魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

エイプリルフール

2007年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

「ウソをついても良い日」が必要なほど、人間は正直だろうか。
「私は一度もウソをついたことはありません」は、誰もが笑う最大のウソだ。
じゃあ、なぜ、ウソをついても良い日があるかと言えば、「この日しかウソをつきませんというウソ」を隠すための、免罪の日としてあるのだろう。あたかも、私たちは正直者ばかり、のような気休めと偽善のために。

ウソがいけないのは、それがウソだからだ???
人間は快適に過ごすために、現実を直視しない虚構のバリアを張って生きている。もっと言えば、人間の五感自体、すべてを感知するのではなく、大抵は無視したり、不都合な感覚を快感にすり替えたりして過ごしている。
人間社会も、現実をすべて直視し対応すればバラバラになって成り立たない。集団を維持するバランスのために、ウソや無視で固めて、形作られている。だからどこまで行っても不条理は無くならない。
そんなウソ社会を心地よく維持していくために必要なものがもう一つのウソ。物語、ドラマ、小説だ。これはウソですよとすることによって、社会の大ウソを真実らしく見せ、一方で大ウソに馴染む教訓とする。

勘違いされそうだが、ウソ社会がいけないと言っているのではない。社会はウソでしか成り立たないことを知り、ウソや矛盾におおらかな気持ちで暮らしていかなければ、かえって「実態」を見失うということだ。
目先の正直や真実、正義だけを追求していると、家の外は毒ガスが撒かれていると言われれば、自分で確かめもせず家に閉じこもる様なことになる。
ネット情報もそうした危険に満ちている。