整備、
土地、耕地の交換による区画整理の事業を行った記念に建てたものらしいが、いつ建てた
のかは分からなかった。
     

 橋を渡った右手は江古田公園で、整地碑と江古田川を隔てて相対するところには「史跡
江古田原 沼袋 古戦場碑」が立っている。
     
 この辺り、新青梅街道沿いの一帯は文明9年(1477)に太田道灌と豊島泰経らが激
戦をしたところとか。ここでの合戦は、武蔵野の開発を行ってきた豊島氏に代わり、太田
氏が武蔵野支配を確立するうえで大きな意味をもっていたという。

 新青梅街道を東へ300mほどで、北側の台地の蓮華寺に上がる。寺は天正年間(1573
~92)に徳川の重臣榊原家の奥方を火葬した跡で、名主の深野孫左衛門が土地を寄進し
て元文4年(1739)に創建し、幕末まで深野家と榊原家は親交があったとか。




 ソメイヨシノや松など豊富な樹木に囲まれていて、ここでもミンミンゼミが賑やか。境
内には、この後訪ねる哲学堂を創設し、東洋大学の創設者でもある井上円了の墓がある。
       

 本堂前を東に抜けて、北に少しで「みずのとう公園」に入ると、野方配水塔と呼ぶ大き
な塔が立っていた。高さ33m、内径約18mのコンクリート塔で、約2,000トンの
貯水が出来たとのこと。
     
 昭和4年(1929)に竣工し、中野、野方、板橋、杉並、滝野川など近隣13か町村
に給水していたが、昭和41年(1966)に使用を停止し、現在は中野区の災害用給水
槽になっていて、国の登録有形文化財でもあるという。

 東側に回り、みずのとう幼稚園を挟んでもう一度眺める。
     

 南下して新青梅街道を越えると、南側一帯は哲学堂公園である。
   
 東洋大学の創立者であり哲学博士でもあった井上円了が、国民道徳の普及を目的として
明治39年(1906)から私財を投じて設けた精神修養的公園である。

 園地は、井上が唱えた実践哲学の理想を現す多くの施設と特異な造園手法を加えており、
都下の名所として人々に親しまれたとのこと。昭和19年(1944)に東京都に寄付さ
れ、昭和50年(1975)からは中野区に移管され、文化財公園、区民のみどりのオア
シスとして公開されているという。

 哲学堂は、現代にも通じる円了の思想を物語る歴史的文化遺産として、都の指定名勝に
なっている。

 北側にある野球場の横から哲学門を入り、緑豊富な園内に散在する七十七場と呼ばれる
建物や門、石碑や石造物など、ほかでは見られない独特の名称の施設などを見ながら南東
に下り、哲学堂通りの四村橋際で公園を出た。

 哲理門、本堂(四聖堂)の正門にあたる。

 
 六賢台(ろっけんだい)、哲学堂のランドマークともいえる建物で、聖徳太子、菅原道
真、壮士、朱子、龍樹、釈毘羅の東洋の6賢人を祭る。
     

 四聖堂(しせいどう)、本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカント
の世界的四哲人を祭っている。


 宇宙館、哲学上の講話や講話会を開催するための講義室。




 園内を南西に下った菖蒲池近くから、横を流れる妙正寺川が見下ろせる。
 

 菖蒲池


 池のそばに咲く花



 妙正寺川の左岸に続く豊島区側の西落合公園↑沿いに次の無名橋まで進み、橋を渡って
上高田五丁目の住宅地へ。


 急坂を上がって下り、光徳院の横に出た。閉じたままの山門の横から境内に入ると、た
くさんのお地蔵さんが集められている。



 本堂は堂々たる造り。左手には、そう高くはないが精巧に組まれた五重塔がある。
     

 広い墓地に隣接して東光寺が並ぶが、本堂前もすぐに墓地が接し境内はほとんど無い。


 西進して台地に上がり、上高田小と東亜学園高の北側を抜けて、新井薬師前駅に16時
47分に戻った。

 上高田小際にあった都知事選の候補者の掲示板。21人立候補しているのに、ここにポ
スターを貼った候補者は半数以下の9人だけ。23区内でもこんなものなのかもしれない。


 新井薬師前駅のホームは大きくカーブしている。

                   下り線路とホーム

 今日巡ったのは、新井薬師前駅と沼袋駅周辺の東西1.5㎞、南北2㎞ほどの地域だが、
どの寺社にも豊富な木々が残り、平和の森公園と江古田の森公園という広い公園もあり、
中野区内でもJR中野駅周辺の繁華街のイメージとは違う、歴史と緑にあふれるエリアだ
った。

