魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

蛙の歌が

2023年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

蛙の声がうるさいと訴える人がいて、話題になっている。
以前、キャンプ場の管理人に「川の音がうるさいから何とかしろ」と言ってくる人がいると聞いたから、特に驚く話題でもないが、単なる笑い話でもない。

一つには都会化し、自然を知らない現代社会がある。
都会は走る電車のような特殊空間だ。外の自然を眺めることは出来るが、空間も時間も切り離され、車内放送だけを頼りに過ごす。こんな中で生まれ育つと、何でも知っているようなつもりで、何も知らない無菌室の人間になる。放送、ネット、ゲームは、全て車内放送だ。
車窓の景色に憧れて、一歩電車を降りてみると、異次元の世界が広がっている。都会人の中には適応性の無い人も多いから、川や蛙の音が耐えられない。

「蛙ってこんなにウルサいものですか?」、「子供って何であんなに騒ぐんでしょうねえ」と、誰かに話したこともない。話せば、そんなものかと考え直すことも出来るが、自分の感覚と知識の範囲でしか思考できない。
対話の中で暮らせば、自分の考えが正しいとは限らないと気づくが、それもない。
電車で泣く子を白い目で見る乗客も、申し訳なくて萎縮する親も同じ都会人だ。昔の日本なら、誰かが子供をあやしたり、母親を元気づけたりアドバイスしただろう。

資質の問題も
蛙の声や川のせせらぎのみならず、音によるトラブルは少なくない。ピアノ殺人やクラクション殺人まであった。
近隣トラブルの発端の多くには、音がある。五感の中で最も原始的なものは音だと言われている。おそらく振動が、生命の感じた最初の刺激だったのだろう。
人が死ぬ時、最後まで感じるのは音だとも言われる。確かめたことはない。が、身体が衰弱している時、小さな音でも、全身が痛いほどウルサいと感じた体験はある。
音に敏感で、小さな音でもウルサいと言う人は、身体のどこかに障害が起こっているのかも知れない。あるいは、初めからそういう体質の人かも知れない。

他の人なら何でもない、ただの音が、そういう人にとっては、槍で刺されるような苦痛になる。
音は聞きようだ。日本人にとっては心地よい虫の音も、欧米人にとってはただの騒音にしか聞こえない。ある人には癒やされる音楽も、その文化を持たない人にとっては騒音だ。若者の音楽は、多くの老人にはウルサい騒音になる。まして、体質的に音そのものが苦痛になる人にとっては、とんでもない暴力行為だ。
例え美しい音楽と知っていても、耐えられないのだから、子供の嬌声や、天井階のドタバタなど正に拷問だ。

そういう音に耐えられない人が、耐えることに慣れない都会人になれば、蛙の声が訴訟問題になる。
クヮ クヮ クヮ クヮ
ケロケロケロケロ
ゲッゲッゲ