魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ハーメルンの笛吹

2006年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

混乱の大通りで笛を吹き、人を集めて連れて行ったのがオウムだ。政治がビジョンを語らず、世間が金や学歴など、目的を忘れた尺度に狂奔している中では、求道「ごっこ」でも充分に人が集まった。
情報過多で、サイバーと現実の判別が付かなくなった人間には「ごっこ」は現実だ。マトリックスまではいかなくても、プロレスに興奮して心臓発作で死ぬ人はいる。仮想に騙されるのではない。仮想に生きたいのだ。
80年代。占いをやっていると、九州なまりの数人の若者がやってきて、真理を求める方法を問いただそうとした。占い師なら何か仙術のようなものに通じているのではないかと期待したらしい。生身の人間が人間を超える方法など信じないと言うと、バカにしたような不満半分の顔で、「数日断食して座禅していたらバッと光が飛び込んできた体験をした」と言う。思わず「そんなものが、あなたの言う悟りですか?」と問い返すと、全員あきれた顔になって黙って席を立った。彼らは求めていたのだ。求めるべきものを・・・。
オウムが巷に現れるようになったのは、それからしばらくしてのことだった。
世間はみな、麻原を早く死刑にしろと思っている。しかし、決して死刑にしてはいけない。ブザマな死ニザマを看取るべきだ。麻原が死刑になって100年後。世間が完全に忘れ去った頃になっても、信者の末裔は何らかの形で教義を守り続けている。完全に忘れ去られた事件から離れて、美しい殉教物語を紡ぎ上げ、無垢の人々に広めようとすればどうだろう。膿んだニキビは、潰せば膿が飛び散って顔中ニキビになることもある。


日本人工場

2006年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

システム生産されるのは先生だけではない。学校や会社の金型で日本人が造られる。型にはまらないやつは無理矢理押しつぶすかはじき出す。そうこうしているうちに、金型製品が役に立たないバブル崩壊がやって来た。金型製品が役に立たなくなり、歴史文化が育てた手作りの日本人もすでに途絶えていた。
そこで、これではいかんと、「美しい日本人」をつくる新しい金型を造らなければならないと騒がしい。しかし、手工芸モデルがここまで崩壊してしまっていると、明治日本が江戸人をそのまま加工したようには成形できない。皆そのことは解っているから「なにか根本的にやりなおさなければ」と言うが、結局はルール改正しかできない。
もはや、金型の問題ではなく、材質の問題なのだ。素材を造るということは気長な一次産業だ。太陽を仰ぎ、雨に濡れ、風に吹かれる皮膚感から育てるしかない。数年前、童謡を聞いた学生が「怖い」と言った。多分に恐怖映画の過去世のようなイメージがあるのだと思うが、50代以上が懐かしがる感性も、恐怖をあおる素材でしかない。そいう現実を踏まえるべきだ。
唱歌も童謡もない今。情報社会が日本人の素材を造っている。いまさら砂のような心を金型にはめても崩れ去る。テレビやネットという無制限の大道りで、無理に取り締まろうとすれば、人は去るだけだ。
無秩序な大道りに秩序を生むものはイベントだ。珍しい大道芸の周りには人が集まりそれなりの秩序が生まれる。規制や命令よりも、多くの人を引きつけるビジョンと、皆が賛同して復唱したくなるような言葉が大切なのだ。昔の童謡や童話の主人公は必ず「気は優しくて力持ち」「弱きを助け強きをくじく」だったが、今なら槇原の歌などそういう役割を果たしているのかも知れない。


先生工場

2006年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

先生って何だろう。先に生まれた人ではないことは確かだ。昔、カナダの移民学校で、韓国人の生徒が「teacher」と呼ぶのを英語の「先生」が名前で呼ぶように訂正したが、彼はいかにも呼びづらそうだった。
漢字圏の人間にとって「先生」とは「教える行為をする人」ではなく、全人格的に「教えを賜る」偉い人という意識が付随する。「先生の国」中国から近いほどその意識は強く、離れて、東京のあたりまで来ると「先生と言われるほどのバカでなし」ということになる。
関西の「センセ」と関東の「センセイ」とは、先生様とセン公ほど違う。
近頃の上方ナイズで、どうも関東のセンセイに「センセ」が入り込んでいるようだ。国会の討論で『テメエこの野郎』と言う代わりに「ただいま先生ご指摘の・・・」などとイヤミにうそぶいている。
ほんの少し前まで、関東では「先生」はやや失礼な感があって、慣例的な学校の先生や医者以外、弁護士などには「○○さん」の方が個人に対する誠意と敬意を感じた。普通の関東人は「関西弁は嫌いだ」とバッサリ言っていた東西文化断絶の中で、東京の「先生」は文明開化ですでに英語的teacherに進化していたのかも知れない。
先進的な東京で「先生」の地位が低いのは、もともと江戸は職人の町で、先生より棟梁や親方の方が尊敬されていたうえ、明治以後の教育システムで「先生」が機械的に量産されるようになったからだろう。日本の教育システムによる先生は、マイスターのような人を育てる一貫教育が、受験によって断絶してしまっている。
それでも、徒弟制が残っていた戦前まではシステム生産の先生も聖職と呼ばれ、授受の双方が敬意を払っていたが、魂の入らない量産品の賞味期限が切れてしまった。
今では職業名の付加価値だけが形骸として残り、世間はバカにしながらも先生に期待し、工場生産の先生の方は付加価値のプライドだけを守ろうとする。