(天気 曇、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地 中野区、豊島区
 (少し)、歩数 22,500)
 



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新井薬師から哲学堂公園へ 旧野方村の史跡めぐり(東京・中野)(前半)

2016-07-30 18:54:11 | 江戸・東京を歩く
 2016年7月27日(水)

 梅雨明け前にと、中野区東北部の旧野方村に残る史跡めぐりに行く。西武新宿線の新井
薬師前駅で下り、10時14分に南口をスタートする。


 南東に400mほどの上高田三丁目に、昭和初期の面影を残す一角がある。『童謡「た
きび」のうた発祥之地』で、作詞者 巽聖歌(たつみせいか)が昭和5~6年(1930
~1)頃近くに住み、この辺りを散歩しながら「たきび」のうたの詩情をわかせたところ
だとか。

 今でも、「垣根の垣根の曲がり角♪」という歌が聞こえてきそう…。

 西進して新井五丁目に入り新井薬師で知られる梅照院境内へ。天正14年(1586)
に僧行春が開基し、徳川2代将軍秀忠の子・和子の方が眼病を患い、ここの薬師如来に祈
願して治癒したことから「治願薬師」とも呼ばれているとか。「子育て薬師」とも呼ばれ、
多くの人から篤く信仰されているという。

 山門を入った右手のお堂前に「お願い地蔵尊」が立ち、願いごとをする人が水をかけて
祈願していた。



本堂前の大きなハスが数輪、花を見せている。
  

 寺の背後の新井薬師公園は、寺の境内だった土地を大正3年(1914)に新井薬師庭
園として開放し、後に東京市に寄進、戦後中野区に移管したという。


 都道420号・中野通を跨道橋で越えた西側も新井薬師公園で、公園内の池では何人か
の釣り人が糸を垂れていた。


 東側に隣接して新井天神とも呼ぶ北野神社がある。旧新井村の鎮守で、創建は天正年間
(1573~92)といわれているとか。中野区で唯一「酉の市」が行われる神社らしい。


    
 手水舎のそばに「撫で牛(なでうし)」があり、撫でるとその部位の病や怪我が治ると
か。近くに、若者たちが力比べに使った力石が幾つも集められていた。


 境内には区の保護樹木のケヤキやスダジイ、イチョウなどがあり、ミンミンゼミが賑や
か。

 新井四丁目を西北に抜けて、区立平和の森公園に入る。昭和58年(1983)に廃止
された、中野刑務所の跡地を活用したみどりの防災公園。

 野球場であるスポーツ広場や、周囲をジョギングコースで囲む芝生広場↑、幾つかの池
を巡らす水の広場↓などがある。



 東北側入口近くには弥生時代の復元住居があるが、よく見たらコンクリート製。芝生広
場を一見し、水の広場から北に抜けて公園を出た。

 深い流れの妙正寺川を越えて、沼袋駅の西側踏切を渡る。北側の線路沿いを東進して、
沼袋氷川神社に行く。

 旧沼袋村の鎮守で、創建は正平年間(1346~70)とも寛正年間(1460~6)
ともいわれているとか。



 拝殿左手に雅(みやび)な神楽殿↑があり、境内にはご神木の松が何本か高く伸びてい
る。太田道灌が豊島氏と戦った時に戦勝祈願に植えたといわれるスギの木片が、わずかに
残る。少し下がった西側には、新しい中野七福神が並んでいた。


 西側に出て北西に少しで禅定院がある。貞治元年(1362)の開基、下沼袋村の旧家
伊藤氏の菩提寺なので「伊藤寺」とも呼ばれているという。

 山門を入った右手に、樹齢600年というイチョウの大木が立つ。
     

 コンクリート造りの本堂は近年の改築のようで明るい彩り。


 左手の庭園にはボタンが多く、ハス園には何輪かの花が開花していた。本堂前のモミジ
は秋のような彩りを見せる。
    

 西進して沼袋駅北口から延びる通りを横断し、すぐ先の実相院へ。新田氏一族の矢島内
匠(たくみ)らが、足利氏との戦いに敗れてこの地に定住して開基したとのことで、「矢
島寺」とも呼ばれるよう。

