魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

宇宙風

2007年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

(千の風になって 3)

オーロラの原因にもなっている太陽からのプラズマを太陽風と呼ぶそうだ。地球大気のバリアのように、太陽系を銀河宇宙線から守っているらしい。死の宇宙も大きな息吹で満たされている。
われわれ生物にとっての死は、次元を替えて見れば大きな生、大きな命だ。
今では、ビッグバンで宇宙は限りなく拡大しているのも常識だ。難しい学理はさっぱりわからない。わからないから勝手な妄想ができる。
今、無限に拡大していく宇宙は、どこかで縮小に転ずるのかも知れない。もし宇宙が生命のような存在なら不思議ではない。
あるいは、拡大するだけしてしまうと消滅して、次のビッグバンが始まる・・・とか、ゴム風船のようにクルリと内外が反転して、拡大が縮小を意味するとか・・・妄想は尽きない。

おそらく、宇宙の姿はどこまで行っても人間にはわからないだろう。無論、わかったと思う時は何度も来るだろうが。
同じように、命のわけはどこまで行ってもわからないだろう。だから、わかろうとする必要もない。それでも、生命の歴史を概観すれば、何となく答えが見えるような気もする。

命は宇宙の営み
始めはじわりと動き始めた生命が、さまざまな形態に変化し、影響し、地球とせめぎ合いながら束になり、漠然とした方向性を持って進み始める。生きているだけで地球環境を変え、地をはうものから天翔るものとなり影響を加速させ、知能を持ち地球を激変させ、さらに宇宙へ影響を及ぼそうとしている。
この一連の動きは、単に、人間が自然環境を破壊していると言うより、もはや一つの意志に導かれた営みだ。環境破壊も人間にとっては不都合だが、これも意志に仕組まれたステップかも知れない。
人類がこれを乗り越えるか滅ぶかは人類自身が選ぶことだ。どういう結果になろうと、地球生命ガイアは営まれていく。

われわれの命は滅びることなく、命を重ねガイアとして共に生きる。
この営みを、魂は往来すると喩えたのが輪廻だろうが、現代人にはもう「魂」の方便は必要ない。人体や地球の姿を知った今、死は消滅ではなく再生の始まりであることを理解できる。

生きている今の「わたし」が魂になって生き続けるのではない。今の「わたし」もガイアの一部であり、「わたし」がいなくてもガイアは生き続ける。ガイアに生まれた「わたし」はガイアにとけ込み消滅するが、何も失われてはいない、ガイアと共に生きている。

ガイアとして生きる命は、宇宙として生きる命でもある。宇宙風の息吹の中で、生となり死となり、生々流転する大きな命が失われることはない。そして、解脱することもなければ、その必要もないのだ