魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

社会変革

2019年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

車は処分して、運転も止めた。しかし、免許の返納はしない。
かねて主張している通り、免許は60歳で区切るべきだ。だが、国の制度は一向に改まらない。もし、60歳以上が基本的に運転しない社会になれば、社会そのものが、運転しなくても暮らせるシステムになるはずだ。しかし、自動車産業に支えられた国だから、自動運転車も、社会インフラとしての普及は、生きているうちは無理だろう。

自家用車を前提とする社会では、必ず「いざという時」があり、嫌でも運転しなければならない時が来る。その時のために、免許は返納しない。
極端な話、乗せてもらって山中を移動中、運転手が倒れて代わりに運転したとすれば、緊急避難だから無免許で罰せられることはないだろうが、一応の手続きは必要になる。

高齢者の事故を見ていると、いずれも慣れすぎて、自分の手足のようなつもりでいるのが最大の原因だ。老化による「おざなり」な行動パターンが、そのまま運転に現れる。
高齢者講習を受けたが、実地運転で、脱輪を繰り返していたのは、講習に車で来た人ばかりだった。5、6年ぶりに運転したが、緊張もあってか、ほぼ完璧だった。たまに運転する人の方が緊張と慎重で確かな運転をするのかも知れない。

高齢者は免許返納や運転自粛より、先ずマイカーを処分することだと思う。痴呆老人を家族が止めても、勝手に乗って出てしまうと言っていたが、なぜ車を処分しないのだろう。
車を持たない生活で、運転するとしたら、レンタカーか、シェアカーだが、乗り慣れない車であり、他人の車でもあるから、緊張と慎重につながる。その前に、借りる段階で、ブレーキが掛かるから、よほどのことが無い限り、借りてまで乗ることはないだろう。

「上限60歳&高齢免許」の制度ができれば、自分で運転する高齢者は激減し、公共交通機関がイヤでも増加、充実する。車の形も、道の形も、交通ルールも変わり、通学を始め、社会まで変わる。
良いことづくめだが、実現するには、産業と法律の双方からの努力が必要な上、社会全体の「車は運転するもの」の固定概念を打ち破る必要がある。

今、自動車産業も大きな構造変革の最中だが、これにいち早く対応したものが次世代の勝者となる。
中国が狙う、電気自動車でのシェアは、製造競争次元だが、次世代の勝者になるのは、未来社会のシステムを正しくイメージできた者だろう。
近未来はどのような社会で、何のエネルギーでまわり、そこでの移動や物流はどうあるのか。

どんな社会であろうと、化石燃料は終わっている。趣味以外では個人が運転することもないだろう。しかし、乗り合いは好まれない。
となれば、動力は電気で、燃料電池や蓄電池で、ドローンを含め簡単軽量なBOXが、ネットワーク・コントロールの下で、好きなところに移動でき、物流も勝手に移動する。そんなイメージだろうか。
こんな社会であれば、車を個人に売るビジネスモデルそのものが無くなる。だが、移動体の生産そのものはむしろ増える。

話を元に戻そう。
先ずは、免許の上限を法律で60歳とし、鉄道と連動した自動運転のコミュニティバスを中心に、多様な公共交通機関を大幅に増やし、シェア自転車や、シェアシニアカーなどの配備。また、鉄道車両に自転車やベビーカーの専用スペースを設け、そのまま乗れるようにする。
この他にも色々あるが、先ず、自家用車を前提としない社会に、産官が協力し合あって進めば、自動車産業も全く違う方向性で、改めて発展するはずだ。 そんな時代であれば、面倒な免許など持っている必要は始めからない。