 境内はソメイヨシノの古木に覆われ、本堂はコンクリート造り。墓地入口には六地蔵と
五つの庚申塔が並び、左手の庚申塔には、天和元年(1681)、元禄14年(1701)、
正徳5年(1715)と刻まれていた。


    
 白い花の咲く通りを禅定院の近くまで戻り、北側の台地に上がって百観音 明治寺に北
西隅から入る。明治45年(1912)に明治天皇の病気平癒を祈願して創建した寺とか。

 

 その後、創建した草野栄照尼がここを一大観音霊場にしようと呼びかけたところ、政財
界から庶民まで多くの寄進がよせられ、現在は境内に180体近い観音石像が祭られてい
るという。


 境内の南東側は小さい公園になっていた。



 北側の道路を東にすぐ、北側には樹木に囲まれた静かなたたずまいの密蔵院があり、境
内のカノコユリがきれいな花を見せる。
       

 明治寺の東側には、地図にはないが豊富な樹木に覆われた日蓮宗の久成寺もあった。


 すぐ先の交差点を左折して北北西へ。沼袋二丁目で都道440号・新青梅街道に出る。
すぐ近くのわら屋根風の建物は、山崎記念 中野区立歴史民俗資料館である。


 館の前に、円形の大きな二つの石が並んでいる。製粉用の石臼(いしうす)で、江戸末
期から平成2年(1990)まで本町の石森製粉所で蕎麦粉(そばこ)製造に使われたも
の。

 青梅街道中野宿は、江戸時代から江戸への物資の集荷地で、集められた大豆、蕎麦、麦
などを素材にした味噌、醤油、小麦粉、蕎麦粉など醸造や製粉業が地場産業として成長し
てきたという。

 資料館の場所は、江古田村の名主(なぬし)で醤油製造や質屋などを営んでいた山崎家
があり、明治になっては村役場の前身の戸長(こちょう)役場が建てられ、村政の中心だ
ったところとか。

 名誉都民だった山崎氏から昭和59年(1984)に土地を寄付され、5年後に歴史民
俗資料館が開設されたという。

 12時45分に入館し(無料)、「武蔵野における中野の風土と人々の暮らし」をテー
マにした旧石器時代から現代に至る歴史について、写真やイメージ画、ジオラマ、資料な
どの展示を見る。


 企画展「記念展」も開催中で、東京オリンピックゆかりの品や、絵はがき、記念コイン、
ポスター、風景入り日付印など、興味深いコレクションが展示されていた。



 ほかに、この後訪ねる哲学堂公園や、公園ゆかりの井上円了コーナー↑、中野区と関わ
りの深い写真産業にちなむ、レトロカメラのコーナーもあった。


 東側の庭園は閉鎖されていたが、緑豊富な植栽の中に樹齢500年というシイノキの大
木が目に付く。40分近く観覧して民俗資料館を出た。
    

 新青梅街道沿いの、近くのファミレス・ガストで遅めの昼食をして、歴史民俗資料館前
まで戻る。 ガストで食べたチキントマト煮ランチ(648円)       (続く)
    





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サクラが見頃な石神井川沿いをお花見ウオーク(東京)

2016-04-03 22:43:17 | 江戸・東京を歩く
 2016年4月2日(土)

 カントリーウォークグループの第232回例会は、石神井川(しゃくじいがわ)沿いの
花見をしようとJR京浜東北線の王子駅に集まり、10時3分に王子駅親水公園口をスタ
ートした。

 
 == 石神井川右岸を板橋まで ==

 
 駅の西側は親水公園で、ソメイヨシノがちょうど見ごろ。がけ下には、今は水が無いが
せせらぎが造られ、水車もある。





 音無橋(おとなしばし)の下を抜けると、「王子神社のイチョウ」と呼ぶ大イチョウが
立っていた。幹囲5.24m、高さ24.2mある。
       
 王子神社は元亨年間(1321~4)に豊島氏が勧請(かんじょう)したとされ、その
頃植えられたとすると600年近い樹齢か。都の天然記念物に指定されている。


 クスノキの古木に囲まれた境内、コンクリート造りの拝殿に参拝して、正面の石鳥居を
出た。


 社前の通りを少し戻って音無橋を渡り、石神井川左岸の遊歩道へ。少しの間、コンクリ
ート護岸が高くて流れが見えず。流れが見えて間もなく、眼下の流れに数羽のキンクロハ
ジロが泳いでいた。
    

