魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

宗教戦争

2013年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

ぶっ飛ぶとはこのことだ。
ブルネイで、久々に日韓外相会談をしたそうだが、この席で、韓国外相が「歴史は魂だ」と論じたそうだ。

今さら言うことでもないかも知れないが、歴史、歴史と言う国にとっての歴史とは、科学ではなく「魂」という「心情問題」なのだ。

今日の日本人は、歴史は基本的に科学であると認識している。
事実の検証を積み重ね、そこから導き出される仮定が歴史であり、その仮定が覆される事実が発見されれば、仮定の歴史は変わることを知っている。

その仮定を見つめ続け、今と未来を考える手がかりにするのが歴史というものであって、確定事実を元に未来を考えるものではない。
ああかも知れない、こうかも知れないと、真実を追究する姿勢から、生きること、行動を選択することを考える。それが歴史の真の意義だ。

歴史を「魂」と考えるのは、過去を確定事実として信じることで自らのアイデンティティを確立することであり、事実の検証は関係ない。
これでは、歴史という名の「神話」だ。

百年近く経とうという時に、自らの「信じる」歴史に口を入れさせず、ひたすら認めろ、と言うのは、文字通り「魂」は勝手だろうという、思想信条の自由で、だからこそ、同次元の対極にある靖国に、烈火の如く怒るのだ。
中韓の言う「歴史問題」とは、まさに、宗教戦争なのだ。

であるならば、日本は、彼らの言うことには、ご無理ご尤もと言って、一切、無視すべきであり、宗教論争に巻き込まれるべきではない。
つまり、彼らの信じている神話を正す必要など全くないのだ。

彼らの宗教はおかしいと言うから、躍起になって、世界中に信教の自由を傷つけられたと言って周るのだ。
これまでの日本は、敗戦の憂き目もあって、そのように大人の対応をしてきたのだが、
近頃は、言わせておけば、自らのアイデンティティが傷つくと焦る、クールジャパニストが増えて、宗教論争を始めた。

これがバカげた泥仕合であることは、中東を見ていればよく解るのだが、当の中東の人にとっては、やはり譲れない、命がけの問題なのだ。

アメリカが日本に呆れるのは、今さら連中と同じバカを言うのか、
「日本よ、お前もか」という、嘆きだろう。