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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



私がずっと大切にしているビデオの中に、
94年の「青山バレエ・フェスティバル」の録画がある。
NHKの放送で、『パ・ド・ドゥの魅力』という題がつけられ、
当時の日本の新進ダンサーたちの踊りが何組も収録されている。
青山バレエ・フェスティバルは、確か毎年開かれていたけれど、
99年だったか、何かの区切りで終了することになったのではなかったかしら。

さて、このときの出演者が、今見ても大変、素晴らしい。
最初が、酒井はな×小島直哉の『ドンキホーテ』、
続いて、古谷智子×佐々木陽平の『ゼンツァーノの花祭り』、
平山優子×森田健太郎の『エスメラルダ』(これがかなり評価が高かった記憶あり)、
そして、榊原弘子×久保紘一の『ダイアナとアクティオン』。
私は、このときの久保紘一が物凄く気に入っていて、
日本人の男性ダンサーに関しては、私的にひとつの理想型と言って良い、
大変に鮮烈な踊りで、体型の難(すみません)を越える表現力に恐れ入った。
このビデオを今に至るも持っているのは、
久保紘一のアクティオンを保存しておきたいがため、と言っても過言ではない。

で、最後が宮内真理子×熊川哲也による『バヤデルカ』。
このふたり、とくに熊川哲也は当時既に、人気ダンサーだったので、
華やかなメンバーの中でも殊更、トリを務める構成になったのだろうが、
この録画に限って言うならば、正直なところ、
ふたりとももっと踊れた筈なのに、という残念さが、今も、私にはある。
容姿も技術も人気も、申し分のないダンサー同志が組んでいるにしては、
パ・ド・ドゥらしい充実がないというか、なにかよそよそしいというか。
かたやコロラド、かたやロイヤルから急遽帰国しての、
にわかパートナーだったという弱さが、前面に出てしまったのだろうか。

……というようなことを、私は心の中で思っていたが、
決して、口に出して言ったことはなかった。
が、昨夜、録画を見ていた私に向かって、通りすがりの主人が、言った。

「あんたみたいに、ぶひっとした体型の人が、
コタツで菓子を食いながら、バレエ評論家やっとる、
というのはなかなかの図やな」

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モーリス・ベジャールが、来年、
東京バレエ団の名誉芸術顧問に正式に就任する。
それを記念して、3月下旬に二種類のプロによる、
「ベジャール・ガラ」を上演する予定だとのこと。
Aプロで「ボレロ」を踊るのは、首藤康之。

80年初頭、「二十世紀バレエ団」が凄いと友達のひとりが言い出して、
それが私にとって、モーリス・ベジャールの名を耳にした最初だった。
81年製作のクロード・ルルーシュ監督「愛と哀しみのボレロ」が日本に来たとき、
我々はそれを狂喜して観た。
初めてまともに目にしたモダンバレエの世界は、
私のそれまでの舞踊という概念を完全に覆すほどに強烈だった。
ドンの踊るボレロは、とても孤独で、そしてあまりに鮮烈だった。
あれほど自分を追いつめ、孤独を極限まで究めて昇華させたような舞踊を、
私はそれまで観たことがなかった。
単調なボレロのリズムに乗って繰り広げられるものが、
古典のマイムの助けさえ借りていないのに、
かくも雄弁であり得るとは、思いも寄らないことだった。

これより十年ばかり後、私は東京バレエ団の高岸直樹が、同じボレロを踊るのを観た。
高岸の美しい容姿に、この舞踊は、意外なほどぴったりと似合い、
しかも思った以上に華やかな作品として見栄えがした。
高岸直樹が踊ったものは、求心力のある、輝く躍動感に満ちたボレロだった。
作品的な熱さ・激しさはドンのそれに勝るとも劣らなかったが、
高岸の、観客を充分に意識したアピールは、
ドンの孤独なボレロとは、全く次元を異にしたものだった。
高岸直樹は、天性のスターダンサーなのだと感じた舞台だった。

ちなみに、ジョルジュ・ドンといえば、私は、彼の最後の来日となった、
「ニジンスキー・神の道化」の舞台を、福岡で観ている。
結局、ドンは、どこにいても、ひとりでも、何を身にまとっていても、
ただ、ダンサーとして生きた、と私は思っている。
あの作品は純然たるバレエ公演ではなかったが、
女優を相手に、ひと区切りの台詞を言ったばかりのドンが、
ふと首をまっすぐに立てただけで、そっと指を逸らせただけで、
そこに「バレエ」が展開するのを、私は幾度も観た。

ともあれ首藤康之は、「ボレロ」をどのように見せてくれるのだろうか。
幾度もベジャールの指命で踊った実績のある彼だから、
今、この公演に強く興味を感じている。
日本版ボレロの決定版なるか!?

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8歳の娘が、フィギュアスケートを習ってみたい、と言った。
テレビで先日、NHK杯をちょっとだけ観たのがキッカケらしい。
ちゃんとしたスケートの勉強をさせることは難しいが、
市内の教室に行ってみることくらいは出来るだろう。

私は若い頃、娘が出来たらきっとバレエを習わせよう、と思っていたものだ。
私自身が二十代半ばにもなってから、
どうしても習いたくてクラシックバレエの教室に通うようになり、
シマッタ、これを小さい頃からやっていれば、と悔やむことしきりだったからだ。

当時、バレエに対して、私なりには大真面目だった。
大それた希望は全く持っていなかったが、
まずは自分なりに、美しいバーレッスンを完成したかった。
だが、自分で思っていた以上に、私には才能がなかった。
仕事が終わってから、週2回、市内の教室へ通って、毎回2時間のレッスン、
髪はびしっとシニヨンにまとめ、黒いレオタードに白いバレエシューズ、
気分はすっかりバレエ学校の少女だったのだが、
こちらも道楽のプロだから(^_^;)、鏡に映る自分の姿を見ると、
「駄目だ」と毎回、はっきりと思った。
トンベ、パドブレ、グリッサード、パ・ドゥ・シャ、シソンヌ・シソンヌ、
と、それなりのアンシェヌマンを習うようになった頃でも、依然として、
「バレエになっとらん~!」という私のジレンマは非常に深いものがあった。
ああ、せめて大脳が出来上がる前に、何かもうちょっとインプットしてあれば。

それで、若かった私は思ったのだ。
何がどうでも、しなやかに立つことができれば、軽やかに脚が上がれば、
少女はきっとプライドを持って生きていける。
私に娘が生まれたら、必ずバレエを習わせよう。

しかし。
私自身のバレエと同様、娘は全然、私の理想通りにはならなかった。
3歳の娘に、当時家の近くにあった貞松浜田バレエ団を見せてすすめてみたが、
「みーちゃん、やだ」と一言のもとに却下されてしまった。
日を改めて幾度か訊いてみたが、全然興味がないと言う。

娘が当時選択したのはスイミングだった。これは今も続いている。
そして今度は、フィギュアスケートに興味が…?。
なんとなくバレエに似ていなくもないが、やっぱり別のものだ。
しかし、まあ、いい。やりたいことを、やりたまへ。
それでこそ得られるものも何かあろう。

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