 次の橋を渡って右岸(南側)に回り、石神井川の旧川を利用した音無さくら緑地の吊り
橋を渡る。緑地には遊歩道が設けられ、エゴノキやコナラなどが植えられ、ソメイヨシノ
も咲いていた。


 車道が横断する紅葉橋を渡った西側に金剛寺がある。治承4年(1180)8月、伊豆
国で挙兵した源頼朝は、初戦に勝つも石橋山の合戦で敗れて安房国に逃れ、見方を増やし
て隅田川を渡り、鎌倉を目指した。

 この途次、滝野川の松橋に陣をとったといわれ、松橋が当時の金剛寺の寺域を中心とす
る地名とか。頼朝は石神井川のがけ下に祭られた弁財天に祈願し、金剛寺の寺域に弁天堂
を建立、田地を寄進したと伝えられているという。

      
 弁天堂は本堂右手にあり、その横にほかの七福神も祭られていた。


 頼朝当時は深山幽谷の趣だったという川は、現在はコンクリートで固められ、両岸のソ
メイヨシノは満開に近い姿で続いている。


 旧川の流れを掘り下げたのか、深い遊水池のようなところに遊歩道は下り、右に迂回し
て上がる。



 その先は音無紅葉緑地と呼ぶ公園で、公園や流れの両側のソメイヨシノも花であふれて
いる。






 流れは右に大きくカーブして観音橋へ。橋の向こうに露座の谷津大観音が望まれる。
      

 橋の先、数本のくぬぎの古木が林立する音無くぬぎ緑地で休憩した。
  


 くぬぎ緑地のすぐ先でJR埼京線のガード下を抜けて、北区から板橋区に入った。


 途絶えることなく続く、深い流れの両岸に咲き競うソメイヨシノの下を進み、少し高台となっ
ている加賀公園へ。

 この辺り一帯は、江戸時代の加賀前田藩の下屋敷(しもやしき)跡。下屋敷の平尾邸は
約2万8千坪に及び、徳川御三家を含む江戸の大名屋敷でも最大の広さだったとか。

 邸内には石神井川が流れ、その水流と千川(せんかわ)用水を利用した大池が設けられ、
築山や滝などを配した池泉式庭園は、本国金沢の兼六園の約7倍の広さだったという。

  
 園内に、板橋区と金沢市との友好交流都市協定締結記念碑がある。

 また公園内には、戦前この一帯にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)
の線路敷きが残されていた。




    
 ソメイヨシノの並木は続き、満開に近い花が咲き競う。次の橋の先に、この地に昭和48
年(1973)から平成21年(2009)まであったという国立極地研究所から寄贈さ
れた、南極の石が台石の上に置かれていた。
         
 第25次南極地域観測隊が南極・プライド湾で採取した縞状黒雲母片麻(しまじょうく
ろうんもへんがん)とのこと。


 近くの遊歩道には、加賀藩にちなむ石灯ろう型のアクセサリーがある。
    

    

    
 緑橋を渡ったところには、「早春」と題する石彫が展示されていた。途切れること無く、
ソメイヨシノの並木は続いている。


 加賀二丁目緑の広場を抜けて稲荷橋を過ぎ、対岸に大きな帝京大付属病院を眺めながら
進む。
      


 次の御成橋を渡って左岸へ、すぐ先の稲荷台おなりばし緑地の一角に12時12分に着
き、みんなのシートを広げて昼食の場とした。


 == 中山道板橋から折り返す ==

 昼食後ミーティングをして12時50分に出発、いったん帝京大病院まで戻りトイレを
借りる。サクラを背に記念撮影して左岸に回り、先に進む。


 400m足らずで、板橋区の区名や町名のもととなった板橋に出た。板橋の名は、鎌倉
から室町時代の古文書にも見えていたとか。
       
 橋は中山道板橋宿(じゅく)の中心の中宿(なかじゅく)付近にあり、南側には本陣が
置かれ、問屋場や旅籠が軒を並べていて、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵でも賑
やかだったことがうかがえるという。
      


