魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

占いから

2019年09月28日 | 占いばなし

現代では、占いは迷信だ。
迷信とは、信頼性のある正しい基準から外れたことを信じることであり、信頼性のある正しい基準とは、その時代を動かす最も有用性のある原理に沿った方法だ。
現代は科学こそがその基準で、この概念が持ち込まれたときは、それ以前の基準は全て迷信とされた。
今日、科学でも解決できない問題があることが認識されるようになったのは、それだけ、科学が大きく発展したということだろう。

どんな道であれ、極めれば極めるほど、道が遠くなる。勉強の第一段階は、解らないことが分かることだが、科学もそれだけ成長して、新しいステージに足が掛かったようだ。
中国メディアが、自国では漢方をないがしろにしているのに、日本では漢方をよく研究し賢明な使い方をしていると嘆いていた。
これは何でもない、日本の科学、医療のステージがそれだけ高いことを表している。
物事を分かった人ほど、知らないものに敬虔な目を向け、受け売りレベルの知恵しか持たない人ほど、知らないものを簡単に馬鹿にする。

占いを否定する人には二通りある。科学的でないから、迷信だと単純に馬鹿にする人。もう一つは、科学のような顔をする占いに、科学を冒涜するものとして敵意を持つ科学者(主に天文学者)だ。
占いは科学とは全く違う世界だが、科学のように語ることで科学のような確かな結果が得られると勘違いした占い研究者。あるいは、生業の宣伝効果として科学を語る者。動機は様々だが、偽物が本物のような顔をしていることが我慢できない科学者がいる。
こうした科学者の気持ちは解るが、それだけ躍起になって怒るのは、純粋な科学への興味より、自分自身が権威とプライドに取り付かれているからではなかろうか。

占いから科学へ
では、迷信と知りつつ、占いに関わる動機は何か。もちろん、いい商売だと思って占いの勉強を始める人は多い。だから、占い教室はいつも盛況だ。
しかし、運命の神秘に惹かれて深入りする人も少なくない。運とは、天命とは、そんなものが本当にあるのか。どうすればそれが分かるのか・・・
また、人の天性や本音を知りたくて占いに興味を持つ人もいる。それなら心理学の方が良さそうなものだが、天性の気質を知るには、古代より時と耳目に晒されてきた占いにより惹かれる。

占いは、科学以前の方法を用いて、真理を追究しようとしてきた。
科学が、徹底的に事実と検証に基づいて物事を解明しようとするのに対し、占いは、神の声さえ聞こえれば手法は何でも良いと考えた。古代にもそれだけ色々な方法があった。
こうした環境から生まれた科学は、初めはやはり、正しく神の声を聞く方法として考えられたが、その過程で神の存在と相反する事実が出てきたことで、神を否定するようになった。しかし、敬虔な科学探究の心そのものが、信仰と言えるのではなかろうか。

占いは、正規の方法ではなくなったが、漢方と同様、多くの遺産を含んでいる。占いに残る様々な知識は、迷信と一笑に付すには惜しい。
占いの最大特徴は、事実をまったく無視して結論を出すことだろうか。例えば、人体の膨大な細胞の因果関係を検証することは容易ではないが、大局的な作用を見いだすことはできる。占いによる予測も理由は説明できないが、漢方薬のような手応えがある。
科学者が怒るまでもなく、占いを科学的に説明することは大間違いだ。神と直接対話しようとする占いは、科学とは全く方向性が違う。
しかし、科学が占いを研究し、説明することは可能であり、漢方のような研究の余地もあるはずだ。

恐ろしい科学との付き合い方
今、科学は、ついにAIの時代に到達した。まだ入口ではあるが、占いに求めた答えは、早晩、AIが答えるようになるだろう。同時に、占いの検証も為されるだろう。
その時、どこまで占いの手法に妥当性があったのか解るのは楽しみだが、大いに懸念することもある。
裏付けの解らない占いに対し、人々は、神秘として崇めたり恐れたりする。
AIの解読方法は今でさえ人間には不可解だが、ますます人間離れした「知恵」を発揮し始めるだろう。その時、人間は占いに対するように、頭ごなしに恐れたり否定したりしてはいけないということだ。
積極的に身近な存在として関わり、「賢いところも、馬鹿なところもある」と、友達と付き合うように関わるべきだろう。占い師が占いに対し、絶対だとも怖いものだとも思わないように。AIは支配者ではなく、新しい友達の一人だと。