魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

本来の姿

2014年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

都議会のヤジ事件は、ますますお祭り騒ぎになっている。
海外報道は、待っていましたとばかりに「女性差別」を話題にする。
それを聞いて、「恥ずかしい」と言う人が続出。
騒ぎに便乗して、卵を投げ、「わたしが投げました」と、名乗り出る「たまっシー」まで現れる始末。

ヤジられた本人も、大所高所からこれを政治利用して、自分の政治テーマのキャンペーンを張るどころか、謝罪騒動に終始している。
この都議、どこかで見た顔だと思っていたら、さんまの「空騒ぎ」に出ていたらしい。
何のことはない、「空騒ぎ」の仕掛け人タレントだ。
事の本質より、マスコミを巻き込み騒ぎだけが大きくなっている。

待ってました、不思議の国
世界は常に、日本は「特殊」だと思いたがっている。
それが好評価にもなれば、嫌悪感にもなる。
日本列島は、始皇帝の古より、マルコポーロの見聞録まで。始めから「不思議の島」なのだ。それを一番、解っていないのが日本人だ。

欧米人はむしろ、本当の日本など理解したくない。
中国起源の男尊女卑も、ことさらに不思議の島の異文化として見ようとする。 「ほら、やっぱり!」、と。

牧畜文化から生まれた一神教では、イヴはアダムのカケラに過ぎない。その神からの解放のためには、女も男と均等でなければならないと思い込む。イヴも、「アダムのように」完全でなければならないと。
(男が女より上とする、自らの前提に気づいていない)

そして、もともと神のいない日本の男女対等意識を理解できず、とにかく物理的に均等にしろと迫る。(自分たちのように)
一方、日本でも、欧米に順応するための教育で、即物的理解しか学ばなかった人々が、機会均等を唯一正しい方法だと信じ込む。

欧米式に開化しなければならないのに、欧米に笑われて「恥ずかしい」と、明治政府のように何でも猿まねを唱える。
欧米が批難する日本のあり方が、何故そうなっているのか、考えようともしない。日本の男尊女卑は中国式の表面的な模倣に過ぎず、実際には根底に、卑弥呼の母系世界が脈々と流れている。

母性原理の甘え文化
日本は、形式は中国の男尊女卑で男を立てながら、実際は母性を頼りとする、女任せの社会だ。
その現れが、家計を女が管理し、子育ても近所づきあいも全て女の自由であり、男は飲んだくれたり、遊びほうけていたりして、その管理と許可も女に委ねている。

核家族化の中で、育メンやら家事手伝いが素晴らしいことのように騒がれているが、それは、欧米のように、先ず男が強く、それと「同等」に女が強くなった社会だからこそ可能なことであり、女の積極的社会参画の意識が強いから可能なことだ。

日本のように、男女の役割分担意識が根強く、財産管理は女の特権のような国で、男女機会均等のかけ声だけが発言権を持つと、あらゆる場面で男は搾取され結婚もできず、女だけが金を貯めて海外旅行に行くような現象が表れる。その上、家事、育メンを強要されたのでは、男が結婚したくなくなるのは当然だ。

稼いだ金は全部女に管理される家畜のような仕組みでありながら、喜んで働くのは、「男は偉い」の立前で成り立っているからであり、女もまた、昔は重労働を良くこなした。それは役割分担だった。

しかし、西欧式の対等意識だけが浸透し、男の立つ瀬が無くなると、進んで服従しようとする男と、男の名前だけに執着する男に二分される。変革時に、第三の新しい道を探ることができない人々だ。

近頃、「男の○○」が流行るのも、むしろ、男が失われたからだろう。
また逆に、マスコミでは「男」や「女」の呼称を葬り去るために、犯人は「おとこ、おんな」と呼び、被害者や良い人を「男性、女性」と、意識して使い分ける。これは単に、日本的な男女意識の撲滅運動だ。

楽な生き方が最善のあり方
日本での男女のあり方は、西欧の価値観と日本古来の価値観を「和洋折衷」させるのが良さそうだ。
それは、政治経済のあらゆる制度にまで関わる問題で、一朝一夕には行かないが、少なくとも、認識と意識から変えることはできる。

そのためには、西欧かぶれや、国粋主義者の思い込みから離れて、もう一度、日本人は古来よりどういう男女関係にあったのか見つめ直してみる必要がある。また、それを広く海外にも知ってもらわなければならない。これは食文化と同じことだ。

なぜ古代中国は、日本の男女混在の酒席を野蛮としたのか、なぜ西欧は男女混浴を野蛮としたのか・・・なぜ、日本人にとって、それが当たり前だったのか。そして、その意識は本当に消滅してしまったのか。