 橋のたもとでもう一度記念撮影をして、左岸(川の北側)を折り返すことにした。



 すぐ先左岸沿いは、ソメイヨシノより白い桜が多い。



 遊歩道が広くなった緑地に子規の句碑が立ち、近くに最近の句の掲示板もある。
    


 対岸から往路の桜並木を見直しながら加賀橋まで戻り、少し先の空き地で14時からシ
ートを広げて、花見の宴の場とする。

 持ち寄ったものや途中のコンビニで求めた酒類やつまみなどを並べて円陣をつくり、
15時20分まで賑やかなひとときを過ごす。

 往路で眺めた谷津大観音の横を通過して観音橋を過ぎる。その先の遊歩道沿いには、
ショカッサイやナノハナ、チューリップなども咲いたいた。
    


 対岸に金剛寺を眺め、音無親水公園まで戻ると、往路よりかなりの人出で賑わっている。
公園には、「日本の都市公園100選」の選定プレートがあった。


 ゴールの王子駅親水公園口には、16時ちょうどに着いた。ここで解散し、有志はさら
にそばの飛鳥山公園での次の花見の宴に向かう。

 今日の東京の最高気温は13.3℃だったとか。少しヒンヤリとして青空は見えず、花
の彩りが弱かったのが少し残念だが、終始見頃のソメイヨシノを眺め、皆、満足した。

 当グループでは、毎年4月にはお花見ウオークをしているが、満開だったのは久しぶり。
しかも、全コースとも桜並木が続くというのは、初めてのことだった。

(参加 21人、天気 曇、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、赤羽、
 歩行地 北区、板橋区、歩数 15,200)




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新大塚から後楽園へ 丸ノ内線沿線を歩く(東京)②

2016-04-01 22:59:50 | 江戸・東京を歩く
 2016年3月30日(水) 《続き》

 食事を終えて春日通を少し南東に進み、徳運寺に寄る。

 2階建て堂々たる本堂はコンクリート造り。ここも小石川七福神の弁財天の寺で、境内
に夢殿風六角屋根の小さな弁財天堂が祭られていた。


 すぐ先の交差点から、東北東に緩やかに下る広い通りは播磨坂と呼ばれ、ソメイヨシノ
の並木の開花が進み「第45回文京さくらまつり」を開催中。


 桜並木は、昭和35年(1960)に「全区を花でうずめる運動」で植えられたもので、
現在は127本あるという。

 平成7年(1995)には「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、好天となっ
た今日はたくさんの区民で賑わっていた。
    

 花見をしながら播磨坂を500mほど下り、都道436号・千川(せんかわ)通を横断
して新福寺前↓を過ぎる。


 突き当たりが小石川植物園、右折して南東端の入口から入園する(大人400円)。

 正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」で、もとは5代将軍綱吉の館林
城主時代の別邸(白山御殿)の地とか。

 貞享元年(1684)に徳川幕府が当地に設けた「小石川薬園」が始まりで、日本最古
であるばかりか、世界でも有数の歴史を持つ植物園だという。

 面積は16万1千㎡(4万8千坪)余りあり、台地、傾斜地、低地、泉水地など地形の
変化に富み、これを利用して多様な植物が配置され、国内から朝鮮、中国を含む東南アジ
アに分布する高等植物を中心に収集・栽培しているようだ。


 入口近くに、精子発見のソテツがある。裸子植物に精子が存在することを、明治29年
(1896)に当時の東大農科大学の池野威一郎助教授が発見したという。


 右に回り込み、坂を上がるとソメイヨシノの古木が見ごろ。本館の先はソメイヨシノ林
で、何れも見ごろに近く、観覧者も多い。
    

      

         
 さらに進んで、ツツジ園のミカワツツジ↑や、大きなシナミズキ↓の花などを見る。


 スズカケの古木やサルスベリの下を進むと、享保12年(1727)に中国から輸入さ
れたというサネブトナツメ(酸棗)という珍しい木もあった。


 最奥部はスギ・ヒノキ林になっていて、都心とは思えぬたたずまい。左に回り込んだ高
台からは、眼下の日本庭園やその向こうのビル群などが望まれる。


 日本庭園に向かって急坂を下り、池のそばに行く。植物園の敷地の西南端には、国重要
文化財の旧東京医学校本館が移築されているが、そばに行くことは出来ない。



 日本庭園の池から続く、台地下の幾つかの池沿いに進むと、↓オオリキュウバイや大き
なハナズオウが開花していた。
     

      
 最後の池の近くの斜面には、太郎稲荷と呼ぶ小さな稲荷神社が祭られ、近くにコブシが
花を見せる。1時間近くかけて一巡し、15時に植物園を出た。
    


 南東に進んで白山二丁目に入り、念速寺(ねんそくじ)へ。ここも本堂はコンクリート
造り、本堂前に鮮やかなボケが満開で、名の知れぬ花も咲く。
    

         

