魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日馬富士

2017年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

「馬」は射手座の象徴だが、射手座・土星の末期症状は日馬富士にまで及んだようだ。
日馬富士個人としては、牡羊座の天王星の影響だが、世相としては「馬」問題として現れた。
「馬」問題はラスベガス乱射事件でも見られるが、夏にはO157食中毒の群馬工場などもあり、近年、がんばっている「馬」のつく事柄には思わぬ問題が起こる。
射手座の事柄には自転車もあり、中国でのシェア自転車ブームや日本での自転車店の乱立にも、同様のことが起こりそうだ。

しかし、それにしても、日馬富士はかわいそうだ。暴力はイカンということは良く解るが、素人に手を出したわけではないし、正義感の度が過ぎたわけで、モンゴル文化と力士同士ゆえではないのか。そしてそれが、モンゴル力士の強い一因かも知れない。
また、日本の伝統という点から、横綱の品位と言うのなら、貴乃花の相撲界への反乱のやり方も、伝統を疎かにしている。
貴乃花は相撲界の改革のためと、正義のつもりでいるようだが、和をもって説得し、徐々に進めていくのが、日本の伝統というものではないか。思う通りにならないからと、非常手段に訴えるのは、自分の考えだけしか認めない、それこそが独裁思考だ。

相撲は柔道や空手と違い、日本の宗教文化と一体になって、国内で伝統を守ってきた。そこに、海外からの力士を養成し、興行としての活力を維持してきたわけだが、モンゴル人ほど日本の相撲に馴染む民族はいないと思う。
神に奉納する相撲の源流自体、天地に捧げるモンゴル相撲とルーツを同じくするのではないかと思える。

ルーツがどうであれ、モンゴル人にも仏教や武士道のような、他者と道理への敬意を感じる。もちろん、大陸的で無神経そうな所はあるものの、おそらく、日本人が最も馴染める人々なのではなかろうか。モンゴル力士ばかりで情けないという人もいるが、強い存在があれば、日本人も強くなる。モンゴル流が広がれば、古来よりの相撲の本質が甦るかも知れない。

そう思っていたので、今回の引退は、心底日本に馴染もうとしていた日馬富士が気の毒でもあり、残念としか言いようがない。潔さまで日本流を貫いた、日馬富士に乾杯!