魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

慈愛と神

2022年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

静岡で保育士が児童虐待をして逮捕され、親は元より、日本中の怒りをかっている。
これは実際、ケシカラン行為なのだが、逮捕された保育士には全く悪気はなかったと思う。では、何でこんなことをするのかと言えば、一言で言えば、無知と無自覚だ。
レベルは違うが、「しつけ」だと虐待殺人に至る親や親代わりの「犯罪者」と同質の人間であり、可愛がることと虐待の違いが理解できない人だ。

では、これが特殊な人かと言えば、世の中の人が、「人格」や「人権」の概念をどれほど理解していのか疑わしい。
あらゆる生き物は姿形とは関係なく、等しい「命」を持っている。人権思想はこれを人類に限って、人格と認め人権を尊重しようという。
しかし、日本のように、山川草木の全てに命(魂)が宿るアニミズムを、仏教の輪廻で理解している国では逆に、人権尊重が理解しにくい。人間だけが特別ではないからだ。

欧米の一神教世界では、人は神に似せて創られ、あらゆる命は人のために創られた。しかし、東洋では人も命の一つであり、様々な命の輪廻の中でたまたま人であるに過ぎない。
この大前提の違いを、互いに認識しないまま、「人権」という言葉だけが世界に広まり、人権尊重度で、国にランクを付けたりする。無知が無知を裁く愚が、まかり通っている。

等しければ無価値になる
日本が属する東洋世界では、人命が非常に軽い。自殺や死刑、人命軽視の戦争思想など、自殺を禁じるキリスト教からは理解できない、様々な文化行動がある。
一方、一神教世界では、命は神のものだからおろそかにしてはいけないが、神に捧げる命は尊いとされ、殉教であれば許され、神の世界に行くと信じられている。神風特攻と聖戦自爆は、根本的に違うものだ。
東洋の場合は、死ねば別の形に生まれ変わるだけで、魂は消えず、死が特別のことではないが、一神教では神のもとで神と一体になり完結する。

輪廻を前提とする人の死は、人間界での事であり、社会のために死に、社会から排除されて死ぬ。だから、社会から否定されて死を選び、不適合者に死を与え、社会の為に死ねば守り神になる。無論、この守り神は一神教の神とは次元が違う。一神教では神の定めで生きるのだから、個人や集団の守り神などいない。ただし、一神教で神と生きるのは神を信じる者だけだ。
この違いが、自殺や死刑に対する受け止め方の違いになる。一神教では死を定めるのは神だが、東洋では社会との関係の中で死ぬ。

神のいない東洋では、人間界で死んだとしても来世がある。運が良ければ再び人に生まれ変わるが、イワシになってクジラに食われるかも知れない。今日食べている牛肉はオジイチャンかも知れない。食う者も食われる者も平等だから、人と牛に区別は無い。
ただ、生き物に対する慈しみに拘れば、何も食べられなくなるので、身近な四つ足動物を同格とみて、草木や魚は食べても良い格下と考えクジラやイルカは大きな魚と考えた。

そして、いったん食べる対象と見れば、東洋人は残酷になる。一神教で家畜を苦しませて殺してはならないと考えるのは、家畜は神に与えられたものだが、家畜そのものの存在も認めるからだ。
東洋人は、食べる対象となれば残酷な方が美味いと考えるようだ。生きた猿の頭にストローを入れて脳みそを吸う中国、犬を叩いて苦しませて食べる朝鮮、躍り食いや活け作りで食べる日本、食べるとなれば存在を認めない。

神も仏もない
こうした東洋的感覚のベースが、一神教ルールで覆われた日本では、むしろ、仏教輪廻の慈愛を前提とする日常の、形だけが残った。
「しつけ」という言葉は、仏教の慈愛が浸透している社会では、それなりの歯止めがあり、実になるが、一神教ルールの中では、単なる虐待や暴力になる。

「人格」や「人権」は一神教のルールだから、人である限り、老若男女、子供であろうが一つの人格なのだが、これが理解できない。
子供に対し、「ちびっ子」や「がきんちょ」と呼べるのは仏教的慈愛があってこそで、その文化、価値観の中であれば、肝っ玉母さんの愛情として活きるが、神も知らず慈愛も失われた世界で、大人の優位性、立場の優位性を振り回せば、「心ない」ただの虐待になる。
児童虐待の保育士が神を知っていたか、慈愛の心があったかはわからない。ただ、この行為を聞いただけで誰もが怒る。東洋の慈愛は失われ一神教の神もいない。現代日本はそういう世界になっている。
怒る人も何に怒っているのか、人権無視に怒っているのか、無慈悲に怒っているのか、説明が付くだろうか。保育所の発想自体どこから来たかも含めて。