 本堂裏側の墓地には、特志解剖第1号という「美幾女(みきじよ)墓」がある。
       
 美幾女は、江戸末期の駒込追分の彦四郎の娘といわれ、病重くなり死を予期し、死後の
屍体解剖の勧めに応じた。

 明治2年(1869)8月の死後、直ちに解剖が行われ、当時の社会通念、道徳感など
からは難しい時代にこれに応じた特志解剖第1号として、わが国医学研究の進展に大きく
貢献した人という。

 南側の小石川三丁目に進む。「家康の生母、於大の方(おだいのかた)ゆかりの真珠院」
の案内板に引かれて、真珠院境内に入る。

 於大の方は三河国刈屋城主水野忠正の娘で、14歳で岡崎の松平広忠に嫁ぎ、翌年家康
が生まれたが、仲むつまじい結婚生活は3年で、政略により幼い家康を残して離婚させら
れたという。


 本堂はコンクリート円筒形の独特な造り。背後の墓所に、於大の生家、水野家の墓所が
あるというので回ったが、水野家の名を忘れ標示も無く、確認できず。これが↓そうかも
しれない。
             

 でも、第2代日本社会党委員長で、ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた鈴
木茂三郎(1893~1970)の墓を見つけた。
         


 墓地にはシダレザクラと数本のソメイヨシノが咲き出し、小石川七福神の布袋様が立っ
ていた。


     

 南側の法蔵院も独特の本堂、2つの寺の東側一帯は、徳川家ゆかりの女性が眠る伝通院
(でんづういん)である。


 南側に回ると、新しく豪壮な山門が目に入る。山門を入った正面に大本堂が構え、その
前のソメイヨシノが花を見せ始めていた。


 山門の右手、道路際のシダレザクラは見頃になっている。


 伝通院は、慶長7年(1602)徳川家康が生母於大の方をこの地に葬り、その芳名
「伝通院殿」からされたとのこと。


 墓地には、於大↑、千姫↓をはじめとして、徳川家ゆかりの女性の墓が多い。
    やj

 また、寺は「関東十八壇林」と呼ばれる仏教徒の学問所のひとつでもあり、関東十八壇
林中でも、代々の住職が紫の衣をまとえる紫衣壇林という特別に格式の高い壇林だったと
いう。

       
 広い墓地にはほかに、明治、大正時代の教育者、評論家の杉浦重剛↑、幕末の勤王の志
士・清川八郎、大正、昭和期の詩人で小説家の佐藤春夫、アララギ派の歌人・古泉千堅、日
本画家・橋本明治、小説家・柴田錬三郎なども眠っている。

                 清川八郎墓

         
                佐藤春夫墓
 
 東に延びる善光寺坂を下る。中ほどに、文京区天然記念物のムクノキの古木が立ってい
た。樹高約13m、目通り幹囲約5m、推定樹齢約100年とか。昭和20年(1945)
5月の空襲で上部が焼けて欠損したが、「善光寺坂のムクノキ」として親しまれているよ
うだ。
       

 そばの沢蔵司(さわぞうす)稲荷神社は社殿の修理中。沢蔵司とは、伝通院で修行して
いた学僧で、わずか3年で浄土宗の奥義を極めた人とか。


 隣接する善光寺には、由緒などは記されてなかった。


 都道436号・千川通に出て少し南に、「こんにゃくえんま」で知られる源覚寺がある。

 閻魔(えんま)堂↑に安置された閻魔像は、右目が黄色く濁っているが、宝暦の頃
(1751~64)、閻魔王が目を患った老婆に己の右目を与え、老婆は感謝してこんや
くを供え続けたという言い伝えがある。

 このことから、眼病治癒の「こんにゃくえんま」として庶民の信仰を集めたとか。正面
の焔魔堂には、たくさんのコンニャクが供えられていた。
    

 焔魔堂の右手には、塩地蔵尊を祭った地蔵堂がある。開創の寛永元年(1624)以前
からこの地にあり、地蔵尊の身体に清めの塩を盛ってお参りし、参詣者の身体健康を祈願
する信仰を集めているという。
       

 さらに右手には、「汎太平洋の鐘」と呼ぶ、サイパン島や米国テキサス州などを巡って
戻ってきたらしい数奇な巡り会いを経た、元禄3年(1690)鋳造の鐘が鐘楼に吊され
ていた。

