魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

戦争の罪

2022年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

ロシアで、プーチンが予備役動員の大統領令をだすと、国民がウクライナ侵攻を自分の問題として捉え始め、各地で反戦デモが起こり、国外逃亡を図る多くの男性が国境に向かった。これは、ベトナム戦争当時のアメリカと同じだ。
アメリカは、ロシアをソ連時代の全体主義イメージだけで敵視し、NATOを拡大し、プーチンを疎外し続けた。無論、KGB上がりのプーチンは今回のように、ソ連時代の手法しか知らないから、チェチェン同様、周辺国へも強圧的な手段を執り続けてきた。
しかし、今回見るように、ロシアの体制には自由がある。ロシアはソ連ではない。まして中国でもない。

もし、同じように、中国で台湾侵攻のようなことが起こった時、多くの反戦デモや国外逃亡者が出るだろうか。そういう動きがあったとしても、徹底的に押さえるだろう。天安門、香港の中国は、今のミャンマー、昔のカンボジャにも見る、野蛮の総本山だ。
もしかすれば、マヤ、アステカなどに通ずる、モンゴリアンの残虐体質なのかも知れない。
そう思いたくなる中華圏だが、アウシュビッツなどを考えれば、民族や人種は関係ない。全体主義やカルトのようなシステムや空気ゆえに起こる問題であり、中国の政治体制にあることを物語っている。

だが、中国共産党はこの体制を「民主主義」だと言う。吹き出してしまうほどの強弁だが、選挙による民主主義では理解できない、空気による民主主義を言いたいのだろう。
帝政は、それを支える民衆を完全に無視すると倒れる。民主主義では選挙に現れるが、帝政では権力側が民意との「兼ね合い」を測る、それが中国共産党の言う「民主主義」だ。
これが中国の「民主主義」なら、西洋医学と東洋医学、デジタルとアナログの違いのようなもので、一面の共通性は無くもない。

この「中国の民主主義」と比べれば、プーチンがどうであれ、ロシアは西洋側だ。
もし、欧米がNATOのようなあからさまな脅迫を控え、ロシアと対等な経済、文化の交流を積極的に行っていれば、果たしてプーチンの権力はここまで盤石になっただろうか。
欧米が続けてきたNATOの脅迫と、資源国に対する植民地的な経済蔑視は、ソ連、大ロシアのプライドを傷つけ、欧米に怒るプーチンを支持する動きになったのではないか。
この点、中国は欧米の経済蔑視を逆手に取る伝統的したたかさを持っていたが、田舎者のロシア人はそれだけ素朴なイワンだということだ。

どんな理由があったとしてもロシアの侵攻は罪だが、「泥棒にも三分の理」を知る日本人が、正義のウクライナ、悪のロシアと割り切ってみるとしたら、日本文化や武士道など語ることはできないのではなかろうか。終戦当時、日本もソ連軍にひどい目に遭わされた。しかし、そのソ連軍の中にウクライナ人はいなかったのだろうか。
どんな戦争にも一方的な正義など無い。始まってしまえば聖人君子はいなくなる。例え防衛戦であっても、そこに至るまでに知恵は出尽くしていただろうか。いかなる戦争も、戦争そのものが悪であり、それを止めようとする努力だけが正義だ。