魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

パーハラ

2018年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム

セクハラ騒動には、もう、ウンザリだ。「セクハラ」で書いたように、木星サソリ座の影響だが、対角線上の天王星の影響が手を付けられなくしている。
セクハラ問題の空騒ぎで、世の男どもは今や、怖くて女に近寄れないでいる。
「セクハラって何なんだ!?」「ルールを決めてくれ!」と言った悲鳴が上がり、
「イケメンが言えばステキ、オヤジが言えばセクハラ・・・」と、嘆き節が聞こえる。
要は、これこそがセクハラの世界なのだが、沼から上がった泥ガッパ・オヤジには、咲き誇る睡蓮との付き合い方がわからない。

女が好ましく思わないことがセクハラ・・・は、その通りだが、問題は、なぜ好ましく感じないのか、だ。
セクハラとは、言い方を替えれば、無神経言動であり、相手の心情を察する気のない、一方的な態度のことだ。
相手の心情を察することは、先ず相手の存在、その人格を認識することであり、それが無ければ、心の内を察することなどできない。自分の思い込みで、一方的に好むだけならストーカーだ。

セクハラにならないためには、相手の心情を察すると同時に、自分の本音も直視する。何か行動を起こす前に、それは仕事上の必然か、常に自らに問いただす。
「その服、よく似合っているね」を、『職場をスムーズにする潤滑油』だからと思うのは、自分の思い込み、決めつけに過ぎない。状況によって相手は、「個人的な感性の世界に踏み込まれた」と、思うかも知れない。自分の気分次第で、余計なお世話はしないことだ。ましてや、好かれようなどと思わないことだ。

上司の前ならしない、自分の「気分次第」の言動こそが、相手の人格無視であり、相手が女性であれば、セクハラの種になる。
「ルールを決めてくれ」とは、自分で、相手の心情を察する気がないからだ。
相手の心情を察する気のない言動。存在誇示の暑苦しい言動。すなわち、オヤジになる。

「イケメンが言えばステキ」と言うわけでもない。顔立ちが良くても無神経な男はいる。女ウケするブ男はいくらでもいる「男は顔じゃない」。肝心なのは、「何も言わない」後ろ姿か、気持ちを察する繊細さだ。仕事だけで勝負しようと思うなら、女と個人的な繋がりを求めないことであり、コミュニケーション云々をいうのなら、トコトン心情を理解することだ。

だが、しかし、ちょっと待てよ・・・???
職場の男性の部下に、上司が、ここまで気を使っているだろうか。一々心情を察して仕事をしているだろうか。上司は大げさに言えば、部下の生殺与奪の権利を握って仕事をしている。信頼関係は大事だが、何よりも、部下の長短を見極めて使うことが第一義だ。
仕事以外の事に触れて、気分を害されたとしても、それで直ちに、パワハラの心配をすることはない。
人が共同作業をしようとすれば、多少の摩擦は付きものだ。だから、飲み屋で「あの課長の野郎・・・」などと、憂さ晴らしをする。
ところが、近頃の若い世代は、飲んで憂さ晴らしなどしない。デジタル社会で育った世代は、人間の「いい加減さ」と付き合うコツを知らない。全て完璧か、ダメの二者択一で、恋愛の曖昧さや失敗を嫌い、恋も結婚も避ける。上司の人間的欠点も許せない。終いには、拳銃を持たせれば、いきなり撃ってしまう。人生は仮想ゲームではない。

セクハラの訴えを、全て認めることを当然とする風潮は、動物愛護協会や子供を盾に取る母親のような、反理性的なヒステリー現象であり、曖昧だからこそ成り立つ人間社会の、「道理」を引っ込めることになりかねない。
色々なハラスメントがあるが、完璧を求めるのもまた、パーフェクト・ハラスメント「パーハラ」ではないのか。人間も社会も、毒や菌を徹底的に取り除くと成り立たなくなる。取り除くことより、いかに調和するかが重要なことなのではなかろうか。

それを良いことだとは言わないが、ほんの少し前まで、ほとんどの日本人には寄生虫がいたし、花粉症など気にしなかった。職場にも町内会にも女子の尻を触る助平オヤジがいたが、女子同士で笑い飛ばしていた。今でも、お笑いの大御所達はセクハラジョークをウリにしている。