魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

喪失時代

2019年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 京都アニメーションの放火事件。物理的には過去にも風俗ビルなどで似たような事件があったが、全く違う衝撃だ。
世相事件で、こんなにやり場のない腹立たしさ、残念さを感じることは滅多にない。
ただの死亡や殺人ではない。文化殺人だ。

一人の死は、その人の積み重ねてきた、人との関わり、知識、知恵、思考の蓄積とポテンシャルが、全て消えることを意味する。
そうした潜在力を持つ人が、特に専門性を持った人が集団で活動する場は、人知を超える創造力を発揮する創造体だ。
今回の事件は、その創造体が殺されたのだ。創造体の死で失われた「夢」は、失われたものよりも巨大だ。
将来の夢が消える子供の死が痛ましいように、文化創造の世界における可能性の消失には、言葉にできない無念さがある。 世界中から支援のお金が送られてきても、失われた才能は還らない。

犯罪は災害だ
当然、こんな事件を引き起こした犯人への怒りは、今、世に満ちている。しかし、これは災害だ。一種の事故でもある。
犯罪の多くがそうであるように、犯罪は一人の犯罪者によって起きるのではなく、我々一人一人が関わる社会の歪みが、犯罪者を生み出す。
今回の犯人は紛れもなく狂人だ。しかし、計画性その他から見ても、間違いなく罪に問えるだろう。
では、犯罪者を断罪して、一件落着かと言えば、そんなことではどうにも腑に落ちない。

犯人が言う「パクった」には、哀しい自尊心が垣間見えて、これもまた、この世の不条理を突きつける。
自分と対等でもない、関係すらない有名人にいちゃもんを付ける心理は、いちゃもんを付けることで、あたかも対等のステージに対座しているような気持ちになれるからだ。(ネットにはそんな自慰が溢れている)
他人は他人、自分は自分と思える「自分」が無い人ほど、あること無いこと些細なことで目立つ人に食らいつく。(そういう国家すらある)

今回の犯人も、自分が評価するものを、ライバル視、敵視することで自尊心を見いだし、無理心中することで、自分の存在を確立しようとしたのだろう。
このような狂気が生まれた背景には、年齢からして、不遇の世代が思い浮かび、とても、単純には責める気になれない。
今のアラフォーの置かれてきた時代は、乱世よりもひどいと思う。戦国乱世ならば、弱肉強食で束縛されることもなかったが、平成は不況なりにも安定社会で、ただ、ひたすら、システムに従うことを強いられた。少しでも踏み違えると、阻害され、いじめられ、活路を奪われる。かといって、戦国のように殺されることもなく、社会の飼い殺しとなる。
こんな時代でも、多くの人はガンバってきたのだから、そんなことは何の言い訳にもならない。
ただ、犯罪が社会の歪みであることを思うと、今回も、道連れ殺人の兆候があり、やはり時代の影が掛かっている。

認識が実体験を伴わず、他人も、痛みも、自分という存在も、情報でしかない時代。
行動の結果が、自分の行為ではなく、結果が突然表れたように感じれば、不満だけが蓄積し、それを打ち払うどのような行為もまた、情報レベルでしかない。
自分という存在を、直接他人に重ねて、他人と自分を同時にリセットする。
犯人は「しねー!しねー!」と叫んでいたと言うが、おそらくは自分に対して叫んでいたのだろう。そして、その二重性にも気づいていないのではなかろうか。

あらゆる意味で、とにかく哀しい