鏡の時代

2006年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

一方的な報道には、今の日本人は「それほどバカじゃありませんよ」と自負しているから、適当に突っ込み、修正しながら聞いている。
つまり、「どうせ、報道は人為的なもの」という常識がある。この感覚が、制作する立場になると逆に、「やらせ」をすることに疑問を持たなくなるわけだ。

戦後60年、21世紀に入ったが、世紀末はいまだ満開だ。
情報過多によって情報に鈍感になり、現実に対しても鈍感になった。その結果、思い込みによる行動が「フツウ」になった。
新聞・TVの一方的な情報提供は信じないから、自分の判断で情報を取り入れる・・・つもりになる。ところが、その判断基準たるや、ネット情報という流言飛語だ。ネットに浸っている人間は自分の情報基準を疑わない。
聖書を批判すると、信者は聖書の言葉で反論する。

ゲームなど、自己中世界での人格形成も多分に影響しているのだろう。自分の知識を常識と思い込む。
社会的人間なら自然に身につける「知の錬磨(=現実感)」がなされないまま思想する。ダイヤの原石がそのままカットダイヤと同じ価値があると思いむ。
極端な例は、フライトシミュレーターで練習したからジャンボで飛べると思い込んだ、笑えない事件があるが、近頃の社会現象のすみずみに浸透している。

殺人も自殺も現象でしかない。意味がわからないから、一度やってみたいと思い、気楽に行う。ゲームのサイバー殺人と現実とが区別できない。
昔は、偉人や小説の主人公が自己実現のモデルだった。書物の人物を、自分の経験から思い描いた。
しかし、アニメやゲームの人物は始めから視覚的に存在し、経験や現実で思い描く余地がない。しかも、役者の人間くささがない。
キャラをそのまま自分の人格にするような人が増えているから、世界そのものがサイバー化している。


時の異邦人

2006年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

過去に関するニュースで、「けしからん、ひどい」と報道されることがある。
それは確かに「ひどいこと」なのだが、時代背景や価値観に一言も触れずに流されると、うんざりする。

時代というものは一つの異文化だ。
実際にわれわれがそこにいた時間であっても、違う呼吸をし、違う景色を見ていた。
古い映像を見ながら、何であんなに夢中になっていたんだろう、とおかしくなることがある。

インデアンと勇ましく戦う西部劇も、アフリカのハンティング映画も、今の人が見ればとんでもない映画だが、昔はみな喜んでみていた。捕鯨禁止を声高に叫ぶアメリカの名作は「白鯨」であり、黒船の開国口実も捕鯨だった。

公娼制度があった頃の古典落語など、今の感覚なら悲惨で聞くに堪えないが、当時の人には当然で、みなが面白がる噺だった。

人間社会に条理を求めれば不条理に出会う。
社会は元来、不条理の秩序によって成り立っている。一つの社会の側から、時間や地域を隔てた、他の社会の不条理を裁くことなどできない。太平洋戦争で日本の勘違いは世界に神社を建て、皇居に向かって拝礼させようとしたことだろうが、当時の日本人としては、当然の親切で「良いこと」だった。

この間違いが解っているつもりのアメリカは、スタートレックで「他の文明に介入しない」とか、タイムマシンで過去を変えないとか、普段は立派なテーマを語りながら、実際には世界にアメリカン・スタンダードを広めようとする。近代化、民主化・・・みなアメリカの親切心だ。

風邪をよく引くからと、ちょっと昔の子供はたいてい扁桃腺の手術をされたものだが、今の価値観で当時の医者を訴えるだろうか。
「昔あいつに殴られた」という話が幼稚園での話なら笑い話だろう。

違う価値観、違うルール、違う状況は、知るべきではあるが、裁くものではないはずだ。