     
 正面にそびえる文京シビックセンターに向かって進み、16時36分に東京メトロ丸ノ
内線・南北線の後楽園駅に着いた。


(天気 晴、距離 10㎞、地図 「文の京観光ガイド 文京」地図(約1万800分の
 1・文京区観光協会発行)、歩行地 文京区、歩数 24,700)




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新大塚から後楽園へ 丸ノ内線周辺を歩く(東京)①

2016-04-01 16:31:36 | 江戸・東京を歩く
 2016年3月30日(水)

 東京の桜の開花もかなり進んだとようなので、早めの花見を兼ねて文京区南西部の寺社
や公園などを巡ることにした。

 池袋駅から東京メトロ丸ノ内線に乗り、次の新大塚駅で下りて10時20分にスタート
する。

 駅の南側から大塚四丁目の細道を南下して、まずは都営豊島岡墓地の東側崖(がけ)下
にある狭い境内の吹上稲荷神社へ。

 元和8年(1622)、徳川秀忠が日光山から江戸城中吹上(ふきあげ)御殿に勧請
(かんじよう)したのが初めで、のち小石川四丁目や護国寺などを経て、明治45年
(1912)に現在地に遷座したという。

 豊島岡墓地の崖下沿いに進み、護国寺へ惣門から入る。惣門は元禄年間(1688~
1704)のもので、江戸時代武家屋敷門の5万石以上の大名クラス相当の格式ある造り
という。


 護国寺は、天和元年(1681)、5代将軍綱吉が生母桂昌院の願いで創建した祈願寺
だったが、後に将軍家の祈願寺となったとか。

 正面の観音堂(本堂)は元禄10年(1697)の建立、元禄時代の建築工芸の粋を結
集したといわれ、1938年に近江から移築された桃山時代の書院造りの月光殿↓ととも
に、国の重要文化財である。



                   大師堂


 広い境内には、大師堂や多宝塔、露座の大仏、鐘楼、一言(ひとこと)地蔵尊などのほ
か、「音羽富士」と呼ぶ富士信仰のミニ富士山もある(下は登山口)。


 山ろくには、地元・音羽ゆりかご会の創始者、海沼実(かいぬまみのる)作詞作曲「か
らすの赤ちゃん」の歌碑や、民謡碑などが立っていた。
    

      
 境内のシダレザクラがかなり開花し、多宝塔近くのソメイヨシノも3分咲きくらいか。
境内を一巡して、正面の正門から寺を出た。

 門前の広い道路、都道437号・不忍通を西進して首都高速5号線の下を抜ける。目白
台三丁目の細道を南下して都道8号・目白通に出た。


 南側の旧細川侯爵邸内の広い敷地↑にある、「和敬塾」と呼ぶ海外からの留学生を含め
た学生寮の西側、幽霊坂を下る。

 下りきった神田川左岸沿いの一角は新江戸川公園。一帯は、和敬塾から続く肥後熊本藩
細川家の屋敷跡を、都立公園として開園後、文京区に移管されたもので、池泉式回遊庭園
となっている。


 入口を入ると「松聲閣(しようせいかく)」↑と呼ぶ建物がある。細川家下屋敷の学問
所として使用されたもので、集会室や喫茶サービスなどに利用され、観覧もできるが入館
は省略して、池泉式回遊庭園を一巡する。





 池の周辺に咲き出したソメイヨシノや、ボケ、シャガ、淡い新芽を見せるモミジなどを
眺めながら、池の北側斜面を東端まで進み、神田川寄りの南側を戻った。




 神田川左岸沿いにはソメイヨシノの並木が続き、かなり見頃になっていて、団体や個人
などたくさんの花見客が巡っている。


 新江戸川公園の東側斜面には、狭い境内に水神社が祭られている。水神社の創建年代は
不明のようだが、徳川家康の命で開いた神田上水の守護神として、上水の恩恵にあずかる
神田、日本橋の人達の参詣が多かったとか。
     
 簡素な社殿の前に立つ、ご神木の2本の大イチョウが歴史を示している。
        


 ソメイヨシノの並木が続く左岸沿いに進むと、関口芭蕉庵と椿山荘(ちんざんそう)が
続いている。


 関口芭蕉庵は、俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から3年間神田川の改修工事に参
加した際に住んだ、「竜隠庵」と呼ばれた水番屋の場所とか。入園無料のようだが入らず
に通過した。


 長く続く土塀の建物の中は、椿山荘(ちんざんそう)で知られるホテル椿山荘東京庭園
で、桜も約20種120本あるようだが、ここも入園は省く。


 その先、桜並木の続く神田川沿いは江戸川公園で、東屋(あずまや)などもあり花見客
も更に増える。
    

     

         

 この辺りは、「大洗堰(おおあらいぜき)」と呼ぶ神田上水の堰があったところ。その
由来碑があるが、文字は判読しがたい。

 公園の東端の江戸川橋まで進み、北から合流した都道435号・音羽通りを横断して小
日向(こびなた)二丁目へ。300m余り東進し、北への服部坂を少しで、小日向神社が
あった。

 創建は天慶3年(940)という古社で、明治2年(1869)に当地に遷座されたと
いう。境内には、周辺幾つもの町内の御輿蔵(みこしぐら)らしい建物があった。


 さらに上がると、3階建集合住宅の敷地に「新渡戸稲造(にとべいなぞう)旧居跡」の
説明板が立つ。

 新渡戸稲造は、南部藩士の子として文久2年(1862)盛岡に生まれ、札幌農学校で
内村鑑三らと学び、東京帝大卒業後、アメリカやドイツに留学し、農業経済学や農学統計
などを学んだ。

 若い時から「太平洋の橋」になりたいと考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそ
れをわが国に紹介することに努め、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長になり、
「連盟の良心」といわれたという。

 この地は、明治37年(1904)から、亡くなる昭和8年(1933)まで住んだと
か。傍らのクスノキの古木は、新渡戸も眺めたのではなかろうか。


 さらに進んで、小日向四丁目のY字路際から深光寺(じんこうじ)に上がる。本堂はコ
ンクリート造り。小石川七福神の恵比寿神の寺で、本堂前に石造の恵比寿様が座る。
       

 本堂左手前の木の下には、江戸後期の戯作者で「南総里見八犬伝」や「椿説弓張月」な
どの作品を残した滝沢馬琴(たきざわばきん)の墓があった。
           

 茗荷谷(みょうがだに)駅から地上に出たばかりの東京メトロ丸ノ内線のガード下を北
に抜けて釈迦坂を上がる。


 駅のそばの跨線橋を渡ってすぐ先の林泉寺に行くが、本堂は改修中で建物は無い。

 願かけにお地蔵様に縄をかけ、願いが叶ったら縄をほどくという「しばられ地蔵」を、
見ることはできなかった。

 13時を過ぎたので、茗荷谷駅に近い国道254号・春日通の食堂で昼食を済ます。
                                    (続く)




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皇居東御苑の紅葉(続)(東京)

2015-12-15 16:26:12 | 江戸・東京を歩く
 12月13日(日)に歩いた靖国神社から皇居東御苑、そして皇居外苑のレポートは前
回アップしましたが、このうち皇居東御苑では、ほかにもたくさんのモミジを撮ったので、
今回はその何枚かを紹介します。

 皇居東御苑の北部、天守台の東側には桃華楽堂(とうかがくどう)という音楽堂の建物
がありますが、建物の南側に色づくモミジの古木。


 南側には広い芝生地が広がり、その西側には桜の島、竹林など木々が豊富で、その一角
にもモミジの古木が色づいていました。
      



 広い芝生地は2つに分かれていて、その中間を抜ける遊歩道際には、黄色く色づいたリ
ュウキュウカンヒザクラが1本だけ立っています。


 竹林の先には石室があり、さらに進むと富士見多聞と呼ぶ建物があります。その周辺の
モミジなど。


 広い芝生地の間を東に抜けて本丸休憩所で昼食を済ませ、そばの展望台に向う上り口に
は3色のサザンカが花開いていましたが、背後のモミジの色にはかないません。


 展望台のそばの石垣下にもモミジが…。後から下る汐見坂から見えたのもこれらしい。


 展望台を下りて、北側の楽部のそばを回って汐見坂に向かう途中の木は何だろう?


 汐見坂を下りた白鳥濠(はくちょうぼり)付近。




 白鳥濠の東側は、豊富な広葉樹林が色づく二の丸雑木林です。




 二の丸雑木林を北東に進んで、諏訪の茶屋前を通過しました。


 その先の二の丸庭園は、モミジと松と池との彩りが豊富で、一番の見どころでした。












 池のそばには菖蒲田もあり、初夏にはショウブの花が見られそう。


 二の丸休憩所周辺の雑木林の彩り。


 近くの大手門から皇居東御苑を出て、皇居外苑に向かいました。




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